第48回 古川 麗さん 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) タイ・メーホンソン事務所所長
プロフィール
古川麗(ふるかわ うらら):神奈川県出身。上智大学外国語学部ポルトガル語学科卒。在外公館派遣員として在ハンガリー日本大使館勤務を経て、サセックス大学国際関係論修士号取得。1995年よりUNHCRに勤務。東京、スロヴェニア、トルコ、コソボ、イラン、グルジアで難民保護を担当したのち2007年7月、UNHCRタイ・メーホンソン事務所所長として赴任。
Q.UNHCRで働こうと思ったきっかけは何ですか。
小さい頃から漠然と、国連で働きたいなとは思っていました。大学卒業後、外務省の在外公館派遣員制度で在ハンガリー日本大使館に2年勤務した後、イギリスのサセックス大学で、初めて国際法、難民法の体系的な授業を受けました。修士論文のテーマも当時論議をよんでいたヨーロッパの難民政策(ヨーロッパの要塞化)をテーマに選び研究を進める中で、難民問題に対する興味がだんだんふくらんでいきました。また、サセックス時代はマイノリティとして苦労した体験から、「私は自分の意思でここに来てそれでもこんなに心細くて辛いなら、自分の意思に反して祖国から追い出された人たちはどんなに孤独だろう。」と実感したことも大きなきっかけだったかな。
Q. UNHCRでのキャリアは東京からスタートされてるんですね。
そうですね。ヨーロッパの難民政策について修士論文を書き進めるうちに、日本の難民政策について書かれた英語の文献がほとんどないことに気がつきました。日本の状況はどうなんだろう、日本の難民問題から始めるのも良いのではないかと思って帰国後、アムネスティ・インターナショナル東京事務所の難民チームに顔を出していました。数か月後、そこで知り合った方からUNHCR駐日事務所の法務官補佐のポストが空くという情報が入り、公募はしないみたいだけれど連絡してみたら、とアドバイスをいただきました。早速コンタクトをとってみると運よく採用の運びとなり、これが私の国連人生のはじまりとなったわけです。
Q. 東京が原点ということですが、その時の経験が今に与えている影響はありますか?
今でも日本の難民は気になりますね(笑)。日本の難民制度は、異議申し立ての段階に参与員制度が導入され、申請者数・認定数も増加したりと、徐々に前進していることは大変嬉しく思います。私が東京にいた1990年代の難民認定数はほぼずっと年間1人とか2人でしたし、日本に逃れてきた難民を支援するNGOも(インドシナ難民を除くと)ほとんどなかった。また、海外で難民保護の仕事をしていると、「お前の国はどうなんだ」「日本はお金だけ出して、人は受け入れていないだろう」とステレオタイプ的に言われることも多いので、そういう発言に対し客観的に状況を説明できるようにしておくのは大切ですよね。
Q. その後は、スロヴェニア、トルコ、コソボ、イラン、グルジアと、各地のフィールド事務所で勤務されていますね。特に印象に残ったお仕事は何でしょうか。
ありすぎて選ぶのがたいへん(笑)。それぞれに本当に忘れがたいです・・・。プロテクション・オフィサーとして2003年から2年間勤務したイランでは、隣国アフガニスタンでのタリバン政権崩壊を機に、大規模なアフガン難民の自主帰還が始まっていて、UNHCRは全国各地に設立した自主帰還センターで「祖国に帰りたい」というアフガン人を個別に面接し彼らの帰国意思の確認作業を行なっていました。そうして真に自らの意思で帰国を希望していると確認された人を無事に祖国まで送り届けるために、UNHCRはイラン政府と協力してバスやトラックなどの輸送手段の手配をし(20年近くイランでふつうに暮らしてきた人々にはそれなりの身の回りの品があります)、帰国後の生活の足しにと最低限の援助を支給していました。
しかしその一方で、200万人以上ともいわれるアフガン人を20年近く保護してきたイラン政府は、「いったいいつまで大勢のアフガン人の面倒を見続けなければならないのか」といらだちをあらわにし、「タリバンが倒れたといってもまだ政情は不安定だし治安も悪い、当面は帰国したくない」と訴えるアフガン人まで早く帰国させるような政策を次々と打ち出して(例えばイランの小学校に入学するアフガン人の子どもには新たな授業料を課したり)、難民と証明する書類の不携帯などの理由でアフガン人の強制送還も強化していきました。
このような環境では、なにをもって「自主的」な帰還とするのか次第にあいまいになっていき、NGOなどからは「自主的な帰還」とはお題目だけ、実際はまだ帰る用意のできていないアフガン人や難民条約上の理由から帰ることのできない人まで強制的に送還されているとの批判が高まっていました。
そこで、強制送還対象者に対するアクセスをUNHCRに与えてもらえれば、強制送還者のなかに1951年の難民条約上の難民がいるかどうか確認できてそういった批判に応えることができるし、他方「自主帰還」事業の正当性も認められる、とUNHCRはイラン政府と粘り強く交渉を続けました。その結果、強制送還者がアフガン国境を渡る直前にUNHCRとじかに会う機会が与えられ、帰国できない相当な理由がある人には名乗り出てもらい、また知的障害者や保護者のいない子どものように送還後身を寄せるあてもない人々は一時的に保護する、という画期的な制度が始まりました。私はアフガン国境近くのマシャド事務所に勤めていたので、この新しい制度を立ち上げから担当しました。
付き添いのない6歳くらいの子どもや身寄りのない女性といった、当時のアフガニスタンの状況を考慮すると人道的見地からただちに強制送還されるべきではない人たちを発見し、強制送還を一時的にでも阻止できたことは、大海の一滴に過ぎなくても成功だったと思います。
イランでは、西側からの批判に敏感な政府からの絶え間ない介入があり、仕事をする上ではたいへんな困難とフラストレーションが伴いました。特に現地職員はある意味で国際職員以上に難しい立場にたたされていたにもかかわらず、とても良い働きをしていて非常に感謝しています。一方、公平を期すために付け加えておくと、イラン政府のアフガン難民に対する長年にわたる多大な貢献(例えば女子教育の分野)はもっと評価されてしかるべきだと思います。
また、スロヴェニアでアソシエイト・フィールド・オフィサー(JPO)として勤務していた1999年には、"go and see visit"といって、1995年のデイトン合意後、スロヴェニアで庇護を受けているボスニア難民が本格的に帰国する前に、バスをチャーターして一時的に自宅に戻り近所の様子などを見学し、本当に帰還するかどうかの判断材料にしてもらう日帰りプログラムを初めて実施しました。スロヴェニア政府やボスニア政府ほかさまざまな担当機関と協議を重ね、7年ぶりに一日だけでも故郷に帰れることになったムスリム系難民たちの喜びよう、静かな興奮はこちらにも伝わってくるほどでした。しかし、彼らを乗せて片道7時間かけてボスニアの小さな町に到着してみると、事前に関係機関と連携し準備してはいたのですが、彼らの住居を占拠していたセルビア系避難民と緊張状態になってしまい、話し合いどころではないありさまでした。セルビア系避難民自身もボスニアの自分の町から追われ、帰るところのない内戦の被害者だったのです。
当時のムスリム系住民とセルビア系住民との緊張関係を背景に、特に内戦中、現地に残った人たちには、「自分たちは戦争や窮乏生活に耐え忍んだのに、お前たちは外国で難民として支給されたお金でのうのうと暮らしていただろう」と、とかく国外に避難した人たちに対しての反感があるのですね。確かにスロヴェニアから私たちと一時的に戻った難民は、身なりもこざっぱりしていたし、スロヴェニアに残っている家族や友人たちに状況を見せるためにビデオレコーダーなども持参していた。そういった外見も、彼らが戻ってきたら居場所を失ってしまうセルビア系住民を刺激したのでしょう。とにかく、私たちのバスはその町を立ち去るときに投石に遭って、窓ガラスがかなり盛大に割れ、車中は「自分たちはセルビア系の奴らに今度こそ虐殺されるんだ!」とパニックに陥りました。フロントガラスには蜘蛛の巣状にヒビが入り、割れた側面のガラスは段ボールで補強しなければならないほどでした。幸いけが人はいませんでしたが、バスの床に落ちている石は結構大きくて、これが誰かの頭にでも当たっていたら大きなけがにつながっていたのは明らかでした。
地元警察に届け出たあと、スロヴェニアに向けて出発し、何とか真夜中過ぎにスロヴェニア国境にたどり着くと、今度はスロヴェニアの国境警備隊から「フロントガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入っているような車両は安全面から運転に適しない」と入国拒否されてしまいました。この状態で何も言われずセルビアもクロアチアも走ってきたのに。事情を説明し抗議すると、「まったく難民ってやつは与えれば与えるほどもっとよこせとつけあがる」と差別的な発言が返ってきました(後にUNHCRはこの発言に対し正式に抗議しました)。
このとき、車中のあるボスニア人男性が苦笑いしながら「も~。僕たちって、誰からも受け入れてもらえないんだよね~。」と言って、思わず周囲から笑いが起きました。私は、「みんなくたくたに疲れきっていて普通だったら落ち込んだり怒ったりしてしまうだろうに、自分たちを客観視して笑えるなんてスゴイな。」と感心したことを覚えています。「難民」と聞くと、無力でかわいそうな人たちというイメージがありますが、むしろたくましい人たちですよね。サバイバー(生存者)ですから。
Q. 逆に、UNHCRで働いていてたいへんなこと、辛いことはありますか。
いろいろな国で、政府の方針や制度とUNHCRの使命との狭間で思い悩むことはたくさんあります。例えば、イランでは国際NGOの活動を極端に制限していた政府の方針で、UNHCRの事業実施パートナーは実質上イラン政府だけでした。つまり、何をするにも政府の事前の許可や同意が必要。アフガン難民の自主帰還事業にしても、「帰還先にありき」というイラン政府の方針に乗っかってしまっているジレンマを感じることも多々ありました。
また、「支援の調整」も難しい課題ですね。特に今年5月まで勤めていたグルジアで感じたのですが、私のような担当官レベルでも事務所の代表レベルでも様々な形で調整はおこなわれています。国連カントリー・チームを通じて、また、ドナー国大使館、国際NGOなどとも継続的に情報交換しています。それでもふたをあけてみれば、例えば難民省の同じプロジェクトが複数のドナー(国際NGO、国連機関、二国間援助)から資金援助を受けるというような"だぶつき"が発生することもある。他方で、援助が必要なのに受けられない分野も出る。限りある財政支援をいかに有効に活用し、真に必要としている人々の生活向上に結びつけていくかは今後も課題だと思います。
Q. UNHCRで働く魅力は何でしょうか。
まず国連は、目の前で困っている個人を必ずしも今すぐ助けることはできないかも知れないけれど、大きな制度を変える力を持っているという魅力がありますよね。その中でもUNHCRに関して言えば、「現場主義」ですから、フィールド志向の人にとってはおもしろい職場だと思います。また、職員のなかにも、元修道女、元職業軍人、元難民などちょっと変わった経歴をもつ人が少なからずいます。いわゆる優等生タイプの人だけではないので、多国籍という以上の多様性を感じられます。ただ、フィールドには、いわゆる国際公務員という言葉からイメージされるような華やかな社交の場はあまりありません。水が3日間でない。電気が一日3時間しかつかない。夜8時以降は外出禁止令が出ている。そういう場所でキャリアの大半を過ごすのはかなりきついことです。それでも、難民から大臣まで幅広い人たちに出会えて、自分自身の成長を実感できる職場です。興味のある方は、ぜひチャレンジしてほしいと思います。
Q. この分野で日本ができる貢献は何でしょうか。
もっと難民が住みやすい日本をつくること!比較的お金をかけずにできるし、かつ、国際貢献に直結することではないでしょうか。特に日本の場合、難民申請中・認定後の地位や生活保障があまりにも不安定で、ある意味で、難民キャンプにいるよりも過酷だと感じます。難民キャンプにいれば、不十分とはいえ最低限の衣食住はあてがわれるし、ことばも通じる環境で暮らせるでしょう?
一般市民の方でも、海外の難民キャンプに行かなくてもできることはたくさんあります。例えば日本語教師を目指している人なら日本にいる難民に日本語を教えることもできるだろうし、法学部生ならリーガルクリニックを通して難民申請者の相談に乗ることもできるし、企業ならCSR(企業の社会的責任)を通じて難民を支援できるだろうし・・・それぞれの立場の人が、気負わずにできるところから始めればよいのではないでしょうか。
Q.国連が扱うようなグローバル・イシューに取り組みたいと思ってる人たちへのメッセージをお願いします。
やっぱり「知る」っていうことは大事かな。現地に行く時間やお金がないなら、いろいろな映画を見たり本を読んだりして、とにかくまずは知ってほしいです。難民のことに興味を持たれた方は、例えば日本に逃れてきた難民を支援する活動をしているNGO、「難民支援協会」のウェブサイトなどもご覧いただきたいですね。http://www.refugee.or.jp/
Q.今後の抱負を聞かせてください。
これまでプロテクション・オフィサーとして、地道であっても現場でのテーマにひとつひとつ取り組むことの積み重ねが、少しでも難民の状況を良い方向に変えていくと考えて仕事をしてきました。それにUNHCRのようなところで働くには、やはり現場を知っていないと-つまり難民が置かれた状況や背景を頭だけじゃなくてある程度からだで理解していないと-発言にリアリティがなくなってしまう。今回、タイのメーホンソン事務所所長として*初めて事務所運営に携わる立場となり、より有効な現場支援を行うためにはどうすればよいか、また違った視点で考えられるのではないかと期待しています。その後は、フィールドをいったん離れ、国連全体の中での人道支援といった大局的な見地からものを見ることができる職場も経験する必要があるのかなと思っています。
*インタビューは、メーホンソン事務所赴任直前に行われました。
―――ありがとうございました。
(2007年6月29日、聞き手:山本晋平・幹事・人権人道グループ、北村聡子・幹事・人権人道グループ、写真:森口水翔・フリージャーナリスト)
2007年8月20日掲載