第49回 篭嶋 真理子さん 国連児童基金(UNICEF) ウガンダ・グル地方事務所所長
プロフィール
篭嶋真理子(かごしままりこ)奈良県出身。同志社大学英文科卒。4年間、日本の高校で英語教師として勤務したのち、英University of Warwickで教育学修士を取得。98年よりJPOとして国連児童基金(UNICEF)メキシコ事務所にて教育担当、2002年より同アフガニスタン・クンドゥス地方事務所およびカブール地方事務所にて教育担当。2005年よりUNICEFアンゴラ・ウアンボ 地方事務所所長、2006年より同ソマリア・ハルゲイサ地方事務所所長代行、2007年より同ウガンダ事務所グル地方事務所所長。
Q. 国連に興味をもったきっかけと勤務するまでのいきさつを教えて下さい。
漠然と国連を意識したのは、小学校の社会の授業でした。世界各国から人が集まった国連というものがあるということを知り、好奇心を持ち憧れました。しかしその後は、いい先生に出会ったこともあり、人を育てていくことに魅力を感じて、大学卒業後には高校教員になりました。
4年間、進学校と非進学校の2つの高校で英語を教え、いろいろなことを考えさせられました。いい高校に入れなかったことを嘆き、自分たちは社会の主流から落ちこぼれたと15歳にして気づいている子どもたちは、勉強ができるのにしない。一方で、進学校で主流にいるにもかかわらず、何のために勉強をしているのかわからない、いい大学に入ることが最終目的になっている子どもたちもいる。何かが違う、と疑問に思いました。私は、日本の教育は根本的にすばらしいと思います。基礎教育もしっかりしているし、一般的に教員の質も高い。しかし、こんなに教育に恵まれた要素が揃っているにもかかわらず、さまざまなひずみが生じているのを見て、教育というものは本来どうあるべきなんだろうと考えさせられました。
教員としてさまざまな本を読んでいるうちに、途上国には教育も受けられない子どもたちがたくさんいる、学校に行くために働いている子どもたちが世界には大勢いる、ということを知りました。学校をつくろうという広告を新聞で見て、私には何ができるだろうと考えました。テレビでUNICEF親善大使の黒柳徹子さんのフィールド・レポートを見てUNICEFの仕事を知るようになり、こんなすばらしい仕事があるんだ、ここで働きたいと思ったのがきっかけでした。途上国の子どもたちを助けたいという熱意一心で、日本での高校教員の仕事を辞め、英国の大学院に留学しました。
大学院で教育学の修士を取ったあと、まずはスペイン語を勉強しようと、スペインに6週間ほど行き、その後はエクアドルにある先住民の権利を守るNGOで働きました。その後、メキシコにあるクレファルというユネスコと米州機構がつくった識字教育・成人教育研究所で働きながらJPO試験を受け、翌年からUNICEFのメキシコ事務所で働き始めました。
Q. 国連でのこれまでのお仕事を教えてください。
メキシコ事務所では、教育担当として3年半勤務しました。山の奥に住むマヤの先住民のための基礎教育を実施したり、情報格差(digital divide) が騒がれた時期だったので、先住民の学校をインターネットで繋げるプロジェクトもつくりました。インターネットではお互いの顔が見えないので、先住民の子どもたちは差別を受けることなく意思疎通ができます。子どもたちには好評でした。
しかしメキシコでのJPO3年後、私自身は、なかなか次のステップに繋がるまでに苦労しました。JPO後の生き残りは簡単ではありません。ある方に、「自分ひとりで国連に来ていると思わず、JPOとして日本政府から国連に送ってもらっているのだから、いろいろな方に話を聞きにいきなさい。メキシコのような中興国で楽をしていないで、緊急支援などたいへんな(だけどやりがいのあるような)ポストに挑戦してみなさい。」とアドバイスを受けました。
その頃は、たまたま日本政府がアフガニスタンの復興支援を積極的に行っていた時期。メキシコ事務所での上司がアフガニスタン事務所に異動したこともあり、2002年にアフガニスタンに異動する機会を得て、約2年半、クンドゥス地方事務所とカブール地方事務所で働きました。クンドゥスでは、「Back to School」 という100万人の子どもを学校に戻すというたいへん大がかりな事業を実施し、ノートや鉛筆や教科書などの物資供給と教育支援を行いました。あまりにも反響が大きく、教室に座りきれない子どもたちが、入学を断られたこともありました。
一方、カブール地方事務所では、(宗教色の強い親のもとで)女子が学校へ行くことに対する強い抵抗が残っている地域が多くあり、学校へ行けない女の子たちのために、「Community based school」 という事業を実施しました。日本の「寺小屋学校」のようなものです。子供たちはコーランを習いにモスクに行くのはふつうのことになっているので、 宗教のリーダーであるシュラたちを口説いて、コーラン以外にも算数と国語を教えてもらうよう教科書を配ったり、女の子も入学できるように頼み込みました。カブールでは、小さい頃は男女混合学校で一緒に勉強しているところもあり、カンダハールなどと比べて比較的世俗的だったので、事業もうまくいきました。何よりも、長いタリバン統治下から解放された当時のアフガンの人々は希望に満ちていたので、たいへんやりがいのある仕事でした。
その後2005年にはアフリカのアンゴラという国に異動しました。もともと、最もUNICEFらしい仕事をできると思っていたアフリカには関心がありました。アフガンも面白かったのですが、アフリカはまたスケールが全然違う。中でもアンゴラを選んだのは、アフガンと同様、戦争が終わり平和への「移行期」にある国であったこと、私はスペイン語が話せるので言語が近いポルトガル語で仕事ができること。また地方事務所の所長として働きたいと思っていたので、アンゴラのウアンボ事務所のポストに応募しました。地方事務所での仕事は、たいへんだけれど最も人に近い。地元政府の役人と一緒に仕事ができるし、子どもたちにも会える。私の中では、これこそがUNICEFの仕事だと思っています。
しかし、いざアンゴラのウアンボに着任してみると、とても小さなオフィスで私とドライバー二人しか正規スタッフがなく、あとは現地コンサルタントが二人いるのみ。カブールの大きなオフィスにいたあとだったので驚きました。私はこれまで教育分野しか知らなかったのですが、ここでは、保健・栄養・水と衛生など、UNICEFのすべての分野を一人でカバーしなければならなかったし、会計や人事のマネジメントも担当しなければならずたいへんでした。ウアンボは、もともとはアンゴラの反政府勢力、UNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)の拠点地で、村の破壊が最も激しい地域。私の事務所は3県に跨ぐ600万人を担当し、舗装の悪い山道を9時間バスに揺られ、腰をくだきそうになりながら村々を見て周りました。
アンゴラは世界で第二位に5歳以下の子どもの死亡率が高い国です。地方の保健所に行くと過度の栄養失調で死んでいく子供を目の当たりにするな状況に立ち会うこともありました。またコレラの大量発生など、私がこれまで経験したことのない緊急事態もありました。地元政府に緊急調整部をつくり、国際人道支援を行うNGOsを受け入れるよう役人を説得しました。そうでなければ、人が次々になすすべもなく死んでいくのです。もともとは外国の軍事介入があったところなので、外国人の受け入れに地元政府は初めは慎重でした。努力のかいあって、MSF(国境なき医師団)などの受け入れに許可がおり、なんとか緊急事態に歯止めをかけることができました。苦労することも多かったけれども、勉強になる2年でした。
その後、ソマリアのソマリランドの首都ハルゲイサに、所長代行として3か月ほど勤務しました。ソマリアの中では比較的安全なところであり、大きなオフィスでたくさんのスタッフと働くのは楽しかったのですが、すぐにウガンダのポストの話がきて、2007年1月に異動しました。
Q. 今なさっている仕事はどのようなことですか。また、今後はどのようにキャリア・アップされていきたいと考えてらっしゃいますか。
ウガンダ北部のグル地方事務所に来て半年が経ちました。ここでは18人ほどのスタッフを抱え、所長として全体を管理しています。グル地方は、ウガンダの反政府勢力、LRA(神の抵抗軍)の拠点地で、多くの人々がとてもつらい目に遭ったところ。一般の人々が強制的に収容所に移動させられたり、2万5千人とも3万人とも言われる本当に多くの子どもが、兵士や兵士の妻になるために、拉致されたところです。
私が赴任したのは、ちょうど昨年秋に始まったLRAと政府の和平交渉開始以来、和平への兆しが訪れはじめた時期、いわゆる紛争から復興への「移行期」でした。まだ和平合意こそ結ばれていないものの、LRAの力も衰えてきたし、スーダンからあった支援も断たれ、今度こそ平和をつかめるという希望が見えてきたところです。
これまではウガンダ北部の8~9割の人々が国内避難民キャンプに住んでいましたが、現在は避難民が家に戻りつつある。UNICEFは、国内避難民キャンプで引き続き、水と衛生や医療、教育などの小規模の緊急人道支援を続けると同時に、避難民の自発的帰還を促進させるため、破壊されつくされた村々で、学校やクリニック、飲み水のための井戸などの基礎インフラを再建しています。壊れた学校や使えなくなったコミュニティ・センターを建て直し、保健婦を訓練して移動クリニックを導入するなど、他の国連機関やNGOと一緒に、合同の計画のもとに調整しながらやっています。例えば、幾つかのNGOがいつまでも避難民キャンプで緊急支援を実施していると、難民は村に自主的には帰らないので、国連人道支援調整部(OCHA)などが復興への移行を進め、人道機関も開発機関も同じ方向を向いてプロジェクトを組むように調整しています。今の国連はクラスター制度が導入されたので、ウガンダ北部ではOCHAの調整のもと、UNICEFは水と衛生・教育・子どもの保護、またWHOとともに保健を担当、WFPが食糧の配布を担当しています。
今後のキャリアについても、私は緊急支援から復興への移行期が面白いと思っています。その中で、プランニングやマネジメントの方面に進みたいと思っています。自分はもともとは教育の専門で入りましたが、より広い視野で全体を見てみると、まったく関係のないと思っていた分野に相互関係が見えてくることもあります。私の性格からして、本部で政策を分析するよりも現場の受益者に近いところで仕事をするほうが向いていると思います。どさまわりの人生なのです(笑)。
Q. ウガンダ北部には、子ども兵は多いのでしょうか。
子ども兵について、人道機関の間では「この子が子ども兵だった」と言わないようにしよう、という暗黙の了解があります。ただ、2万5千人から3万人の子どもたちが兵士として使われた紛争ですから、それだけの数に近い元子ども兵がウガンダにいるということになります。誘拐された多くの子どもたちは兵士として、自分の意思に反して筆舌に尽くしがたい行為をしいられました。誘拐されたときは被害者であった子どもが自分の村にやっと帰ってこれたときには、村人の目から見ると加害者になっているのです。子どもたちが兵士としてつかわれている間の苦しみは私たちの想像を絶するものがありますが、自分の村に帰ってきた後で、村人から受ける差別的扱いをうける、レッテルをはられて罵倒されるので家から一歩も出られないという更なる苦悩が待っているのです。北ウガンダでは、去年・一昨年に多くの子ども兵が帰還し、現在はリハビリや職業訓練などの受益者になっています。子ども兵は、普通、自力で逃げてくるか、政府軍との戦闘のあと、投降して引き渡されるかのどちらかが多い。現在でも約3000人の子どもと女性がLRAのもとで南スーダンにおいて拘束されているといわれています。南スーダンから自力で戻ってくることはほぼ不可能なので、現在UNICEFは南スーダンオフィスなどとともにこの子どもたちの帰還を促進するため働きかけています。
Q. 国連で働く魅力はなんでしょうか。また、これまで一番思い出に残っていることは何ですか。
国連には、たくさん機関があって、話し合いをしながら物事を進めていくのが面白い。特に地方にいると横の繋がりが強いので、UNHCRやWFP、WHOの人などと一緒にお仕事をするのは、とても面白いです。また、国連はNGOと異なり、政府に招待されて各国に行っているので、相手政府に残していけるものがたくさんあるという点が、やりがいがあります。また、いろんな国籍の職員がいろいろな意見をもっているのが、やはり面白いです。
緊急支援で働く醍醐味は、結果がすべてなところ。皆が同じ方向に向かって、突っ走り、国連は先導していくところ。逆に、緊急支援をやっていて一番難しいのは、どのようにsustainability に繋げていくかということです。
最も印象に残っているのは、アフガニスタンにいたザハラちゃんという女の子に出会ったことです。タリバン時代には、学校に行くために男の子に成りすまして登校した女の子です。映画にもなったような話ですが、アフガンにはこのような子どもが何人もいたのです。タリバンに見つかれば処刑される可能性もありました。命の危険を冒してまでも、「どうしても学校に行きたい」という子どもの願いを、無下にすることができなかったと、ご両親が語っていたのが、とても印象に残りました。
Q. 国連に入って一番たいへんだったことは何ですか。
のど元を過ぎれば多くのことは忘れてしまうものなので、苦しかったことはあまり覚えていません。敢えて言うとすれば、UNICEFは政府と一緒に仕事をするので、無気力な地方政府のおじさんがカウンターパートにいるとやはり難しいということでしょうか。きっと戦争中に、私には想像もつかないつらい目にたくさん遭った人なのかもしれませんが、彼ら役人は、教育や保健のための事業を遂行する責任があるということを自覚してもらう必要があります。UNICEFにいる私が自分で事業をやってしまったほうがよっぽど簡単ですが、それではプロの仕事ではない。UNICEFがいなくなったあとも事業が続くように、地元政府の役人を育てていかなくてはいけません。
そんなときは、毎日役所に通って部屋に缶詰状態にし、一緒にエクセルを打とうとやる気を起こさせます。毎日通っていくと、そのうちに相手もあきらめてしぶしぶ仕事をするようになるのですが、そういう人をUNICEFの味方につけて教育や保健の事業を遂行していくのは至難の技です。教員の時に会ったやる目的を失ってしまった学生と似ていますが、こちらのおじさんがたには責任があるのが大きな違いです。しかし、仕事は癖なので、きちんとやる癖さえつければ基本的なことはできるようになります。
一番難しいことといえば、プライベートと仕事との両立でしょうか。2年ごとに転々と各国を異動していると、根無し草のようになってしまう。特にUNICEFでは、ずっと単身で働いている女性が多い。無我夢中で「世界の子どもたちのために」と突っ走ってしまうのは、実は最も簡単で危険。緊急支援の世界では、特に、バーンアウトしてしまうこともあります。
Q. 日本ができる貢献についてどうお考えでしょうか。
昨3月、日本から谷垣議員などのUNICEF議員連盟の方々がウガンダまで視察にいらっしゃってくださいました。アフリカというのは日本には見えてこない大陸。どんなに人がバタバタ死んでいっても、日本ではよっぽどのことがないかぎりニュースにならない。ですから、これだけ日本の税金が使われているところに日本の議員さんを連れて行くということは、たいへん有意義なことです。アフリカでもアフガニスタンでも、受益者にとって、日本は先進国・ドナー国でありながら特殊な位置にあります。
「戦後、あれほどボロボロになったにもかかわらず、早い勢いで立ち上がってすごいね、ぼくたちもあんな国になりたい、あんなふうに立ち直りたい」と、純粋に憧れている国です。その日本から議員さんが戦後復興の現場を励ましに来るとなると、ウガンダの地方の村長さんやウガンダの議員などは大感激をし、たいへん励まされるのです。戦争をもう絶対にしないという日本の立場を国際的にも理解してもらえる機会になる。日本にとっても、受益者がこれだけ喜んでいるということを知ることによって、もっとモチベーションがあがる。ウガンダと日本の相互に、モチベーションがあがるのです。
私も今後、もっと強気の姿勢で日本の貢献を伝えていかなければいけないと思っています。日本は、国際舞台の中ですばらしいオピニオン・リーダーになれると思うし、今後なっていくんだと私は思います。
日本からいらした議員連盟の方々は皆さん驚いていました。「アフリカにはこんな状況があるんだ、これはもっとたくさんの人に見てもらわなければいけない、子どもたちが元気だね、本当にたくさんいるね」と驚かれていた。日本の子どもたちは最近元気がないので、この元気を伝えてほしいです。
Q. グローバルイシューに取り組むことを考えている人に贈る言葉をお願いします
若い国連スタッフの方々は、常にネットワークとアンテナを張り、聞く耳をもつのが大切です。特に緊急支援に関わりたいのであれば、急に人手が必要になることもある。私ももっと早いうちから常に連絡をとって、いろいろな方の話を聞いておけばよかったと思ったことがありました。UNICEFならUNICEF、国連なら国連で働くと決めたのであれば、どのような契約形態でもあきらめないで、根気強く続けることが大切です。
私も国連に行くためにがんばりましたが、エリートコースをたどってきたわけではありません。あきらめないでいれば、誰でも国際貢献はできるんだ、誰にでも機会はあるんだということを、皆さんにも知ってほしいです。UNICEFで働くのもひとつの貢献だし、日本政府にこんなことをしてくださいと働きかけることもひとつの貢献、しかし国連やNGOで働くことだけが国際貢献ではありません。
日本人がやらなくてはいけないことは、世界にたくさんあります。日本人が伝えなければいけないことも、たくさんあります。若い人たちと一緒に、こうしたことを実現していければと思っています。
(2007年5月25日、聞き手:藤澤有希子、外務省在スーダン大使館政務班専門調査員、幹事会。写真:森口水翔、フォトジャーナリスト。編集:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネーター。)
2007年8月28日掲載