第35回 須崎 彰子さん 国連開発計画(UNDP)アジア太平洋局 プログラム・スペシャリスト
プロフィール
須崎彰子(すざきあきこ):石川県生まれ。東京外国語大学アラビア語学科卒。シラキューズ大学大学院社会科学修士。大学在学中にチュニジアのチュニス大学に国費留学。メーカーにて、イラク変電所工事現地事務所勤務、海外法務担当。その後、JPOとしてUNDPイラク事務所勤務後、UNIDO本部勤務。退職後、レバノン・アメリカン大学にてMBA取得。その後、UNDPミャンマー事務所副所長を経て、現職。
Q.国連で勤務されることになったきっかけを教えてください。
大学ではアラビア語を専攻し、在学中にチュニジアに留学しました。西のアラブであるチュニジアは、イメージしていた東のアラブとはまったく異なる雰囲気で、いつか東のアラブを見てみたいという思いを抱いていました。
大学卒業を前に、あるメーカーから、イラクで変電所を建設しており、そこにアラビア語ができる人が欲しいというオファーを戴きました。イラクは東のアラブである上、当時イラクは就労ビザがないと入れない国だったこともあり、とても興味を持ち、その会社に就職しました。
イラクに赴任した頃には、既にイラン・イラク戦争が始まっていました。この会社は、イラク全土に渡って8箇所で変電所建設をしており、北部クルド人地域にも建設予定地がありました。当時クルド人は政府側クルド人と反政府側のクルド人とに分かれている時代でした。政府の電力省と仕事をしていたのですが、現場ではクルド人の対立による銃撃戦もありましたし、空襲警報も当たり前のように聞きました。想像を絶することが毎日のように起こり、本当にたいへんな生活でした。しかし、どんなに苦しくたいへんな思いをしても、最終的に完成した変電所を見ると、本当に感動し、すべての苦労を忘れることができました。電気が通ることで、地元の人々の生活が手に取るように良くなるのが分かり、「もっと便利になる人がいる、またそれによって、雇用拡大に繋がるかもしれない。本当にインフラの整備は素晴らしい仕事だ」と思いました。
イラクでの約1年半の駐在後は、日本に帰国し、東京で途上国への技術移転や法務を担当していたのですが、またどうしても現場でヘルメットを被りたいと思って(笑)。その頃、たまたまJPOの募集をみて、面白いと思ったんですね。JPOの面接では、「イラクで建設工事を担当しました。インフラがどのようにその地に住む人たちに開発面で影響及ぼすのかを実際に見てきました。あのような開発に関わる仕事をまた担当したい。どうしても中近東に行きたい。」と訴えたことだけ覚えています。無事に合格した後、祈願が叶いJPOとして、イラン・イラク戦争が終結してまだ1か月のUNDP(国連開発計画)イラク事務所に着任しました。戦時中には民間でインフラを整える仕事をしてきたこともあり、また戦争後のイラクの開発のお手伝いができると考えると本当に嬉しかったのを覚えています。
Q.国連におけるこれまでのお仕事について教えてください。
JPOとして赴任したUNDPイラク事務所では、UNIDO(国連工業開発機関)プロジェクトを通して、政府に属するエンジニアリング研究所の能力育成を主に担当しました。ほかにも、プライベートセクター、特に中小企業の育成、具体的には、皮なめしや食品加工の品質管理支援などを行いました。
JPOが終了し、UNIDO本部外資導入部に着任することになり、中近東に加え、ベルリンの壁が壊れた直後の東欧諸国を担当することになりました。東欧は工業国が多いですから、元々ある技術力を活かしながら、海外の技術力・資金を投入することで、市場を開発する方法などを模索し、本当に良い経験が積めました。その後は、中近東を中心に担当したのですが、中でも特に興味深かったのがレバノンでした。レバノンで17年間続いた内戦が終結したのは1990年でしたが、私がUNIDOの仕事でレバノンに関わり始めたのは、それから5、6年後のことでした。痛感したのは、内戦は、本当に深い心の傷を人々の中に残すということです。人々は隣人を信用できなくなり、例えば隣人が自分の兄を殺したかもしれないといった疑念を常に持ちながら、本当に信用できるグループとしか関わりを持たないでいました。国が国として復興するのに何が必要なのかということを深く考えさせられました。
レバノンは商業国ですので、海外からの投資が必要だったのですが、内戦により国外に避難したレバノン人からの投資はほとんどなく、また、レバノン人自身が投資をしていない状況では、外国人が投資するわけもなく、厳しい経済状況が続いていました。そこで、UNIDOは国内外のレバノン投資家や外国人投資家と交渉を行い、レバノンに投資するよう働きかけを行うとともに、レバノン国内の投資案件を持つ中小企業との引き合わせなどを行いました。例えば、レバノンのある中小企業の代表が、トマトが豊富に収穫できたのでトマトペーストを作りたいという素案を出した場合、海外投資家は経験と知見によってトマトジュースにした方が良いと提案するかもしれません。このように、ビジネスプランは、いろんな人に出会うことによって深まり、変わっていく可能性があります。そして、それにより、希望していた何倍もの投資を得られるようになることもあるのです。レバノンでは、復興において、建築関連資材・ソフトウェア開発・食品加工(これにより麻薬栽培地帯に代替作物を導入する)の3分野を重視し、開発が流れに乗るよう協力をしました。
一方で、仕事は充実していたのですが、レバノンや経営学についてもっと勉強したいという思いが出てきたんですね。国連では、現場でも本部でも充実した仕事ができましたが、国連に入って10年程経ったということもあり、自分の中で区切りをつけて、一旦国連を退職し、レバノンの大学院でMBAを取得しました。今は、本当にこの選択で良かったと思っています。またその間、幸運にも在レバノン日本大使館の草の根無償援助の外部委託員としてレバノン全土の村々を回ることができたんですね。そのおかげで南レバノンからイスラエルが撤退した際に、その復興をどう進めるのかなどを考える機会があり、本当に勉強になりました。それまでの興味は中近東に集中していたのですが、実はアラブだけではなく、草の根レベルでの地域開発に関わることに関心があることに気付きました。このこともあり、その後、UNDPミャンマー事務所に副所長として赴任することになりました。
UNDPミャンマー事務所では、副所長として様々なプログラムを統括しました。ミャンマーでは、今も結核で多くの方々が亡くなっていますし、ハンセン病を患う人々も多く、また、貧困問題は慢性化しています。本当にたくさんの課題がある国です。そのような中、UNDPで行ったプロジェクトの1つにマイクロファイナンスに関するものがありました。これは貧困層のうちビジネスプランを持つ25万人を対象に、一人当たり平均30ドルを貸与するというもので、借り手の96%が女性だったのですが、結果的に返還率は99%に上りました。ある現地の女性から、このマイクロファイナンスで小さなお店を村に開き、それで得た利益によって息子がヤンゴンの大学に通っていると聞き、このプロジェクトが若い世代への投資につながっていることに大きな喜びをおぼえたことを記憶しています。同時に、これらのプロジェクトを支えてくれたスタッフの多くは地元の若者で、本当に献身的に働いてくれました。それがずっと根付いていてくれればよいと思います。
Q.現在はどのようなお仕事をされているのですか?また今後はどうキャリアを積まれていく計画ですか?
現在は、UNDP本部にあるアジア太平洋局で、イランとアフガニスタンを担当しています。両国のプロジェクトの年間計画を現地事務所とともに作成したり、現地事務所の支援をしたりしています。また、両国事務所が何をしているのかを両国から離れたところでも十分に理解できるように、報告書の作成などの役割も担っています。
アフガニスタンは現在復興の真っ盛りで、ガバナンスの分野で国を再建していくことに力を入れています。特に人材育成、地域開発、地域エンパワメントや、経済の活性化、そして、これらによってアフガニスタンの様々な地域に住んでいる人々にプラスの波及効果がもたらされるように努力する必要があります。
今後はまた現場に行くというか、帰るでしょうね(笑)。ミャンマーやイラクといった特殊な国々で現場を見ることができましたし、UNIDO、UNDP両方の本部で充実した仕事をすることができました。そのことが今後現場に戻るときも役立つでしょうし、役立てたいと思っています。やはり国連の原点はフィールドにあると思っていますから。
Q.国連で働く上で、どのようなことに魅力を感じますか?
2つあるのですが、1つは、興味のある途上国でこれだけ働ける機会を得られる場所は珍しいのではないかということ。2つ目は、多文化環境ですね。多文化環境では経営学の教科書通りに行くことはあまりありません。それが面白いですね。何が通用して何が通用しないのかを常に探しています。特に面白いのが、例えば、教科書には、組織の体質・カラーを変えるにはトップダウンが有効だと書いてありますが、私は、ボトムアップの方が動機付けがより強いため継続性があると思っています。また、ボトムアップは同時にスタッフをエンパワーすることにもつながります。多文化環境でボトムアップによって組織の体質を変える際に、管理職として何ができるのかを考えたり実行したりすることも面白い点です。
また、ミャンマーには、日本人墓地があるのですが、よくみると明治時代に没した20歳代の女性の名前が多いのに驚かされます。何故だろうと思い、図書館に行って調べてみると、アユタヤから流れ着いた「からゆきさん」だったのです。恐らく梅毒や結核などで亡くなっていったのだと思います。同じことが現在もミャンマーで起こっています。貧困のため若い女性たちがコマーシャル・セックスワーカーなどとして国境を越え、HIV/エイズに感染し、ミャンマーに戻り孤独に亡くなっていくのです。これでは、からゆきさんの厳しい経験が何も生かされていませんし、この人たちの苦しみを繰り返していけません。ですから、仕事で自分に甘えそうな時には、そこにお参りに行っていました。今、自分は幸いにも、人を助けることができるかもしれない仕事をしています。私は、国連とは、そのような場所だと思っています。
Q.一番たいへんだったことは?
JPOの2年間が終わる間際に、湾岸戦争が始まりました。それ故、国連職員もイラクから退避しなくてはなりませんでした。イラクの自宅に荷物を置いてスーツケース一つで退避しましたが、何よりも、本当に一生懸命取り組んだプロジェクトがすべて凍結されてしまったことを悔しく思いました。たいへんだったというよりは、悔しくて空しい気持ちで心がいっぱいでした。退避する飛行機の中で、まったくため息すら出なかったものです。あの努力はなんだったのだと。でも、いつの日か誰かがもっと素晴らしいことをやってくれるかもしれないと信じました。
Q.国際開発や国連において日本ができる貢献についてどうお考えでしょうか?
日本に限定するのは難しいのですが、政府の支援にしても個人での関わりにしても、開発には本当に時間がかかるものです。多くの場合、2、3年では事態はほとんど変わりません。自分が担当している時代に花が咲かないことの方が圧倒的に多いものです。自分が蒔いた種が、自分の数代後の後任の頃にやっと芽が出かかっているかもしれないというようなものだと思います。同様に、能力開発といっても、研修をしたからといってすぐに何かが変わるわけでもありません。このように、開発には短期的ではなく、中長期的な考え方も必要になります。種を蒔いても育つ頃に大雨が吹いて駄目になることもありますし、外部から種を掘り返されることもあります。でも、種を蒔かないことには、将来的に花も咲きません。種を蒔くとともに、問題意識の持続力も必要です。種を蒔くことは外から見て何も変化はありませんから評価はされないかもしれないですが、でも種を蒔く。そして、一方で、周囲の理解者を増やす努力を続けることが大事です。春になったら一緒に種を蒔こうといってくれる理解者を一人でも増やすことが必要です。政府も個人もそのような持続的な視野で開発をとらえ、理解者を増やす努力をすることができれば良いと思います。
Q.グローバルイシューに取り組むことを考えている若者への一言をお願いします。
私がいつも考えているのが3つの輪です。それは、「やりたいこと」、「できること」、そして「仕事をすること」であり、この3つの輪が合致すれば本当に幸せだと思います。もちろん完全に合致することは不可能ですが、この輪の重なり合う部分をより大きくするための努力が大切です。その中で、自分がやりたいことやできることが国連の求めている仕事と大きく交わるのであれば、是非挑戦してもらいたいと思います。まず国連に入りたいというのでは意味がありません。国連はとても間口が大きいものです。活動分野は、開発、政治、保健、財務など多岐に渡ります。一方で、自分には何ができるのか、何をしたいのか、そして何故国連なのかという考えをしっかりと持っておく必要があります。また、国連に限らずどのような職場でも同じだと思いますが、自分の付加価値は何かを考え、それを最大限に活かせる場所を探すことが大事です。それを一生懸命模索して欲しいと思います。それは、デパートでぴったりの洋服を探すというようなことではなく、形には見えない自分自身のミーニング・オブ・ライフを探すことであると思っています。
(2007年3月21日、聞き手:堤敦朗、元WHO災害精神保健技術専門官、写真:田瀬和夫、国連事務局OCHAにて人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネーター。)
2007年4月16日掲載