第85回 金児 真依さん 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)駐日事務所 法務部・法務官補佐

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プロフィール

金児真依(かねこ・まい):2004年、米国コロンビア大学国際関係大学院(SIPA)にて修士号取得(人権・人道支援学専攻)。2004年5月から現職。

Q. 難民問題に興味を持つようになったきっかけは何ですか?

学部生時代、在日の難民の支援をしているNGOのお手伝いをしていました。そこでは、会議の調整業務や翻訳のお手伝いをしたり、収容所に赴いて難民申請者の方に面会に行ったりしましたね。これらの活動を通し、実際に戦争が起こっている国などから来た難民の方々と出会ったことが、私が難民問題に興味を持つきっかけとなりました。中には自分と同年代の人もいて、一見「フツー」の若者なのだけど、私が一生経験しないであろう悲しみや苦しみを経験してきていました。「どこの国に生まれたか、どういう民族に生まれたか」という、自分の努力とも関係ない、コントロールのきかないことで、彼らと私の境遇が全く違うことに、単純な疑問を覚えたんです。

また、今思うと外国の方も出入りするリベラルな家庭環境で育ち幼い頃からマイノリティに接する機会が多かったことも、難民の方に興味を持つ素地になったのかもしれません。

Q. 国連職員に憧れる若者の多くは英語に不安を感じています。英語はいつ勉強されたのですか?

英語は、学部生時代にアメリカに交換留学して身につけました。それまでは海外で生活した経験はありませんでした。留学でも、はじめのうちは英語で苦労しました。1日あたり100ページほども出される課題の本を読むために、6:00AMから泣きが入りながら(笑)図書館にこもって授業に備えていましたよ。また、授業では積極的に発言するアメリカ人の学生に負けないように、「1つのクラスで3回は発言する」という目標を立て、授業についていくように努力しました。

Q. UNHCRで働くようになった経緯を教えてください。

「国連で働きたかった」というよりは、難民などマイノリティに関わる仕事がしたかったというのが、国連で働くことになった理由です。大学院で難民政策に関する論文を書いたことや、UNHCRインド事務所でのインターンの経験、学生時代にお世話になったNGOや弁護士の方々のお支えもあり、現在UNHCRで働いています。

Q. 大学院に進学するか、就職をするか、迷うことはありましたか?

私は学部を卒業後、大学院に進学する道を選んだのですが、進路を決めるに当たっては、やはり迷うこともありました。私が進学を選んだ最たる理由は、「難民法・人権法を学びたい」という、その時を逃したら後悔してしまうような情熱があったからだと思います。

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さて、私は学生のころから難民支援ボランティアをし、大学院でも難民政策について学び、院卒業後すぐにUNHCRで働きはじめたわけですが、やはり働き始めてギャップを感じました。社会人、とくに国際公務員という立場になってはじめて実感しましたが、学生の頃の自分はまさに「木を見て森を見ず」だったんだな、と。学生だと、責任もないし、いわば簡単に理想を語り、目の前のAさん、Bさんの苦境をとりあげて、一方的に救済を要請することもできたわけです。もちろん、目の前の人を助けたい、という気持ちはすごく尊いし、それが無くて難民支援はできません。しかし、組織の一員、とくに一国の難民政策についてアドバイスする立場である国連という組織の一員になると、それだけでは済まされないですよね。国家が抱えるいろいろな制約や、両立しなければいけない課題を政府と一緒に考えた上で、現実的な、しかし原則に沿った提案をしなくてはならないのですから。はじめのうちは、学生の頃の自分の考えの甘さに気づき、戸惑うこともよくありました。

また、毎日の仕事をする上でも、社会人としての経験が非常に大切だと感じました。法務部の仕事は、非常に繊細な判断と即戦力が求められるので、特に最初のほうは、きちんとした(特に日本の会社などでの)社会での経験があれば仕事がずっとやりやすかっただろうと思うことが多々ありました。幸い、上司や同僚や、カウンターパートの皆さんに育てていただき、また支えていただき4年間やってくることができましたが。

Q. 現在のお仕事について教えてください。

私のいる法務部は、UNHCR駐日事務所のなかでも、日本での難民保護を行っています。難民の受け入れのために法務省を中心とした日本政府そして市民社会と協力するわけです。もう少し具体的に言うと、日本は難民条約に入っていますから入国管理局が難民を認定する手続きをもっており、それを通して難民が確実に保護されるためのお手伝いをするということです。その中には、法務省や裁判所に法律の文言の解釈や、難民認定手続きの運用などについてアドバイスする、難民申請者の出身国の状況を伝えるといった情報提供、サポートの仕事があります。また入国管理局の難民認定に携わる方々、入国審査官、警備官の皆様へのブリーフィングなども行います。難民申請者の個別支援もNGOや弁護士を通してやっていますからそこでの皆様との調整・協力もあります。

Q. どういった時にお仕事にやりがいを感じますか?

一言で言うと、自分が”useful”であると感じるとき、つまり難民の方の役に立てたと思うときです。

やはりまず、難民該当性のある人が難民認定を受けることができたときですね。また難民の方が日本社会で活躍している様子を知ったときです。最近、難民の方の息子さんがある大学とUNHCRとの難民向け奨学金プログラムの枠に入ったんですが、その時のご家族の嬉しそうな様子は忘れられません。お父様は学歴もあって、何ヶ国語も喋れて優秀な方なのですが、日本社会では言葉の問題や差別もあって工場でしか働けないのです。お母様も修士号まで持っているのですが状況は同じで、生活も苦しい。そんな状況だからお父様は3人の子どもたちを大学に行かせるため、少しでもお金を浮かせようと今でもお昼ご飯を食べないのです。そういうご苦労を考えると息子さんが難民向け奨学金制度に受かったときのお父様・お母様の顔は忘れられないです。そういう喜んでいる顔を見ると今の仕事はやめられないですね。

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それから、私自身は入国管理局の入国審査官・警備官の皆様へのブリーフィングを年に500人近くを対象に行うのですが、これにも非常にやりがいを感じています。日本の場合難民の保護を入国管理局が担当します。しかし入国管理上望ましくないと思われる人を管理・抑制する仕事もしているわけです。もちろん、国家が入国管理をすること自体は正当なことです。しかし、この保護と抑制の対象が重なったときは問題が起こることがあります。特に難民の人たちは命からがら逃げてきているため、パスポートやビザもなく、密入国業者などをつかわざるをえず、結果、入国管理上「怪しく」見えてしまうことが多いです。

ここで、「入国管理」をしながらも、「難民保護」という全く異なる仕事を両立するためのお手伝いするのが私たちの役割なわけです。だから、そもそも難民というのはどういう人か、普通の外国人や移住労働者とどう違うのか、どういったところに特別なケアが必要か、といったことに私のブリーフィングでは重きを置いています。例えば、難民の多くは、法律の知識などもないため、帰ったら「危ない」ということはわかっていても、自分が難民条約に書いてある「難民」であることを認識している人ばかりではないし、日本に「難民認定申請」の制度があるということを知っている人も多くないのです。また、多くは自国の公務員に迫害された経験を持っているため、他の国に行っても、そこの公務員を信頼して心を開くのにも時間がかかるのです。ましてや、家族にも言えない、まさに人生最悪の経験を語り保護を訴えるのは勇気が要ることです。だからこそ、最前線にたつ入国審査官・警備官の皆様には「難民保護のアンテナ」をぴーんと張っていただき、難民の置かれている状況を、より敏感に察知して対応していただきたいのです。

そういった思いで仕事をしていますが、ブリーフィングに参加してくださった皆さんからのフィードバックなどを見させていただくと、難民の特別なニーズに対しての意識向上に役立っていると感じます。そういった方たちが活躍されることによって、難民がより速く確実に保護されることに繋がっていってほしいですね。

最後に、マクロな視点からいくと、近年では法務省とUNHCRの協力関係も益々強くなっていますし、難民認定や人道配慮の数も増えています。難民認定手続きの透明性も上がっていますし、確実にポジティブな進展があります。こういう時期に、日本のUNHCRで働けるということを誇りに思いますし、私、ラッキーだなぁ、と感謝しています。

Q. 逆に、辛いと感じるお仕事はありますか?

難民申請者が収容されている現状を目の当たりにすることですね。難民申請する人の多くはいわゆる不法入国や不法滞在をしているのですが、そういう人は他の外国人と同じように、入国管理局に収容されることがあります。例えば、パスポートもビザもなく空港について難民申請をすると、収容がなされます。人によっては、いつ身柄が解放されるかわからないまま、そのまま長期間収容されることもあります。

多くの難民の方は日本に至るまでに拘禁され拷問を受けたりして、心的トラウマを抱えています。私の聞き取ったことのあるケースでも、ある方はその母国で、何週間ものあいだ、警察官や軍人などから水攻めや電気ショックを受けたと言いますし、ある方は両手の爪をはがされたり、真っ裸でさかさづりをされたりしたとおっしゃっていました。そういった辛い経験をされている方にとって収容というのは第二の心的トラウマとなるのです。

もちろん、国としては治安も維持しなければいけませんし、違法状態の人の逃亡を防いだりする必要があります。しかし、それによって保護を必要とする難民が犠牲になってはならないわけで、難民申請者に関しては収容をなるべく避ける方策を探る必要があります。

あと辛いことというと、すべての困っている人を支援できるわけではないということですね。たいへんな苦労をなさっているのだけど、「難民」の法律の定義にはあてはまらない、法の枠組みでは救えない方がいるのも事実です。プロフェッショナルとして、こういった方にNOと言うことは仕事だからやりますがやはり非常に辛いです。

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Q. 現状への不満やこうなればいいのにと思うことはありますか?

収容に関して言えば、日本の場合は収容以外の仮滞在や仮放免という素晴らしい制度があるのだから、それをより多くの人に適用してもらいたいと思います。だからこそ政府がそれを適用しやすいように、NGOなど各関係者とも協力して、サポートをする方法を見出すのが今のUNHCRの課題の一つです。

もう一点私が願うことは、日本社会が難民の方をもっと受け入れてくれるようになることですね。いじめられている難民の子どもは意外と多いです。不登校になってしまうこともあります。肌の色が違うから、親の日本語が変だから、「怪しい国」から来たから、等とかいう理由でいじめられて、いわば「非行に走ってしまう」ということもあります。それは周りのサポートにも問題があるのですよね。クラスメートのサポートや、PTAの方々の繋がりというものも難民の子どもたちにとって大事なものなのです。

他にもアフリカの難民の方だと道で止められたりとか、失礼なことを言われたりとかということも多いようです。ある方は、突然事務所に飛び込んできたのですが、もう10年近く日本にいるのに差別的発言を受け続けてきており「僕なんか、いつまでたったって日本人に受け入れてもらえないんだ!」と入ってくるなり目の前で泣き崩れていました。多くの方は、なじみの薄いアフリカの出身であることで、他の難民以上に仕事も見つかりにくく、家も借りられにくいということで非常に苦労されていますね。

Q. 今後、ご自身のキャリアアップを図るうえでフィールドでのお仕事を希望されますか?

日本も十分フィールド、つまり難民支援の現場だと感じています。世界の難民政策がむしろ後ろ向きになっている一方で、日本は確実に前向きな方向に進んでいます。今後数年の間に日本の難民制度はより発展していくでしょうから、今はむしろこの日本という現場から離れたくないですね。

それもあり、現時点では、日本でローカル・スタッフ(現地採用の職員)であるのが一番自分は”useful”でしかも幸せでいられると思います。日本でUNHCRがその役割を果たすためには、日本語という媒介、文化や価値観への配慮が非常に重要です。だからこそ、私のような日本人職員の役割が決定的になることがあります。だから、私は日本の歴史や背景などに気をつけながら責任を持って仕事をすることに、たいへんやりがいを感じています。なにしろ、4年たった今でも、毎日学びや気づきの連続ですから!

もちろん、海外で難民支援をしたいという気持ちはありますが、自分が一番良い方法で難民の方の力になれる環境を大切にしたいですし、自分が海外で貢献できると感じたときは、ぜひ日本以外のフィールドでもお仕事をしてみたいですね。

Q. グローバルイシューに関心のある若者にメッセージをお願いします。

私が学生だった頃、難民に関心を持っている人なんて周りにはほとんどいませんでした。学食で日本の難民問題について話そうものなら、「ダサい」という反応をされて「ひかれて」いました(笑)。でも今は変わってきていますね。地球規模の問題に興味を持つ若者が増えていることをたいへん心強く、そしてとても嬉しく思います。難民に興味のある若者が社会に出たとき、難民の人たちが生きやすい日本社会がつくられていくのでしょうね。

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それから、一度しかない人生ですから自分の関心のある問題に対して「アツくなってかっこ悪いかも」と思っても、時には涙を流しながら他人に「ひかれて」も、気にせずに自分の信じたことをやる、アツい人になってほしいと思います。

また、私自身もつい忘れがちになってしまうので、自分に言い聞かせるつもりで言いますが、私や皆さんの普段の生活は当たり前ではありません。偶然が重なって自分がここにいるという奇跡に感謝しつつ、身の回りのことから少しでも変えて行こうという気持ちを忘れないでください。

(2008年3月25日。聞き手:西原正純、早稲田大学国際教養学部。岡本竜、東京大学教養学部文科二類。忽滑谷諒子、関西学院大学法学部。写真:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネータ)

2008年10月8日掲載