第171回:根本巳欧さん国連児童基金(UNICEF)東京事務所 副代表
国連職員NOW!第171回では国連児童基金(UNICEF:ユニセフ)東京事務所で副代表として働いていらっしゃる根本巳欧さんにお話をうかがいました。根本さんはこれまで国連職員としてシエラレオネ、モザンビーク、パレスチナ・ガザ、バンコクなどで子どもの保護や緊急支援に携わってきました。数々の厳しい環境下での仕事を乗り越えながら、どのようにキャリアを築いてきたのか、根本さんのインタビューをお楽しみください。
(プロフィール)
根本巳欧(ねもと・みおう):1975年生まれ。東京都出身。栄光学園中学校・高校、東京大学法学部卒業後、米国シラキュース大学・マックスウェル・スクール大学院で公共行政管理学、国際関係論の両修士号取得。外資系コンサルティング会社、日本ユニセフ協会広報室で広報・渉外担当官、UNICEF東京事務所コンサルタントを経て、2004年3月にジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO、子どもの保護【Child Protection】担当)として、UNICEFシエラレオネ事務所に派遣。モザンビーク事務所、パレスチナ・ガザ事務所(子どもの保護担当官)で勤務後、バンコクにある東アジア・太平洋地域事務所(地域緊急支援専門官)を経て、2016年10月から現職。趣味は水泳で、休日に泳ぐのが息抜き。
Q. 現在の仕事内容を教えてください。
日本政府とのパートナーシップや資金調達を推進する仕事がメインになります。具体的には、日本の政府開発援助(ODA)の重点領域とUNICEFの活動優先分野の、どこが合致していて両者はどのように協力していけるのかということを政策レベルで議論したり、資金調達のための働きかけをしています。
また、実際にUNICEF各国事務所が日本政府から資金を頂いて実施するプロジェクトの報告や日本のビジビリティ確保のサポートといった事もしています。その他には、日本ユニセフ協会と共に、主にSDGs達成に向けて、国内外の子どもの権利の推進のための啓発活動やアドボカシー活動をしています。
私の事務所は日本政府の窓口なので、主に外務省がメインのカウンターパートになるのですが、それ以外にも例えば財務省、厚生労働省、そして文部科学省とも連絡・調整を行います。ユニセフ議員連盟の議員の方々やJICA、NGOとも連携をします。最近では民間企業との官民連携パートナーシップの推進や、日本人職員の増強のサポートも間接的ながら行っています。
日本人職員に関しては、国際機関の中で日本人が一番多いのがUNICEFなんです。117名 (2018年9月20日現在)います。これはJPOも含めての数ですが、過去5年で30人以上増えました。
Q. 国連機関の中で日本人が一番多いのがUNICEFだということですが、その理由はなんだと思われますか。
そうですね、特に女性が多く、日本人職員の8割が女性です。もっと男性にも来て欲しいくらいです。日本人が多い理由は主に4つだと思います。
- 1点目は、「子どもと女性」というマンデートに共感する人材が集まってくること。
- 2点目は、「子ども」という切り口で、いろいろな事業を行っているので、様々な分野、例えば教育、保健、水と衛生、子どもの保護、加えて人事や財務など、活動の間口がとても広く、多様なバックグラウンドを持っている人たちが応募しやすいことです。
- 3点目は、他の国連機関では、JPO以外の枠から入るのは難しいこともありますが、UNICEFの場合は正規職員の空席の多くが公募に出るため、外部から受けやすいのかもしれません。
- 4点目は、特に日本人女性が多いという点に関して、恐らく日本国内で活躍の場が少ない優秀な女性が、海外に活路を求めて、UNICEFをはじめとする国連機関に入られるというパターンが多いのかなという気がします。
Q.UNICEF東京事務所は政府機関や省庁と議論をすることが多いとのことでしたが、その際に特に工夫しているポイントは何でしょうか。
2 点あります。1つは、日本政府と一言でいっても、外務省や、JICA、財務省や厚生労働省など、各所と調整をしながら、パートナーシップを強化していくという事です。
もう1つは政府との連携だけでうまくいくわけではないので、民間企業やNGOとのパートナーシップの推進強化、それから一般の方々からの支援も大事だという点です。「ONE UNICEF」という言い方をするんですが、特に広報・アドボカシー活動については、日本ユニセフ協会と協力して日本での活動を行っており、Facebookやtwitterの合同アカウントを持つなど、ユニークなアプローチをとっています。
Q. 東京事務所の副代表になる前の仕事について教えていただけますか?
まずJPOでUNICEFに入った直後は、シエラレオネで子どもの保護の担当官として仕事をしていました(注1)。これはもともと法律のバックグラウンドがあったのと、現場のプロジェクトを動かしてみたいと希望したからです。また、紛争後の開発、国づくりに携わりたかった。今よくいわれている人道と開発のギャップや連携に関心があったので、シエラレオネは最適な赴任国でした。
その後、モザンビーク(注2)、パレスチナのガザ(注3)、と合計3つのオフィスで子どもの保護担当官の経験をしました。ガザでの勤務を終えた後は、子どもの保護分野に関しては一通り経験したと感じたので、もう少し幅広くUNICEFのプログラムを見たいと思いました。
ガザではフィールド事務所の次席の立場にいたため、緊急支援に関する事務所全体の管理的なことから、子どもの保護以外の、保健、栄養、水と衛生など他の分野の仕事もカバーしていたので、その流れで緊急支援をもう少し幅広く見てみたいと。そう思って仕事を探していたときに、バンコクの事務所で採用されたんです(注4)。
東京に戻って来たのは実は予定外でした。本当は現場に戻りたいと思っていたのですが、たまたまここで公募が出たのと、父親の介護という家族の事情もあり、今度は現場とは全く違った政策レベルの業務や資金調達の仕事を経験し、違う角度からUNICEFに関わるのも面白いかなと思いました。
Q 小さい頃はどのようなことに興味をもっていらっしゃいましたか。
小さい頃はあまり何か特定のことに興味があったというわけではなかったんですよ。そんなに活発な子どもではなかったですし、どちらかというと人前で話すよりは、書くことが好きな子どもでした。国連の仕事でなかったら、何か物書きのような仕事をしていたのではないかと思います。
幼い頃、父親の仕事の関係で中国で暮らしていた頃に、インターナショナルスクールで出逢ったユーゴスラビア(当時)の友人がいました。その後、民族紛争のために内戦が起き、ユーゴスラビアでは国家が分裂してしまいました。それまでは彼がどの民族や宗教に属するかなんて考えもしなかったのに、「彼はその後どうなったんだろう」と考えさせられたことがきっかけで、国家と個人の関係に興味を持ち始めました(注5)。
それが原体験となったのか、大学時代には国際法や国際人権法を専攻し、どちらかというと難民や国境を超える人の移動に関心を持つようになりました。ただ、難民に関して勉強していると、難民の8割以上は女性と子どもなので、自然と女性や子どもの権利にも目を向けるようになりました。
Q 本格的に国際機関に興味を持ち始めたのは、いつでしたか?
大学院に入る頃です。大学の学部は法学部だったので、周りの人は1,2年生の頃から公務員試験や司法試験を一生懸命勉強していたのですが、そういった環境になかなかなじめませんでした。
4年生になる頃に将来のキャリアについて考えた時に、最初は研究職に就きたいと考えつつも、実務にも興味を持っていました。ただ、当時は研究も実務もなんていう欲張りな選択はあり得ない時代だったので、当時の教授に「うちの大学院では一生アカデミアでやっていくような人材しか求めていない」、「君はアカデミアに向いていない」とまで言われました。
そこで、今後の進路を考え直さねばならなくなり、それならばむしろ実務の面から国際法や国際人権法に関わってみようと思ったのです。
当時はまだ珍しかったのですが、学生時代にUNHCRや外務省でインターンシップをして、実務を垣間見る貴重な経験もしました。難民研究の資料収集のために、UNHCR駐日事務所に出入りしていたことがきっかけで、「キャンプ・サダコ」(注6)と呼ばれるプログラムに参加することになりました。コートジボワール西部国境付近の難民キャンプで、リベリア難民の自主帰還事業のサポートをしました。
その後、同じプログラムに参加していた方の紹介で、外務省でインターンをする機会にも恵まれ、ODA政策を担う経済協力局政策課(当時)でリサーチなどをしました。その時に仕事を一緒にさせていただいた外務省の方々とは、今、再び仕事で繋がっていたりもします。人の縁というのは面白いですね。
Q. 大学院卒業後のファーストキャリアの選び方で意識した点を教えてください。
実は、私は大学院を修了した後、すぐに国際協力の分野で働きたいと考えていたので、本当はJICAか青年海外協力隊などの進路を考えていました。
ところが、そんな時にちょうどボストンで日本人留学生を対象とするキャリアフォーラムがありました。ちょっと見てみようぐらいの気持ちで回ったブースの一つが外資系コンサルタント会社でした。話を聞いてみると、社内に公共セクターをクライアントとする官公庁部門があることがわかりました。公共セクターの改善、効率化という文脈では、途上国開発とも似た仕事ができるのではと考え、いくつか面接を受けて採用されました。
国際機関に職務経験無しに直接入るというオプションはほぼないということは知っていたので、いったんどこかで経験を積んでから、国際協力の世界に入るというのも悪くはないかなと思いました。
仕事を始めてみると、ウォールストリートのアグレッシブなカルチャーと日本の典型的な長時間労働を混ぜたような職場で、かなりハードでしたね。でもいい経験になりました。世界のどこでもやっていけそうな体力と精神力に関する自信がつきました。
Q. 根本さんは元々大人しい性格だったそうですが、多種多様なバックグラウンドを持つ人々の集まりである国連において、どのようにリーダーシップを発揮してきたのでしょうか。
国連に入った最初の頃は、どうしても積極的にならないと生き残っていけない、積極的になるっていうのはアグレッシブになるということだと言われることもあって、自分はそういう性格じゃないなと悩んだことがありました。よくJPOの方で、いかに残っていくかを最初から考え人脈作りを上手にやっている方もいたのですが、私はマイペースで、あまりそういうことは考えませんでした。
5年前、フィリピンに大型台風が来た時、緊急支援のためにバンコクから派遣されました。このとき世界中の国際機関やNGOが援助に入ってきたのですが、ソマリアや南スーダンなど、あまり政府が機能していない国での緊急支援と同じメンタリティのままフィリピンに来た人が多く、UNICEFなど国連主導で活動をしようとした結果、フィリピン政府の反発があり、仕事がやりづらくなってしまいました。その結果、支援を必要としている子どもたちに援助が届けられなくなりそうになる局面がありました。
緊急支援では、国の政治、経済、社会的背景を理解した上で、政府と上手に交渉しながら仕事をしていくようなリーダーシップが時として必要とされます。自分はそういった役割を得意とし貢献できると思い、関係省庁との交渉に加わらせてもらいました。
いろいろなバックグラウンドの人がいて、それぞれの活躍の場があるというのは、国連の面白さだと思います。また、国や状況によってUNICEFの支援方法を変えないといけないということも勉強になりました。
Q. 根本さんは実際に現場に行って、現地の方の声を聞くことを重視している印象を受けます。
先入観を持って現地に入ってしまうと、間違いを起こす可能性があると思います。
フィリピンでの緊急支援を行った2年後、バヌアツという小さな国に大型サイクロンが上陸し、国民の約60%が被災する状況になりました。私はサイクロンがバヌアツに上陸した24時間後にバンコクを出発し、現地に入ろうとしましたが、空港が閉鎖されてしまいました。一旦フィジーで待機を余儀なくされ、結局バヌアツに到着したのは3日後でした。学校、公民館や教会などの避難民キャンプに8万人が避難しているのを見て、 避難民キャンプを中心としたUNICEFの支援計画を立てました。
ところが、その2日後には多くの人が家に帰ってしまいました。さらに、1週間後には政府が避難民キャンプを閉鎖すると発表。家を失った人も、親戚や友人の家に身を寄せたため、キャンプには結局誰もいなくなってしまったのです。支援のニーズが無くなってしまったわけではないのですが、避難民キャンプ外での支援が必要となりました。中長期にわたりキャンプ内で生活するという、中東・アフリカでの緊急支援の発想で、バヌアツの支援計画を立てしまったため起きた間違いでした。
こうした間違いを修正しながら支援をすることが大事です。他の地域での成功例にとらわれず、先入観を持たずに各国での支援に取り組むことが重要です。
Q. 国際協力に興味を持っている人たちが身につけておくべきスキルはありますか?
あまり方法論的なことは考えないほうがよいと思います。 人によって考え方は違うと思いますが、私が民間企業で働いて感じたことは、「自分が好きじゃないことには情熱を傾けることはできない」ということす。日本ユニセフ協会やUNICEFに転職し、次世代を担う子どもたちのために仕事ができるようになり、充実した日々を送っています。
また、国際協力や社会貢献にはいろいろな形がありえます。
以前、髪を切ってもらった美容師さんと話をしていた時のことですが、関西出身のその方は、1995年の神戸・淡路大震災の直後、避難所に行き、ボランティアで何十人もの人たちの髪を切った経験があると言うのです。それまで考えたことがありませんでしたが、髪を切る技術や経験が、こんなところで緊急・人道支援に役立つのかと気づかされました。
同様に、人それぞれ国際協力への関わり方があるので、方法論ではなく、自分が何をしたくて、自分に何ができるかを、まず考えればよいと思います。
特に、学生の間はたくさん時間があるので、有効に使うことをおすすめします。自分にできることは何かを探してみるとよいと思います。途上国に行って、現地の状況を見たり、社会人でも土日を利用して、国内でも国際協力と接点のある活動をすることはできると思います。
ただ、国際機関だけが活躍の場ではないので、そこに行きつくことだけが目標にならないほうがよいと思います。美容師さんの例のように、人それぞれ貢献できる方法を見つけてほしいです 。
Q. 根本さんのご自身の強みは何だと思いますか?
現場の経験があることが強みだと思います。東京に戻ってきていろいろな方とお話ししていると、現実と乖離した議論も多いので、UNICEFの国事務所やフィールド事務所、地域事務所での経験を活かしています。
また、緊急支援ではいろいろなセクター(分野)をカバーしていたので、例えば外務省の方などと交渉をしている時に、UNICEFの活動分野であれば、大抵の質問に答えられるようになりました。国連でスペシャリストとして仕事をするか、ジェネラリストとして仕事をするかは、個人の適性もあり難しい選択ですが、私は子どもの保護のスペシャリストとしてのみ仕事をしていたらおそらく見えなかった幅の広い仕事にチャレンジしていくことで、自分の視点を広げられました。
Q. 根本さんのポジションがフィールドで活動する立場からマネジメントの立場に変化したときに、どのような意識の変化がありましたか?
ガザに行って、小さな事務所をまとめるような仕事をしたときに、大変だけれども非常に面白いと思いました。責任は重大ですが、そこにやりがいや手ごたえのようなものを感じ、それがその後の方向転換のきっかけになりました。
ガザにいたとき、フィールド事務所の所長代理として、空爆が続き治安情勢が悪化する中、被害状況の確認とニーズ調査のため、スタッフを現場に送り出さなければならないことがありました。その許可を出す書類にサインをする時の重圧は凄かった。この書類にサインをすることで、スタッフの命を危険に晒すかも知れない。マネジメントとして、そうしたギリギリの判断を任されることもありました。
また、相乗効果を狙って、いろいろな強みやバックグランドを持った人をチームに入れるようにするようになりました。衝突が増えることもありますが、それが面白いところでもあると思っています。UNICEFで働く同僚たちは、みな「子ども最優先」を思って仕事に向かっているという共通点があります。言葉や文化の壁、それぞれの問題に対する温度差を、いかに乗り越えてチームとして仕事をするかが鍵になるというのは、現場で学んだ教訓ですね。
Q.現場に戻りたいというお話がありましたが、現場に戻りたいと思わせてくれる原動力はどのようなものでしょうか。
縁の下の力持ちという役割が気に入っています。子どもの権利を守るのは、その国の政府自身であるはずです。UNICEFの仕事を通して、その手助けをし、少しずつでも良い方向に変化が見られた時、やりがいを感じます。
例えば、モザンビークで、政府のキャパシティ・ビルディング(能力強化)の一環として、ソーシャルワーカーなどに子どもの虐待防止のトレーニングを行っていました。かつてトレーニングを受けていた人が、一人前に成長し、今度は逆にトレーニングをする側になっていく過程を見守ったことがあります。自分たちのまいた種が成長して、命をつなぐように広がっていくのを現場で見た瞬間、この仕事をしていて良かったなと思えます。
Q.これから国際機関をめざす人にメッセージをお願いします。
国連とは様々な関わり方があります。自分を無理して変える必要はなく、自分が活躍し、貢献できる場所を探していくことが大事だと思います。
そのためには、まずいろいろな人と会い、話をし、視野を広める努力をしてみてはどうでしょうか。例えば、私が日本に帰って来てから心掛けていることですが、毎週必ず一人は、異業種で働く、初めて会う人と話をするようにしています。日本を離れていた期間が長く、ある意味「浦島太郎」になっているところもあるので、地に足をつけたもの見方や議論ができるよう、そうやって常にアンテナをはっておくように努めています。
たわいのない話から意外と学べることや新しい発想が生まれたりするものですから、まず新しい人との出会いを大切にしてみてください。現場を見てください。そして、自分が心から情熱を傾けられる何かを見つけてみてください。
(注1)東京事務所 副代表(現職)の記事や情報
第15回 東京事務所 副代表 根本巳欧 https://www.unicef.org/tokyo/jp/15407_27088.html
(注2)東アジア・太平洋地域事務所 緊急支援専門官時代の記事や情報
東日本大震災復興支援 第230報「自然災害に備える、日本の子どもたち」ユニセフ緊急支援専門官が、世界に発信世界防災会議へ向けた一歩 https://www.unicef.or.jp/kinkyu/japan/2014_0507.html
サイクロン・パム 最大9割に被害も30日に学校再開へ
水、ワクチン、医薬品とともに、仮設テントや教材なども急送 https://www.unicef.or.jp/news/2015/0074.html
(注3)シエラレオネ事務所 子どもの保護担当官時代の記事や情報
第15回 東京事務所 副代表 根本巳欧 https://www.unicef.org/tokyo/jp/15407_27088.html
ユニセフ・シエラレオネ報告会「忘れられつつある危機」 https://www.unicef.or.jp/library/report/sek_rep22.html
ユニセフ・シエラレオネ事務所 根本巳欧さんインタビュー
学んだことを活かしてユニセフへ、そしてシエラレオネへ https://www.unicef.or.jp/kodomo/lib/pdf/tn18.pdf
(注4)モザンビーク事務所 子どもの保護担当官時代の記事や情報
夏休みユニセフ活動報告会 ユニセフ職員 根本巳欧氏 「アフリカの子どもたちは今」 https://www.unicef.or.jp/library/report/sek_rep45.html
モザンビーク大洪水被災地から
ユニセフ現地事務所職員 根本巳欧さんの報告 https://www.unicef.or.jp/kinkyu/africa/2008_0208.htm
(注5)パレスチナ・ガザ事務所 子どもの保護担当官時代の記事や情報
パレスチナ自治区ガザ:塩分濃度の高い水、脱塩化で安全な飲み水に ユニセフと日本政府が支援 https://www.unicef.or.jp/children/children_now/palestine/sek_pale16.html
(注6)「キャンプ・サダコ」についての補足説明
1990年代に実施されていたUNHCRの若者向け研修プログラムで、当時国連難民高等弁務官だった緒方貞子氏の名を冠している。実際に難民キャンプに滞在して活動するなど、難民援助の現場を実際に体験することで、難民問題・UNHCRの活動の理解を深めることを目的としていた。
2018年6月8日、東京にて収録
聞き手:稲垣陽子、桑原未来、住野英理、中村理香、岡本昂
写真:岡本昻
編集:稲垣陽子、入谷悠子、清衣里奈
編集長:岡本昻
ウェブ掲載:田瀬和夫、岡本昻