第36回 クリスチャン・マール(Christian Mahr)さん 国連テロ対策委員事務局(Counter-Terrorism Committee Executive Directorate) 法務官

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プロフィール

クリスチャン・マール (Christian Mahr):ペンシルバニア大学卒業(歴史学、政治学専攻)、1995年サンディエゴ大学法科大学院で法学博士(Juris Doctorate)取得。1995年、ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO)として、国連難民高等弁務官(UNHCR)ベラルーシ事務所のアソシエート・プロテクションオフィサー。1997年からUNHCRポーランド事務所のプロテクションオフィサー。マサチューセッツ工科大学(MIT)国際学センターの客員研究員を経て、2001年7月から、UNHCRロンドン事務所。同事務所の副代表代理を務め、その後、2005年7月から現職。

Q.国連に興味を持ったきっかけと国連で働くことになったいきさつを教えて下さい。

私は東京で生まれ育ちましたが、幼稚園のころからずっとインターナショナルスクールに通っていました。学校の友人も、その親御さんたちも先生も多国籍でした。そんな環境で過ごしていたせいもあって、国連で働くことは幼少時からの夢でした。今まで、ほとんど単一の民族からなるような集団で過ごしたことがなく、国連のような多国籍な環境は、一番過ごしやすいのです。

さらに、大学に入ってからは、政治学や歴史を学び、理論的な面からも国連に魅力を感じるようになりました。暴力や武器を使用せずに、モラルオーソリティーで世界を変えるという国連の考え方に惹かれたのです。

そこで、サンディエゴ大学のロースクールに在籍中に日本政府のJPOに応募し、合格しました。ロースクール卒業後にハワイ州で司法試験を受けて弁護士資格を取得し、まもなく、ミンスクにある国連難民高等弁務官(UNHCR)ベラルーシ事務所に派遣されました。常夏のハワイから凍てつくようなミンスクに飛行機で飛んだわけですが、両都市の間には、摂氏60度近く気温差がありました。ミンスクの空港まで迎えに来た人が、私の服装を見て「これでは凍死してしまう」と心配したのを思い出します(笑)。

ロースクール時代には、移民法とこれに関連する国際法を中心に勉強しました。サンディエゴ大学は移民法で有名です。一方、残念だけれど、こうした仕事で食べていくことはできないだろうから普通の弁護士になるしかないのだろうなとも思っていて、大学の夏休みには、企業法務を扱う国際法律事務所で仕事をしたりもしました。

それが、幸運が重なり、国連で自分のやりたい分野で仕事を続けて11年以上になります。でも、今でも、自分の国連パスポートを見るたびに、「え!自分は国連職員なんだっけ。」と新鮮に感じます。なにか、まだ、自分が国連で働いていることを完全に実感できていないような、そんな感じです。

私の場合、まずは、JPOとして国連での仕事を開始したわけです。仕事開始前に、UNHCRでJPOの研修を受けました。私以外に2名の西欧人の女性もこれを受講していましたが、初日から、みなの前ではっきりと「UNHCRでは、今、男性のJPOを職員として採用しない方針です。だから、クリスチャンさん、あなたがUNHCRに残れる可能性はまったくない。ですから、せめてJPOとしての2年間を存分に楽しんでください。」と言われてしまいました。残念でしたが、まあ、仕方がないと思い直し、2年間だけのチャンスだから、やりたいことを自由にやって楽しもうと思いました。こんなわけで、自由な姿勢で仕事を始め、いまさら保守的になるのもどうかということで(笑)、今でも、自由にやりたいことをやっています。

Q.UNHCRに勤務されていた際には、どんなお仕事をされていたのですか。

UNHCRには合計9年半おり、ミンスク、ワルシャワ、マサチューセッツ工科大学(MIT)、そしてロンドンで仕事をしました。すべて仕事内容は違いますが、どれもよく覚えています。長くなりますが、以下少し説明します。

ミンスクは、国際スタッフは2名しかいない小さなオフィスでした。ノルウェー人のボスは、私が着任するなり、「君を待っていたよ。ずっと休みを取れていなかったんだ。休暇を取るからあとは頼む。」と言うのです。着任3日目くらいで、事務所の鍵を渡され、何がなんだかわからないまま、オフィスを切り盛りすることになりました(笑)。小さなオフィスですから、人事から事務などオフィスのオペレーションも含め、UNHCRのすべて学ぶことができました。

ミンスクオフィスはある建物の4階にあったのですが、その建物の階段の1階から4階まで、毎日、UNHCRからの助けを求め、切羽詰った難民たちがびっしりと並んで待っていました。主にアフガンとイラクからの難民で、それから、チェチェンやグルジアからの難民もいました。アフガンから逃れるモスクワルートがありますが、これを使って、特に、親ナジブラ政権系のアフガニスタン人たちが、旧ソ連諸国にたくさん逃げてきていたのです。私は、こうした庇護を求める人たちの保護を中心に仕事をしました。その他、アフガン孤児と呼ばれた人々のための仕事もしました。1980年代、当時アフガニスタンに侵攻していたソ連が、アフガニスタンの未来のリーダーにするという名目で、孤児たち(ただし、孤児でない子どもたちもいた)2000名近くをソ連に連れてきたのです。しかし、こうしてソ連で育てられた「孤児」たちは、今に至るまで、旧ソ連諸国での国籍も認められず不安定な身分で放置されていました。私がいた当時、行き先もなく、大学の寮などに10年も暮らしているような人々も多かったのです。

さて、2年のJPO期間が終わるころ、ジュネーブに出張した際、UNHCRから、2か月ほどの短期の仕事を打診されました。私は、そもそも男である自分はUNHCRとのご縁も2年だけと諦めていましたし、ミンスクにいる間に結婚もしていたので短期の契約を繰り返すのは家族に悪いという気持ちもあり「残念ですがその仕事はできません。UNHCRにはたいへんお世話になりました。」と挨拶をしてミンスクに戻りました。その打診があったのが金曜日でしたが、翌週の月曜日の朝ジュネーブからミンスクオフィスに電話があり、4年間の契約でワルシャワに行ってほしいと言われたのです。嬉しく、またとても不思議な気持ちになりました。もし、短期契約のオファーを受けていたら、この話はなかったかもしれないからです。縁とは不思議なものです。

そんなわけで、ミンスクの次は、ワルシャワに赴任しました。ポーランド政府は、当時、EU加盟の準備をしており、その条件として、ポーランドの難民庇護システムをEU基準に引き上げる作業を行っていました。そこで、私は、ワルシャワでは、貧弱だったポーランドの難民庇護システムをEU基準を満たすものに改革する作業、NGOの能力開発――例えば、ファンドレイズのトレーニングやポーランドの難民支援NGOとEU諸国のNGOとの交流など――を行いました。EU加盟が近くなると、難民の数も増えたのですが、ポーランドにはしっかりした難民の社会統合のための施策がないという問題もあり、これにも取り組みました。

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例えば、難民の社会統合の一環として、難民に対するマイクロクレジットのスキームを整備し、私自身、あるアフリカ出身の難民と一緒にワルシャワの市場に行き、ビジネスの可能性の調査をしたこともありました。現地のNGOにも口でアドバイスするだけではだめで、実際にやって例を見せるとやっとやる気になってくれるので、そうした目的もありました。結局、その難民のアイディアでドレッドヘアのお店を開店して大当たりし、その人はワルシャワ社会に溶け込むのに成功したよい例になりました。

ワルシャワでの4年間の勤務を経て、その後、マサチューセッツ工科大学(MIT)で、UNHCRの客員研究員として研究を行う機会に恵まれました。この制度は、UNHCRの職員も現場の仕事のみならずアカデミックの世界からも刺激を受けるべきと考えた緒方貞子さん(当時国連難民高等弁務官)がイニシアティブを取って作った制度で、年に3-4人の職員を学術機関に派遣していました。私は、以前から興味があった有事の際の北朝鮮難民を研究し、2002年2月には、研究成果を「北朝鮮:難民の移動の観点からみたシナリオ」(North Korea: Scenarios From The Perspective Of Refugee Displacement) というペーパーとして発表しました。北朝鮮難民の庇護そして日本の難民庇護制度の改革は、私がUNHCRにいる間にぜひ手がけたいと希望していたのですが、これらを直接扱う実務につく機会がなかったのは残念でした。

ちなみに、このペーパーは、10万から30万人程度と推定される北朝鮮からの脱北者が中国に存在していたのにも拘わらず、UNHCRが中国からアクセスを許可されず、したがって、こうした脱北者に対して必要な保護を与えられていなかったのに対し(現状は今でも基本的に同じ)、こうした脱北者が、難民条約上の保護を含むUNHCRの保護対象であることを法的に分析した上で、さらに、現状を社会的・経済的・政治的にも分析し、UNHCRが中国でパイロットプロジェクトを始めるための打開策を提言したものです。当初、UNHCRは、自由に研究をしてよいと言っていたのですが、このペーパーを見るや、アジア局が出版(publication)に反対しました。結局、publicationではないけれど、ワーキングペーパーシリーズの配付(circulation)とするという工夫をしたところ、公表できることになりました(笑)。

さて、MITの後、2001年から、UNHCRのロンドンオフィスに赴任しました。英国では、1999年ころから、難民申請者の数が激増し、難民庇護制度が社会の注目の的になっていました。ブレア首相も、英国の最も重要な3つの政治課題として、教育、医療、そして、難民庇護制度を挙げていました。そのようなわけで、英国では、私たちUNHCRの言動は、メディアにいつも注目されており、これまでのミンスクやワルシャワの小さなオフィスの時のような自由な活動は到底できない状況でした。私は、難民の出身国の迫害の状況についてのUNHCRのポジションペーパーを作成したり、難民条約の解釈・適用に関する法的ポジションペーパーを作成したりする仕事を主に行っていました。赴任後、ロンドン事務所の副代表代理になりました。

英国は、従前、難民庇護に積極的と高く評価される国の一つでした。しかし、私がロンドン事務所に赴任したころから、英国の難民保護のための法律は毎年改悪されるような状況で、難民認定の質も下がり、難民認定の率も下がるという最悪の状況でした。難民申請者の激増に伴い、担当部局も人的拡大を続け、難民認定申請の調査と決定を行なうケースワーカーが400-500人という大規模なオペレーションになっていましたが、ケースワーカーの質は下がり、とんでもない理由で難民としての保護を拒否される人も大勢いました。これを英国の難民保護団体も痛烈に批判していました。

UNHCRとしては、英国政府が難民認定の質を下げていることを批判したわけですが、批判をし続けて2-3年経ってもほとんど改善は見られず、行き着くところまで行き着いたという感じになってしまいました。

そこで、批判アプローチから180度変えて、英国の内務省の協力を得て、クオリティ・イニシアチブ(Quality Initiative、QI)というプロジェクトを行なうことにしました。これは、難民条約の35条に定められたUNHCRの締約国に対する監督責務の一環として行なわれたもので、公式には、2003年10月、当時の難民高等弁務官ルード・ルベルス氏が英国を訪問した際にUNHCRが英国政府に対して提案をしたもので、批判のプレッシャーが高まる中、英国政府がこれを受け入れ、今でも続いています。

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クオリティ・イニシアチブでは、内務省は、一次の難民認定手続を、UNHCRに対してすべて開示し、UNHCRはこれを監査し、改善点を提言しました。UNHCRは、個別のケースの聞き取り(インタビュー)から個人のファイルに至るまですべての情報へのアクセスを得ました。監査の結果は重大な問題が山積しているというものでした。難民認定を行なうケースワーカーの採用基準・トレーニング・評価方法、難民の出身国の情報の内容から、通訳まで、何から何まで変えなくてはならないとの勧告になりました。問題は根深く、UNHCRが1-2回監査をして改善されるようなものではなくて、そもそも、難民申請者を信じず、犯罪者であるかのような視線で見る英国内務省の文化そのものを変えなくてはならないと思いました。そこで、私たちは、一次の難民認定手続の改善点を勧告するのみならず、UNHCRのオフィスを内務省の中に設置し、年中いつでも監査をできる体制を整えることも要求しました。

私たちの一次レポートは、内務省も納得せざるを得ない内容だったと思います。その後も数回レポートを出していますが、内務省は私たちの勧告をずいぶん取り入れました。この過程で内務省とUNHCRの間に信頼関係も生まれました。ところで、私たちは、クオリティ・イニシアチブのレポートを極秘扱いで内務省に提出していたのですが、今回、内務省が、このレポートと大臣の返答をすべてウェブサイトで公開していることを知り、内務省の透明性の高い姿勢をうれしく感じた次第です。

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Q.今なさっているお仕事はどのようなものですか。

2005年7月から、テロ対策を定める安保理決議1373(2001)と1624(2005)の各国による実施状況をモニターし、その実施を促進することを任務とする国連テロ対策委員事務局(Counter-Terrorism Committee Executive Directorate、CTED)で法務官をしています。私が、テロ対策委員事務局で働くことになったのは、言ってみれば「ミイラ取りがミイラになった」ような感じです(笑)。

というのは、難民保護の観点からは、この決議1373 (2001)は、とんでもないものだったのです。私たちロンドンオフィスからも、非常に厳しい法的意見を書きました。具体的には、除外条項とよばれる難民条約第1条F項(c)は国際連合の目的及び原則に反する行為を行った難民申請者は、難民条約の適用から排除すると規定しているのですが、この決議1373(2001)は、法的な定義も定まっておらず非常に広く解釈されていた「テロ」を「国際連合の目的及び原則に反する」としていました。そのため、この「テロ」と何らかの関連があるとされた膨大な数の難民から保護の機会を奪う危険性がありました。それまで、難民条約第1条F項(c)の除外条項は、極めて重大な行為を行なった場合のみに適用できると解釈され、カナダで麻薬の売人等に慎重に適用されていた程度で世界的にみてもほとんど適用されていませんでした。これは難民保護の危機でした。難民こそ「テロ」の最大の被害者です。そうした難民の多くをまずテロリストと疑い、必要以上に多くの難民から保護の機会を奪うことは許されません。

さて、私の現在の仕事はというと、上記決議1373に規定されたテロ対策に関する各国の実施レベルを調査することが中心で、しばしば各国を訪問調査をします。私は南アジアを担当するデスクオフィサーです。調査の結果、十分実施がされていないと判断した場合には、他の国際機関からの技術協力を手配するなどします。

ちなみに、上記のように難民保護や人権の観点から批判されていた決議1373ですが、実は、1箇所だけ人権に言及している箇所がありました。難民の除外に言及するパラグラフ3(f)の「国際人権基準を含む国内法・国際法の関連規定に合致するように」(in conformity with the relevant provisions of national and international law, including international standards of human rights)という文言です。これを突破口に、その後、安保理決議や国連サミットの成果文書を含め、国際社会は、対テロ対策は、国際人権法や難民法に沿って行なわなくてはならないことを何度も確認することになりました。例えば、昨年の総会決議である国連グローバル対テロ戦略(A/RES/60/288)は、特に、人権法、自由そして難民法の遵守を各国に強く求める内容となっています。これを実現するためには国連テロ対策委員事務局のイニシアティブがありました。

Q.テロはどうしたらなくせますか?

どうやってテロのない世界をつくるかは難しい問題です。2001年の911テロ以降、国連は短期の対応を重視してきました。今後は、もっと長い目で見た実質的な対応が必要でしょう。

現在の世界には、残念ながら、貧困、政治的な不正義や人権の侵害がまかり通っており、明日に対する希望を持てない人がたくさんいます。これを解決しない限りテロはなくならないでしょう。まさに、人間の安全保障を実現することがテロの解消に役立つのです。テロに対して短期的かつ北風的対応を取るだけではなく、すべての人々が尊厳を持ち明日への希望を持って生きていける世界をつくるために、すべての国連機関が協力をし、長期的視野に立った抜本的解決を目指すことが必要です。

Q.UNHCRのような専門機関の地域事務所で働くことと、強大な権限を持つ安全保障理事会の決議の履行を行なう国連本部のテロ対策委員事務局で働くことで、どのような違いがありますか?

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UNHCRの地域事務所では、私の裁量の幅は広く自由に活動でき、結果もすぐに見えました。また、上は大臣から、社会の最底辺に属するとされる人たちまで、幅広い人々と接することができ、素晴らしい時間を過ごしました。また、意見を通すためには、どちらかというと、UNHCRでは理論的であればよかったのですが、ここテロ対策委員事務局では、政治的に動くことが必要です。ここでは、組織には大きな権限がありますが、一人ひとりの裁量の幅は小さく、何をやるにも3-4人の了解が必要です。それでも、政治的にうまく動けば、意外と意見が通り、大きなインパクトを実現することもできます。たとえば、現在のところ、テロ対策委員事務局では、難民法の専門家は私だけなので、私が出した難民保護に関するアドバイスが通ったりすることもあります。

ところで、私が、テロ対策委員事務局での仕事で現在力を入れているのは、各国訪問の際のアドバイスですが、決議1373は国連憲章7章に基づく決議であり、訪問の際、自分に怖いくらいの権限があると感じることもあります。

Q.国連でのお仕事で、一番心に残っているよい思い出は何ですか。

たくさんのよい思い出があります。プロフェッショナルな意味では、UNHCRのロンドン事務所で英国の内務省との間のクオリティ・イニシアチブを始め、英国における難民認定手続の悪化にある程度ストップをかけて改善への道を開いたことです。

UNHCRの職員の間には、生涯信用できる仲間という連帯感があります。それから、みな、とても明るく、そして謙虚です。難民たちの悲惨な過去をシェアするという辛い仕事ですから、これをカバーできる明るさがないとやっていけない仕事なのでしょう。また、難民と向かい合って座りながら、生まれた国と持っているパスポートが違うだけで、こんなにも人生が違ってしまっていいのか、と思います。謙虚な気持ちになるとともに、自分の人生での悩み事など取るに足らないと思えます。

また、精神的な達成感という意味では、一緒に働いた(助けた)難民の思い出はかけがえのないものです。飛行機が飛び立つまで難民を物理的に守ったり、文字通り、体を張って難民を保護したことも何度もありました。私があの行動をとらなければ、どうなっていたかと思う人たちから感謝をされて、今でも手紙がきたりすることがあります。また、たとえば、ワルシャワでマイクロクレジットを成功させるために一緒に市場を調査した難民も、友達というか同志と感じています。こうした難民たちと私の魂が触れ合ったと感じられる瞬間は、本当にうれしいですね。実はUNHCRの仕事は大部分が非難されたりなじられたりすることばかりですが、たまにですが感謝される仕事ができたときには感激します。

Q.今までたいへんだったお仕事は何ですか。

たいへん残念なことですが、UNHCRで仕事を続けて、バーンアウトしたと感じたことです。難民たちの身に起きたあまりに悲惨な話、人間がどうしてそんなに残酷になれるのかと思えるような悲惨な話を聞き続けました。本来はあってはいけないことですが、これ以上悲惨な話を聞けない精神状態になってしまうのです。こうしたバーンアウトは、残念ながらUNHCR職員特有なことではなく、難民の保護に密接に携わる人々の間ではしばしば起こります。UNHCRに入る前は、人間の善を信じていましたが、難民の話をきいて、人間がいかに邪悪になれるのかをいやというほど見せ付けられました。また、UNHCRで私の同期だった友人が、東ティモールで、刀でぶつ切りにされて火をつけられて殺されたという事件もあり、本当にショックでした。私ではなくて彼が東ティモールに赴任したのは単なる偶然に過ぎないという思いもありました。

Q.最後に、グローバルイシューに取り組むことを考えている若い人たちにアドバイスをお願いします。

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まずは、理想に燃えるべき、ということです。国連に理想を持って入るとつぶれるという人もいます。しかし、国連に入ると、どんどん理想をつぶされるので(特に、安保理などはまさにリアルポリティークの世界ですし)、いくらつぶされてもまだ理想に燃えていられるくらい、理想の塊みたいな人になってほしいと思います。

また、こういうことを言うのが正しいかどうか少し迷いますが、もっと日本人の男性にもUNHCRで活躍してほしい、と思います。というのは、UNHCRでは、すばらしい日本人女性たちがたくさん活躍していますが、なぜか、あまり男性がいません。そんなわけで、もちろん、女性も大歓迎ですが、男性にもがんばってほしいと思うのです。

最後に、日本人は、国連に向いているので、がんばってくださいと伝えたいと思います。というのは、日本人は自然と外交がうまいのです。日本人の特徴――はっきりものを言わずにあたりがソフトで、根回しを得意とし、必要以上に目立とうとせず、チームワークを重視する――は、アメリカ社会には必ずしも向かないかもしれませんが、国連向きです。実は、国連は、好戦的な人はあまり好かれないし、出る釘は打たれるという文化なので、日本人にはあまり違和感がないと思うのです。また、UNHCRで働いていた時もテロ対策委員事務局で働いている時も、カウンターパートに対し、自分が日本人であると言った時に、喜ばれこそすれ、いやな思いをしたことはありません。国連内でも、一般的に、日本人は仕事もよくこなすし、評判も高いと感じます。

理想を持った多くの皆様が、国連にチャンレンジされることを期待しています。

(2007年3月20日、聞き手:土井香苗、ヒューマン・ライツ・ウォッチ アジア局フェロー。幹事会・人権担当。写真:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネーター。)

2007年4月23日掲載