第163回 ロビンソン麻己さん 国連児童基金(ユニセフ)東京事務所パートナーシップ調整官
プロフィール
ロビンソン麻己(ろびんそん・まき):島根県出身。高校時代からジェンダー問題に関心を持ち、津田塾大学に進む。派遣留学制度によりエディンバラ大学でジェンダーと開発を学び、卒業後は経済産業省の外郭団体で3年間勤務する。その後IDSサセックス大学国際開発研究所へ世銀の奨学生として留学し、ジェンダーと開発の修士号を取得。日本ユニセフ協会主催のインターンシップに合格、2008年よりUNICEFエチオピア事務所でのキャリアをスタートし、子どもの保護部署でジェンダー、立案企画、M&Eに取り組み、その後コンサルタントを経てJPO合格。その後、英国人の夫と結婚し、同事務所で正規職員となる。2015年に産休のため一時帰国し現職。
Q. 国連で働くようになったきっかけを教えてください。
まず私の経歴は、他の国連職員と比較してみると決して目立ったものではありません。出身地は島根県の中国山地のふもとの自然溢れる場所で、18歳まではそちらの地元の公立学校に通い、英語は中学1年生で学び始めたので、現在のような国際的な環境とは程遠い世界で育ちました。
しかし、そこで現在の仕事に繋がる幾つかの原体験を得ることになります。小学生時代のある日、両親が自営業をしていた自宅の会社に、ひいきにしているお客さんがやって来ました。そこで、今月分の支払ができないため、野菜や米で納めさせてくれないだろうか、という話を両親に持ちかけていたのです。その当時、貨幣経済が当然の日本において、「貧困」を目の当たりにしたことに子どもながら驚きを隠せず、強いショックを受けたことを今でも鮮明に覚えています。
また、田舎でしたので、男尊女卑の考え方が根強く残っていたことも、その後の私の人生に強い影響を与えました。例えば、小学生で児童会長に立候補した時に周りから、女の子なのになぜ?といった疑問をぶつけられたり、高校進学時に島根で一番の進学校に進みたかったものの、女性だからあえて進学校に行かなくてもと言われたりしました。結局地元の公立高校に進学しますが、子どもの頃から好奇心旺盛で何にでもチャレンジするタイプだった私は、高校の時に一か月ほどアメリカにホームステイする機会に恵まれます。そしてたまたま滞在先が、家事は8割方お父さんが担当という家庭。当時の私には衝撃的でした。そしてもっと英語を勉強したいとも思いました。
その後、高校の英語の授業で、たまたま「フェミニズム」という言葉に出会いました。その時、妙に胸にストンと落ちるものがあったのです。私が求めていたものはこれかもしれない、と(決して私自身フェミニストであるというわけではないですが(笑))。そういった思想があることを知り、活動家が行動を起こしていることを初めて知りました。それが後々、「ジェンダー問題」について深く考え学ぶきっかけを与えてくれたのかもしれません。
また高校時代に私のことを目にかけてくださった当時の古典の先生が、私に常々悟ってくださったふたつの言葉があります。「あなたは井の中の蛙になってはいけない、大海に乗り出しなさい」、「知のある人ではなく、智のある人になりなさい(知識だけではなく、物事を理解し、判断する力を持つバランスのとれた人になりなさい)」です。これらは、その後、一歩踏み出す大きなきっかけとなり、今でも私の人生のモットーになっています。また、この先生の勧めもあって、フェミニズムという言葉に感化された私は、女子大学に進みました。
進学のために初めて上京して送った大学生活では、「井の中の蛙」では決して実現できなかった様々な経験を積むことになります。自分さえ貪欲になれば様々なチャンスに恵まれる環境を謳歌し、例えばボランティア、国際交流、教職免許と日本語教師資格の取得、語学留学など本当にたくさんのチャレンジをしました。そして、派遣留学制度に合格して学んだ英国のエディバラ大学では、「ジェンダーと開発」という分野を学びました。日本では当時この分野を学べる大学がほとんどなかったと記憶しています。この頃からこれまでドット(点)だったものが繋がってきます。「貧困」「フェミニズム」「ジェンダー」「英語」、私が進むべき道が少しずつ見えてきました。留学中の東欧への一人旅や、背景の全く異なる友人と日々語り合うことで世界の問題を自分の肌身で感じると同時に、世界の多様性や自分が地球の一員であるいうことを自覚することができました。
そして日本に帰国後は、将来、開発の世界に戻ることを目標にしながら、日本の経済産業省の外郭団体に就職し、ジェネラリストを育成するというその団体の方針により、広報、総務、国際課と毎年異動となり、「石の上にも三年」の言葉を信じて3年強仕事をしました。3年目でやっと本格的に英語を使える部署に異動でき、ラオスやベトナムで規格の調査の仕事もさせてもらえました。
Q. 日本で国際協力とあまり接点のない仕事をすることに対してジレンマを感じることはありましたか。
目標とその当時置かれている環境との差にもちろん不満を感じることもありました。しかし、当時得た様々な職務経験は今振り返ってみれば決して無駄ではありませんでしたし、素晴らしい出会いにも恵まれました。例えばその後、世界銀行の奨学金を得て英国の大学院に進学したのですが、その際に奨学金の応募を進めてくださったのは当時の上司です。また、他の上司からも仕事にあぶれたらいつでも連絡してくれ、と(国連の世界は厳しいですからね)冗談半分で今でも気にかけてくださっています。でも今思えば、その時のジレンマが、自らを再び国際協力の世界に戻してくれる原動力になったのかもしれません。
Q. 大学院では何を学びましたか。
再び、「ジェンダーと開発」を学びました。進学先のIDS(サセックス大学国際開発研究所)の修士課程は比較的実践的な授業が多く、研究手法やM&E(Monitoring and Evaluation:モニタリング評価)についても勉強できたことは、その後の仕事にも大いに役立ちました。
また、第3代UNICEF事務局長のジム・グラントのリーダーシップだった時代にUNICEF事務局次長を務めた開発経済学者のリチャード・ジョリー名誉教授とのIDSでの出会いもその後のキャリアを後押しするきっかけとなりました。ある日、彼の授業で私たちのグループがプレゼンテーションを担当したところ、その内容を教授はとても褒めてくださいました。後日、依頼されて発表データを渡したのですが、グループを率いていた私にそのお礼として、ジョリー教授他関係者が共同執筆でジム・グラント氏を語った書籍を贈ってくださったのです。
しかもジョリー教授から私宛の直筆メッセージ付きで。「あなたにはUNICEFの伝統とビジョンを引き継ぎ、遂行していく手助けをして欲しい」と。当時、私自身ちょうど日本ユニセフ協会主催の海外インターン事業に応募していたので、そのメッセージに大変勇気づけられたのを覚えています。今でもその本を大切に持っているんですよ。そして、インターンシップ事業に無事に合格し、念願叶って、2008年よりUNICEFエチオピア事務所でのキャリアをスタートさせました。
Q. 現地事務所ではどのようなお仕事を担当されましたか。
アディスアベバ事務所のADPH部署(Adolescent Development, Protection and HIV/AIDS部門)で子どもの保護の仕事を4か月間担当しました。本部署は特に脆弱な立場におかれている子どもや青少年、そして女性の保護に焦点を置き、国家の社会保護システムを確立することを目的とする枠組みの中で、能力開発、生活技能訓練、参加の促進、そして虐待や搾取から子どもたちを守ることに重点を置いています。インターン期間中は、インターンという立場にもかかわらず、様々なプロジェクトを任せてもらいました。例えば、遊びを通したコーチング指導を行うワークショップの企画・開催、ユース・インターンシップ・プログラムのモニタリング評価など、裁量の大きい仕事から多くのことを学べる有意義な経験でした。
インターン終了後は幸運にも同事務所からそのままコンサルタントとして契約することを打診されました。もちろん引き受け、5か月間コンサルタントとして引き続きプロジェクトに参加した後に、当時受験して合格したJPOでも同じ事務所に派遣されたので、現地で勤務を続けることができました。当時20代後半で、結婚をしたのもその時期です。JPOとして赴任してからは、部署の横断的な分野全般(ジェンダー、計画立案、M&Eなど)を担当しました。キャッシュトランスファープログラムの立ち上げ、他国連機関とのジェンダー共同プログラムの遂行や評価、他国連機関とのM&Eテクニカルワーキンググループでの活動、州ごとに政府との年次計画書を立案するグループの国連側のリーダーを任命されたりと、今思えば経験の浅かった私に上司や同僚は多くの仕事を任せてくれました。
Q. 家庭と仕事の両立に不安はありませんでしたか。
国連職員の場合、家庭との両立は大きな課題となる場合が多いです。しかし、私の場合、英国人の夫が開発学を勉強してから当時NGOの仕事に就いていて仕事への理解があったので、特に不安はありませんでした。むしろ一緒に切磋琢磨していけるかなと期待の方が大きかったですね。さらに言わずもがな、家庭での様々な権限はお互い平等にあり、家事は分担するのが当然という価値観をもつ夫です。幸いなことに、私がJPOでエチオピアに派遣されると同時に、一緒にエチオピアでの生活を始めることができました。現地で彼も国際機関に勤務し、日本に帰国した今、彼は日本をベースに国連のコンサルタントとして仕事をしています。彼のサポートなくして家庭と仕事の両立はあり得ません。
Q. JPOでの2年間が終わった後は、どのようなキャリアを歩まれましたか。
JPO終了後には、また運良く同じUNICEFエチオピア事務所の保健部署の正規職員として採用されました。その時の面接は同じ事務所のメンバーが担当者だったのですが、UNICEFは採用時に内部職員も他の候補者と平等に扱うことをモットーとしているため、同じ建物内の別室から電話で面接を受けました。この部署は世界のUNICEF事務所の中で最も大きな資金規模を誇る部署のひとつで、大きなスケール感の中、保健分野における計画立案、モニタリング評価、部署内のユニットのコーディネーションなどを担当しました。また異動した2012年はちょうどUNICEFの基幹業務をサポートする情報システムがリニューアルされた年で現場は大混乱。このシステムを用いてのプログラムモニタリング体系の確立に部署の中心となり暫く奮闘しました。またこの頃からドナー側のモニタリング評価に求める目が以前に増して厳しくなります。部署内の資金管理や報告書、M&Eの質管理を一手に任され、責任のある仕事をさせてもらいました。異動の激しい国連機関ですが、エチオピア事務所に勤務した7年間で7人の直属の上司の下で働きました。しかも皆国籍が異なり、マネジメントスタイルも三者三様。鍛えられました。
Q. お子さんがお二人おいでとのことですが、どのような時期にご出産されたのですか。
正規職員としてエチオピアで勤務を始めてから長男を妊娠、日本で出産しました。当時は、産休期間が16週間あり、日本に一時帰国しましたが、母乳で育てることを希望していたため、1か月の期間延長を経て、生後5か月の息子を連れてエチオピアに戻り、職場復帰しました。そして、次男は昨年の3月に日本で産まれました。当時、UNICEFでは他の国際機関に先駆けて産休期間の見直しがあり、24週間に延長されたため、前回より長く休暇を取ることができました。日本で産休期間が終わった後には、エチオピアに戻る予定でしたが、一時的に他の地域のポストに出向して任務にあたる制度を活用して、昨年秋にUNICEF東京事務所に赴任することになりました。UNICEFは子どもが2歳になるまで、授乳休憩が1時間確保されています。また授乳目的等で出張に2歳以下の子どもを連れていく場合、職員の出張手当の10%が子ども同伴のために上乗せで支給されます。働く女性、そして子どもに優しい組織です。私も長男は何度か出張に同伴しました。衛生環境の好ましくない地域への出張もあり、ナニー(乳幼児保育をフルタイムで担う人)を連れて、完全装備で大荷物での大出張でした。
Q. エチオピアと日本での子育てを経験されましたが、比較してみてどう感じられますか。
まず、日本は本当に便利で住みやすいと感じる一方で、待機児童の問題など、自分が日本で母親になって初めて経験する問題に直面しています。途上国で働いていると、ナニーを雇いサポートしてもらうことも容易に可能ですが、まだ日本では保育費の高さなどが原因で、母親の子育て方法に選択肢が少ないという問題を身を持って感じています。子育てのサポート体制に容易にアクセス出来、利用出来るかは、働く女性にとって鍵ですね。我が子も待機児童であり、エチオピアの方がこういった意味では子育てしやすいです。常にプロフェッショナルな成果を求められる競争社会の国連ですので、子育てのサポート体制が整っていない中での現在の日本の生活は決して楽ではありませんが、夫の献身的なサポートにより乗り切っています。
Q. 日本事務所でのお仕事の内容を教えてください。
現在、パートナーシップ調整官として勤務しています。カウンターパートである外務省と仕事をしながら、予算確保、アドボカシーや国事務所と日本政府との連携調整などを担当しています。そこで強みとなっているのは、自分で積み上げてきた現場経験だと思っています。普段業務を共にするカウンターパートや職場の同僚の中には途上国経験があまりない方もいるので、彼らと話すときにはなるべく現場での経験を伝えるようにすることにより、業務に役立てていきたいという思いで仕事をしています。
Q. これからのキャリアプランについてはどうお考えですか。
キャリアは自然と後からついてくるものなのかな、と最近は思うようになりました。それは、子供が生まれて家族が自分の人生の中で一番大切なものだと改めて認識したことがきっかけなのかもしれません。例えば、職務では、代理職員を活用することが可能ですが、母親の場合それは適用できませんね。自分の子どもの母親は自分しかいないのです。そのため、今は子育てを楽しみながら、国連職員としての仕事を全うしたいと思っています。ただフィールドにまた赴きたいという想いはあります。現場あってのUNICEFの仕事ですし、受益者と直接関わることの出来る醍醐味は何にも代えられませんから。その一方で、久々に日本に住んで現状を顧み、日本の子どもの貧困、少子化、ジェンダーなどの問題解決に向けて貢献していきたい気持ちがあるのも事実です。
Q. これからの世界で実現されるべき社会はどういったものだとお考えですか。
人々が平等であり、機会が均等に与えられる社会だと思います。平等な医療へのアクセスという点で言えば、エチオピアでは全ての病院が満足に機能していないため、妊産婦や乳児が危険にさらされるケースが少なくありません。実際に私も、次男を妊娠した際に他国の病院まで赴いて検査をしなくてはならなかった経験があります。将来は、住む場所に左右されず、モノやサービスに人々が平等にアクセスできる社会を実現できるよう、国連職員として貢献できたらと思っています。
Q. 最後に、これから国際社会を舞台に仕事をしたいと考えている人たちにメッセージをお願いします。
私の経験から、国連職員を目指す上ではぜひ専門性を身につけ、人との出会いを大切にしてもらいたいと思います。国連は、専門性がないと生き残れない世界ですし、また自分自身の経験上も、ネットワークに助けられた経験は幾度となくありました。エチオピア事務所での勤務中は、私は常に若手でしたが、日々与えられた仕事を地道にこなし、人との出会いを大切にすることを心掛けていたら、インターン時代から正規職員としての仕事を掴むまでに素晴らしい機会に恵まれました。そのため、自分のコアとなる信念を持ちながら、自分の直感を信じてチャレンジする、それに尽きると思います。
あとは、今できることを全うしてほしいと思います。年齢を重ねると共に様々な制約も増えてきます。女性であれば、もちろん子育てをしながら国連職員という仕事をすることも可能ですが、危険な地域への赴任や国外への出張など体力的に厳しい仕事を全て避けることは難しい。そのため、若いうちに、例えば家族同伴で赴くことの出来ない緊急援助を要する国での職務経験など、今しかできないことをすることも大切かなと私自身の経験から思います。
2015年3月10日東京紀尾井町にて収録
聞き手と写真:長川美里、並木愛、田瀬和夫
編集長:田瀬和夫
原稿起こし等:並木愛、長川美里、田瀬和夫
ウェブ掲載:田瀬和夫