第167回 須賀正義さん 国連広報局(DPI)マルチメディア プロデューサー

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プロフィール

須賀正義 (すがまさよし); 早稲田大学教育学部英語英文科を卒業後、2000年まで英字紙朝日イブニングニュース記者。2000年から2001年までCNNの日本語ニュースサイト編集者。2004年、米ジョージア州立大学で経営修士号(MBA)を取得。2005年から2012年、日本経済新聞アメリカ社でニュース翻訳者。2012年3月に国際連合事務局・広報局ニュース・メディア部の「会議報道課」に入り、2016年2月UN News Centreのマルチメディア プロデューサーに就任。

Q. 国連広報局(DPI)で勤務される以前のことを教えてください。

漠然と国連のような世界に貢献する仕事に就きたいとは思っていましたが、大学在学中は教師を目指していました。卒業後は、英字紙「朝日イブニングニュース」を発行する英文朝日社(後に解散)に就職し、約11年間勤めました。入社一年目は記事の校閲をやり、徐々に記事を執筆したり、朝日新聞の記事を日本語から英語に翻訳するようになりました。今でも宝物としてとってありますが、初めの頃はデスクが鉛筆で手を入れると、原稿は余白がなくなるほど真っ黒になり、自分が書いた文章はほぼ残っていませんでした。小さな組織だったので、政治、経済、社会、スポーツなど多岐にわたる分野をカバーする機会に恵まれました。思い出に残っているのは阪神大震災、長野オリンピックや戦後50周年特集の取材を担当したことです。

英文朝日社では大変充実した日々を送っていたのですが、年齢が30代半ばに差し掛かって、アメリカに行きたいという思いが強くなってきました。そんな時、新聞の求人欄でCNN日本語ニュース編集者の求人広告を見つけました。勤務地は米国ジョージア州アトランタ。興味は持ったものの応募を迷っていると、妻が「応募しないの?」と背中を押してくれました。応募すると選考は順調にいき、採用に至りました。英文朝日社を辞めるとき、信頼していた先輩に「アメリカの会社は解雇があるからリスクが高い。よく考えろ」と助言をもらいましたが、気がはやる私は真剣に受け止めませんでした。その忠言は後に現実となってしまいます(笑)。

Q. CNNでのお仕事はいかがでしたか。

CNNでの仕事は楽しかったです。CNN.comの日本語版(2000年4月配信開始)の5人の初期メンバーだったこともあり、オフィスの設備設置からコンテンツづくりにまで携わりました。3月半ばに採用され、4月初旬が日本語版の立ち上げ日だったので、2週間徹夜しながらコンテンツを作りました。その後、採用なども行って半年で約20名以上のチームに拡大しました。

CNNに入社してから2年目の2001年9月11日にアメリカ同時多発テロが発生しました。その様子が映像で流れた瞬間はアメリカ全土が戦場になるのではないかという恐怖心に襲われました。CNNでは広告収入が落ち込み、ITバブルの崩壊が重なり、400名以上のスタッフが解雇されました。その日会社に出勤すると、突然ダンボール箱を渡されて「荷物をまとめて会社を出てください。一旦会社を出ると、二度と会社に戻ることは許されない」と解雇を言い渡されました。まるでテレビドラマのようでしたね(笑)。

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Q. CNNを解雇されてからは大学院に進学して、日本経済新聞社のアメリカ支社に勤められています。その時の経緯を教えてください。

解雇されると就労ビザが無効になり、そのまま米国に居座ると不法滞在になります。しかし、アメリカに来て短期間で帰国するのは物足りなかったので、学生ビザを取得し、米ジョージア州立大学大学院に入学しました。専攻はジャーナリズムではなく、興味を持っていたインターネット・ビジネスに関する情報システム管理(Information System Management)にしました。妻も同じ時期に違う大学院(会計学)に進学したので学費の確保に苦労しました。幸い、私は教授のリサーチ・アシスタントの仕事を獲得し学費が全額免除になりました。

卒業後のOPT(Optional Practical Training:学生ビザ [F-1]で勉強している学生が専攻した分野と関連のある職種で、プログラム修了後に企業で一年間働ける制度)期間中はまだ景気が回復しておらず、結局約11カ月間仕事が見つかりませんでした。妻は卒業後すぐにノースカロライナ州シャーロットで仕事を見つけました。そこで、私は仕事が見つかるまで主夫をやりました。シャーロットは物価が安くて、あまりお金をかけなくても質のいい生活ができましたね。2005年7月にニューヨークにある日本経済新聞アメリカ社で日英翻訳の職を得て、仕事を始めたばかりの妻を置いてシャーロットからニューヨークに単身で移りました。妻はその一年半後にニューヨークで仕事を見つけ、再び二人三脚の生活が始まりました。

Q.日本経済新聞社のアメリカ支社に勤めた後に、国連で働くことになりましたが、その時の経緯を教えてください。

日本経済新聞での翻訳業をやっていたのは約6年半くらいです。その間、国連の近くを通って通勤していました。学生の頃から国連への憧れはあったけど特に行動には移さず、国連に応募書類を初めて提出したのはCNNを失業した後です。その後も何度か応募しましたが返信はなく、自分の実力では無理なのかと思っていました。

日経新聞時代には40代半ばに差し掛かっていたこともあり、残りの人生をどういう風に生きたいのかを真剣に考え始めたんです。朝日イブニングニュースもCNNも日経の仕事も異文化の橋渡し的な側面があり、そういうことは自分に合っていると思っていました。ただ、もっと直接的に世界や平和に貢献したいという思いもありました。そんなときに、たまたまコロンビア大学で外務省人事センターが開催していた「国際機関就職ガイダンス」に参加しました。2011年のことです。また、後日国連広報局で働いていた方と直接話す機会を得たことで自分が国連で働くイメージが出来上がってきました。1週間に1つ以上のポストに応募すると決め、最終的には6カ月で18のポストに応募しました。その中の2つから返事があり、テストや面接などを受けました。失業した時に面接のスキルを身につけていたので、 手応えはありました。そして今でも覚えていますが、その年の12月30日に歯医者にいた時に国連の人事部から電話がかかってきて(笑)、広報局(DPI)のニュース・メディア部の会議報道課(Meetings Coverage Section)の仕事をオファーされました。

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Q. 須賀さんは国連広報局(DPI)では部署内異動を経験されています。会議報道課(Meetings Coverage Section) ではどのような仕事をされていたのですか?

会議報道課には約4年いました。仕事はニューヨーク国連本部で開催される総会、主要委員会、安全保障理事会、経済社会理事会などの公式会合を傍聴し、会議の内容を要約し、英文のプレスリリースを書くことです。なかなか緊張する仕事で、会議の最中に演説を次から次へと要約して編集者に送らないといけないんです。オバマ前大統領の演説を担当したこともありました。全世界の人が見るので間違えられないし、時間との闘いでもあるのですごくプレッシャーを感じました。一方で満足度の高い仕事でした。条約や決議が採択されたり、目の前で歴史が作られていくのですから。

Q. 現在はUN News Centreに異動されていますが、なぜですか?また、そこでどのような仕事をされているのですか?

国連では違う部署に移って自分を高めていくというのは普通のことなので、私も他の仕事をやってみたいと思いポストを探していたところ、筆記試験と面接を経て2016年2月にUN News Centreに異動することが出来ました。

同センターは、国連のニュースのポータル(玄関口)です。「国連に対する理解や支援の拡大」を目的に、国連関連ニュースのコンテンツ作りとそのコンテンツの配信を行っています。各国連組織が発信するプレスリリースを選び、記事に直して、写真や映像とあわせて発信します。また、国連高官のスピーチを記事にしたり、独自のインタビュー等もやっています。

現在、我々は「緊縮財政」と「マルチメディア化」という二つの大きな時代の流れの中で仕事をしています。 緊縮財政という状況下で働くには二つのことが重要です。一つ目は効率。例えば、各国の高官が国連を訪れたときのインタビューでは、写真、ラジオ、動画、テキストの4つのコンテンツを作成し局内で共有します。

二つ目はパートナーシップ。国連人道問題調整事務所(United Nations Office for the Coordination of Humanitarian Affairs: OCHA)の広報担当の方が「広報局とOCHAがもっと緊密に連携するべきだ」と話していたことがあります。緊縮財政の中では、どこの組織も自前で全てを賄うのは難しいので、「国連広報局が持つ、幅広い多様な視聴者や読者、また多言語での発信能力、アウトリーチの機能、ソーシャルメディアの能力を利用すれば、OCHAが発信したいメッセージが拡大・増幅できる」と。このように広報局を利用してもらうことは広報局にとっても利点があります。国連の各組織ではよいコンテンツが埋もれていることがあり、広報局はそのようなコンテンツを二次利用していきたいんです。自分のところにはないリソースを利用するためには連携が必要だと思います。例えば「世界津波の日」の広報キャンペーンで、東京の国連広報センター(UNIC)から国連ニュースセンターに打診があり、私が記事を書く事になりました。 国連国際防災戦略事務局(The United Nations Secretariat for International Strategy for Disaster Reduction:UNISDR)駐日事務所やジュネーブの本部の協力を受け、コンテンツや取材先等を提供してもらいました。また、日本政府からも映像や写真を提供していただいて、企画記事を作成しました。国連ニュースセンターのサイトに掲載された記事は英語から日本語に翻訳されUNIC東京のサイトにも掲載されました。今後このような連携がますます必要になってくると思います。

マルチメディア化の状況下では、情報の消費の仕方が大きく変わり、消費者の多様なニーズに合わせてコンテンツ作りをしなければならなくなっています。ソーシャルメディアの重要性が増し、例えば人々がSNSを見る時間帯や携帯端末を考慮してコンテンツを提供する必要が生じました。ホームページに来て記事を読む人は少なくなっていて、今はSNSや検索エンジンのニュースサイトから記事にアクセスする人のほうが多い状況です。そうなると、短い動画や写真が非常に重要になってくるので、マルチメディアのスキルが求められています。

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Q. 民間企業と国連の違いはどのようなところにあると思いますか?

私が経験した日本の民間企業と国連では、キャリアの作り方の違いははっきりしています。日本では辞令が出されて異動がありますが、国連では辞令はなく、自分でポジションを見つけ応募して異動します。他には、時間の使い方、ワークライフバランスですね。よくいわれることですが、国連での働き方は柔軟性があります。

Q. 須賀さんにとって国連で働く魅力とは何ですか?

夢や理想を追求できる事ですね。一般社会では「理想ばっかり語って現実を見ていない」と言われてしまいますが、国連では真面目にそういうことをいっても場違いではありません。現実は甘くはないですが、「人間が起こした問題は人間の手で解決できる」と信じている人がいるのが魅力です。私もそのうちの一人ですからね。

あと、生涯学習ができる場であるということも魅力です。国連は学習の場やトレーニングの機会がたくさんあります。また、いろいろな人の話を聞くこともでき、勉強になります。国連フォーラムも好きなんですよ。この「国連職員NOW!」も全部読んでいます。自分が経験できないことを他人の経験から学ぶことができ、非常に勉強になります。

Q. 国連での仕事を辞めたいと思ったことはありますか?

辞めたいと思ったことはないですね。日々のレベルでは嫌だなとか思ったり、辛かったことはありますけど。辛かったのは、国連に入って最初の2年間です。信頼を獲得するためによい仕事を積み重ねていかなければいけないのと、仕事内容が自分にはしんどいと思うことがありました。ベテランの同僚は国連で扱う問題を詳しく理解しているので、会議場で慌てることはありません。自分はまだ日が浅かったので、朝早くに出勤して会議の背景に関する膨大な資料を頭に入れてからでないと会議に行けませんでした。しかも、国連に入って1カ月後に子どもが生まれ、新しい仕事でのプレッシャーと父親になることのプレッシャーで精神的にも体力的にも辛かったです。

Q. 仕事に対してのこだわりなどはありますか?

直接的でなくても、世界平和に貢献しているというプライドを持って仕事をしていることですね。その意識を保つことができれば、仕事で手を抜くというようなことは少なくなると思います。面白い仕事だろうが、つまらない仕事だろうが、それが世界平和へ貢献していくと思っていることが大事ですね。

Q. 今後のキャリアプランはどのようにお考えですか?

これからはソフトパワーの力を最大限に引き出す調整メカニズムが必要になってくると思っています。今後はそういう流れを作っていく一端を担いたいと思っているし、興味を持っていますね。

アントニオ・グテーレス新事務総長の宣誓式の時のスピーチを引用すると[1]、「私たちの最大の欠点、そしてついでに申し上げれば、国際社会全体の最大の欠点は紛争を予防できない事にあります。国連は戦争から生まれました。そして私たちはいま、平和のために存在しなければならない。・・(略)・・紛争を予防するためには平和と安全、持続可能な開発、人権という国連の3本柱を通じ、根本的な原因に取り組むことが必要です。私たちのあらゆる活動において、これを最優先課題とせねばなりません。」

国連には、テロ対策に関わっている組織が38つあります。アントニオ・グテーレス新事務総長は「テロ対策の分野における私たちの活動を検討し、関係する38の国連諸機関の調整メカニズムを改善することも必要です」と言っています。そのために事務総長は調整のための新しい部局を作ることを提案しています(新組織は2017年6月の国連総会で承認)。

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さまざまな会議で「根本的な問題」の解決が必要だといわれていますが、何が「根本的な問題」なのかを特定できていないという側面もあります。本当の根本的な問題が何かということに注視していかないといけません。ユネスコ憲章の前文に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」とある。心の部分が一番難しいです。この言葉を羅針盤にした政策が必要だと思います。

そのためには、国連システムの持っているソフトパワーを集結させることが必要です。いろいろなところがソフトパワーをやっています。ユネスコは世界市民(Global Citizenship)教育の推進をリードしています。世界市民教育の推進はSDGsのゴール4のターゲットにも入っています。成果は見えにくいですが、これは大事なことなのかなと思います。一国の国益が世界益になる場合もあるが、国際社会のためにならない場合もあります。利害が対立した場合にどう考え、どう行動していくのかが重要で、そういうマインドセットを持っていないと紛争は解決できないですし、そういうマインドセットを育てていくことが地道ですが重要なテーマだと思います。

他にも国連文明の同盟(Alliance of Civilizations: UNAOC)という機関が文明間の対話を推進していて、これもソフトパワーである。女性の地位向上は紛争予防に役立つので、その意味で国連ウィメンもソフトパワー機関と言える。毎年国連総会でも平和の文化(culture of peace)が推進されている。青年担当特使(Secretary-General’s envoy on youth)も若者が持っている力を地球的問題群の解決に生かそうといろんなところでソフトパワーの活動をやっている。これらはほんの一例に過ぎません。協力したほうが力が出てきます。そこで調整機能が必要になってくるんです。国連内にそんな機能をもったオフィスが出来たらよいなと思っています。グテーレス事務総長は予防を強調しているので今後さらにソフトパワーに光が当たっていくのかなと思っています。

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Q. 最後に国連を目指している方へのメッセージをお願い致します。

地球的問題の解決に貢献したいと思っている人は多くいると思いますが、例えばSDGsには17の目標、169のターゲット、230ほどの指標があります[2]。これは国際社会が抱える問題がそれだけ多岐に渡っていることの裏返しだともいえます。それぞれの問題がお互い影響し合っているので、自分が興味のある問題に絞って、自分なりに解決策を考えていくことからキャリアパスが見えてくると思います。一つの世代で解決できない問題はたくさんあるので、後継の人材が続いていくことが大切です。大志を抱いて挑戦していってもらいたいと思います。

Reference

[1]アントニオ・グテーレス次期事務総長による 潘基文(パン・ギムン)事務総長に対する敬意の表明と宣誓 http://www.unic.or.jp/news_press/info/22267/ 

[2]持続可能な開発目標(SDGs)https://sustainabledevelopment.un.org/sdgs 

2017年3月18日、ニューヨーク国連本部にて収録
聞き手:我妻茉莉
写真:田瀬和夫
編集:岡本昻、清衣里奈、我妻茉莉
ウェブ掲載:田瀬和夫