第75回 山下 真理さん 国連事務局・政務局

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プロフィール

山下真理(やました まり):東京都出身。上智大学法学部国際関係法学科卒。フレッチャー法律外交大学院(1990年)。1990年国連競争試験に合格、同年より国連事務局情報収集調査局、選挙支援部に勤務。2002年より同事務局アフリカ局。2007年より現職。

Q. まず、現在の国連でのお仕事に就かれるきっかけや経緯を教えてください。

高校生の頃から国連に入りたいと思っていて、高校卒業後は上智大学の法学部国際関係法学科に入学しました。まだできたばかりの学科でしたが、国際社会で仕事をしたい人たちの人材育成を掲げていたところに惹かれて入学を決意したのです。大学卒業後は、国連で働くのであれば英語力と専門性が求められるのではと思い、アメリカの大学院に留学しました。

大学院留学中の夏休みに、これまで憧れていた国連の中身を見てみようと思ってインターンをし、やはり国連で働きたいと思えたので在学中に国連競争試験を受験することにしました。実は、競争試験の前日に提出だった修士論文を徹夜で仕上げた後に友人の家に泊まって試験勉強をする予定だったのですが、ニューヨークに着いた途端、持ってきた本を読むこともなくそのまま疲れて寝てしまったんですよ。翌日の試験はとても不機嫌な形で受験することになったものの(笑)、大学院では国連中心の授業を取っていましたし、幸いにも試験内容が修士論文で書いたことにも似ていたので、すべてに回答することができました。すごい必死になって書きましたけど(笑)。

競争試験の合否を待っている間、すでに合格していたJPOでエルサレムの国連平和維持活動(以下PKO)が若い政務官を募集していることを知り、その仕事をしたいと思ってやり取りをしていたのですが、結局その手続きに時間がかかってしまっているうちに競争試験の合格をいただいたので、そちらをお受けすることにしました。こうして、私の場合、国連では珍しく大学院卒業後にすぐに国連で働き始めました。

Q. 国連では具体的にどのようなお仕事をされてきたのですか?

1990年12月に私が国連で働き始めた頃は冷戦終結直後で、国連のシステムも冷戦の影響を受けていました。ソ連が安保理局の事務次長、アメリカが総会関係の事務次長を輩出していたような当時には、まだ現在私が働いている政務局というのはなかったんです。国連に入ると、まず大学院在学中のインターン先でもあった事務次長室直属の情報収集調査局というところに配属されました。そこでは20人の職員で政務や分析を行っていたのですが、人材が不足していて、地域分析をするのに3人でアフリカ大陸と中東を見なければならないような状態でした。

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ところがしばらくしてブトロス・ガリ前事務局長が就任し、国連の機構改革が始まったときに、その私が働いていた事務所が廃止になったんです。ある朝突然、「本日をもって、情報収集調査局を廃止とする」といった内容の通達が机の上にあったときにはどうしようかと思いましたが(笑)、その時に新しくできた政務局に配属されることになり、選挙支援部というところに8年勤めました。

私が選挙支援部にいた90年代はPKOが繁栄した時期でした。紛争地域で和平合意ができて、PKOが入って、紛争が終わったあと、当事者たちが選挙を通して新しい政府を選んで、PKOが撤退するといったシナリオが多くありましたね。カンボジア、モザンビーク、エルサルバドル、エリトリア、南アフリカなどのPKOでも、選挙監視だけでなく、選挙委員会への技術援助を行うなど選挙支援の範囲が増えてきた頃でした。そのため同部の仕事は出張が多く、一年に3~4か月は外に出ているような状態でした。子どもが生まれた年にたまたまアフリカ局への配属替えの話があり、2001年にはそれほど出張が多くないアフリカ局に移りました。

アフリカ局では5年、南部アフリカを担当しました。最初に、当時紛争が続いていたアンゴラを担当することになりました。93年の選挙の際には国連が選挙の監視をしたのですが、当時の反政府ゲリラUNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)のリーダーであったサヴィンビ議長が結果を受け入れず、結局紛争に戻ってしまいます。その後、サヴィンビ議長が政府軍との闘争で戦死し、最終的な和平条約が結ばれることになって、国連が6か月だけのPKOを派遣することになり、その時がアフリカ局に移って最初の出張になりました。アンゴラのあとはジンバブエを担当し、その後、約1年前にアジア太平洋局に移りました。

Q. これまで手がけたお仕事の中で印象に残っている仕事は何でしたか?

私はずっと国連で働きたいと思って国連に入ったので、仕事を始めてからの十数年を振り返ってみても、毎日がとても充実しています。でも、一番楽しいのはやっぱりフィールドにいる時ですね。国連は大きな組織ですし官僚的で難しいところもたくさんありますが、フィールドに出れば若くても重要なポストにつけますし、自分の行動範囲と影響力が増えるのでとても面白いと思います。

94年にはアルメニアで6か月くらいを過ごしました。アルメニアは小さな国ですが、歴史があり、回教が大部分を占めるトルコやアゼルバイジャンに挟まれた地理的環境の中でアルメニア正教(キリスト教の一派)を守り通してきたということで、人々は民族としての誇りを持っています。とても美しい国ですよ。当時は、ソ連崩壊後に国連が初めて選挙を支援するケースでもあり、オフィスを立ち上げ、スタッフを雇用して選挙に関する監視活動をすべて担うという、当時まだ若かった私にとってはとても大きな仕事を任されました。その頃のアルメニアは政治的に難しい時期で、国連に対する懐疑心が強く残っていましたし、若い女性が国連を代表しているということで現地の政府から圧力がかかることもあり、仕事は決して簡単なものではありませんでした。幸い私はよい上司と環境に恵まれたので、そのことが国連の立場を十分に維持できるという自信につながり、いろいろな困難に屈することなく仕事をすることができました。

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もう一つ印象に残っているのは、クロアチアの東側に位置し、最後に残ったセルビア系の地域だった東スロベニアに行った時のことです。1995年のデイトン合意(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結の和平合意)後、国連が統治機構として同地域を担当することになり、私は副代表として派遣されました。国連は現地の人たちと協力しながら地域選挙を支援し、少数派の意見を中央政府に反映できるようなシステムを支援しながら最終的には同地域をクロアチアの国の中に戻す、ということを目的として統治を進めていたのですが、同地域の人々はセルビア人としての意識を持っていて、クロアチアの一部になることに反対していました。国連に対する平和的な反対運動も毎日起こっていて、彼らは国連がセルビアの一部になりたい自分たちの邪魔をしに来ていると受け止めていたのです。国連は彼らを助けるために来ているのに、まったく彼らに理解されないまま選挙準備をするのはとてもたいへんでした。

東スロベニアの仕事は2年ほどで終了して成功を収めましたが、その間、この平和な21世紀には考えられないような戦争の現実に直面しました。当時は150人ほどいたスタッフの三分の一くらいは現地の人そして、残りの三分の二はユーゴスラビア周辺の紛争地域でPKOを数年間にわたり経験してきた人々です。職員の多くが戦争の痛みを肌で感じている現地の人たちと直に接する仕事をしてきたことで自らもトラウマを被り、精神的に参っているのがよくわかりました。また、東スロベニアの街には戦争で破壊された建物が残っていて、ゴーストタウンのようでした。まさに戦争の地に来たという現実を肌で感じます。一方で、ニューヨークの本部で仕事をしていると大きな組織の一部であり、そういった現実とも離れたところにいますから、同じ政治に関する仕事をしていても、やはりギャップを感じます。

Q.今後はまた現場に戻って仕事をしたいと思いますか?

ぜひしたいですね。私が国連に入った当時は冷戦直後だったので、まだ国連はそれほど活動をしておらず影響力もありませんでしたが、90年代に入って国際社会も変わり、国連自身もそれに合わせて変わってきたと思うんです。現場に行くと、現場の鼓動や匂いを感じたり、現地の人たちが何を考えて、何を思って、国連に何を求めているのかを実感できるわけですが、ニューヨークにいると限られた情報を得ることしかできません。現地とのコミュニケーションをどんなに密にしていても、現地に住んで仕事をするのとは代え難いものがありますね。

国連には大使館のようなものがないですから、開発途上国で国連が活動を始める際には国連開発計画(UNDP)が最初のパートナーになり、UNDPの代表が他の国連組織も一括したUNカントリーチームの代表となります。現地での国連代表としては、開発や専門分野だけをやってきたというよりも、政治的な感覚と分析力がないと十分に務まらないという認識がだんだん高まってきたので、今後はそういうポストもできてくると思いますし、そういった仕事も面白そうだなと思います。特別にどこの地域に行きたいということはないのですが、私の主人はアメリカ人で医者をしていて、子どももいますので、家族のことを考えると行き先は制限されてくると思います。ただ、主人とは今後のことはなるべく創造的、柔軟に考え、二人のキャリアを長期戦で両立して仕事を続けていこうと話しています。

Q. 現在はどういったお仕事をされていますか?

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現在は東南アジアと太平洋地域を全部管轄する部署でチームリーダーをしています。去年の夏あたりからはミャンマーに対する国際社会の関心が高まり、安保理の議題にも上がりましたので、私も去年の9割ほどはミャンマーに関わった仕事をしていました。ミャンマーは孤立した軍事政権で政治的にも保守的で、経済的にも社会的にも悪化の一途をたどっています。昨年のデモに僧侶が関わったのも、政治的に何かをするというわけではなく、生活環境が悪化しているということを国民と一緒になって見せたかったわけです。でも軍事政権は、経済状況は制裁があるから悪化しているわけで、自分たちに非があるとは思っていない。その時点でまず基本的な対話が困難になります。ミャンマーのちょっとしたジェスチャーで国際社会はサポートに向いていくと思うのですが、そういったジェスチャーがないので、一歩進み、二歩下がりといった感じで、難しい状態が続いています。

また、ミャンマーと周辺国との関係も複雑です。特に中国とインドは重要な立場にあり、ミャンマーに対する影響力を持っていますし、一方で、ASEAN10か国はASEANの一員であるミャンマーに対しては西側のような極端なポジションは取らずに、ニュアンスで伝えていきたいと考えています。極端に言うと、西側は制裁をして今の軍事政権を追い出したいと考えている一方で、中国やインドなどの周辺国は今のミャンマーの政権による政治プロセスは不完全でありながらも長い過程の中の一つのスタートとして考え、国連はそのステップをサポートする義務があるという考えを持っています。国連はそういった周辺国のことを理解し、大国であるアメリカ、イギリス、フランス、また中国とも調整して中立性を保ちながら、国際社会全体がどういうアプローチをとってミャンマーに歩み寄るかを調整していかなければなりません。国連の事務総長は各国の国益が入り交ざった状況の中、現実的で国際基準に従った政策を見つけ、それを駆使しなければならないわけですが、実際に関わっていると政治の現実を感じて難しいなと思いますね。

Q. 国連が現在のミャンマー情勢に対して貢献できること、また、日本が貢献できることは何でしょうか?

ミャンマーでは、西側が行った制裁だけでは何も結果が残せなかった。対話を続けていこうと特使を何度も派遣しましたが、それでも思うように進まなかった。そして今、国連はミャンマーに対して政治面だけでなく経済面、社会面、人道面でも幅広くサポートできるように新たなアプローチを探っている最中にあります。ミャンマーが国連のパートナーとしていろいろな分野で少しずつ現在のような孤立した状態を変えていく姿勢を見せてくれば、西側やドナーもミャンマーの発展のためにサポートをしていく準備があるのです。それを具体的にどうやって進めていくのかが焦点となっています。

アジアではやはりアジア的なアプローチが重視されます。もちろん中国は安保理の常任理事国ということでアジアの声を反映していますが、中国だからということで別の角度から見られることもあります。ですから、日本はアジア的な解決策を見出して、国際社会で主導権を取って問題を解決していくということができると思うのです。アジアの中の先進国としてユニークな立場にある日本が果たせる役割はたくさんあると思いますし、そんな日本に対する国際社会の期待も大きいと思います。

Q. 最後に、これから国連など国際社会で活躍したいと考えている後輩たちに、メッセージをお願いします。

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普通に日本の学校に行って、他の学生と同じように国連に憧れていた私でも入れたわけですから、これから国連を目指す人たちにもぜひ頑張ってもらいたいですね。国連は日本人、特に女性がまだまだ少ないので、入る枠はたくさんあると思います。若い学生の人たちにとっては競争試験が入りやすいと思いますので、ぜひ何度も挑戦してもらいたい。ただ、国連に入るにはある程度の覚悟が必要です。国連は全体的に個人主義だし、欧米社会の影響が強いので、消極的な日本人には少し不利なのは事実です。また公用語のうち4か国語くらいを話す人が当然のようにたくさんいる国連で、少なくとも英語で文章が書け、議論もでき、十分仕事ができるくらいの語学力は必要ですね。日本で英語が得意くらいのレベルではだめでなんです。

あとは、熱望というか、情熱。国連は官僚組織でやり辛い事もたくさんあると思うのですが、どんなに辛い時でも自分でこれがあったんだから入ったんだと思えるくらいの情熱がないと、続けていくのは難しいと思います。逆に、本当に自分の好きなことを見つけて、それが国連であって、自分ひとりでもやっていけるという自信があれば、誰にでもできると思います。

これから大学を終える人もいれば、いろいろなキャリアを積んできて転職をする人もいると思いますが、たくさんの人たちに国連に貢献してもらいたい。国連には各自のいろいろなバックグラウンドを発揮できるスペースがあります。それが国連のいいところですね。

(2008年2月20日。聞き手:藤田真紀子、コロンビア大学SIPA、幹事会でウェブ担当。写真:田瀬和夫、国連事務局で人間の安全保障を担当。幹事会コーディネータ。)

2008年6月7日掲載