第84回 井上 健さん 国連東ティモール統合ミッション・ガバナンス部長・首席ガバナンスアドバイザー
プロフィール
井上健(いのうえ・けん):1957年生まれ、東京都出身。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、イギリス・サセックス大学開発学研究所(IDS)にてMPhil Development Studies取得。1985年、国連開発計画(UNDP)トリニダード・トバゴ事務所にJPOとして勤務。その後、国連カンボジア人道援助支援担当事務総長特別代表室、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)、第二次国連ソマリア活動(UNOSOM II)、国連ボランティア計画(UNV)事務局、国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)、アジア生産性機構(APO)などを経て、2007年2月より東ティモール統合ミッション(UNMIT)ガバナンス部長・首席ガバナンスアドバイザー。
Q. 国連に興味を持ったきっかけを教えて下さい。
私は小さな頃から好奇心が旺盛で、丘があれば登ってみないと気が済まないというような子どもでした。大きくなったら、島国日本の外にはどんな世界があるんだろうと興味が湧いてきて、大学生のときに一年休学して一人世界旅行に出ました。全部で402泊403日の旅で、北米・南米・アフリカ・ヨーロッパ・アジアと回ったんですが、途上国を訪ねることが多く、そのときに途上国の問題に関心を持つようになりました。その延長線上で国際機関で働いてみたいと思うようになりました。
Q. 世界旅行をしていて、途上国の問題を肌で感じたということでしょうか?
日本とは違った貧しさを行った先々で感じました。例えばグアテマラの奥地の村に行ったとき、店で働いていた女の子に「日本に連れて行って」と言われたことがありました。話していて判ったのは、その女の子は夜のお店で働いていて子どもが一人か二人いたんですが、私と同い年だったんです。彼女と私はほとんど同じ時にこの地上に生まれたのに、私はたまたま日本という豊かな国に生まれて、彼女はたまたまグアテマラの奥地の村で生まれた。その生まれた場所の違いというものがそれから20年たって何と大きな違いにつながっているんだろうと思いました。彼女は教育も十分に受けることができず未婚の母として働いているのに対し、私は貧乏学生とは言え世界各地を旅行している…同じ人間なのにおかれている状況の違い、その不条理さを感じました。
Q.国連に入った経緯を教えて下さい。
大学卒業を前にして、勉強するのは好きじゃないから働きたいと思い、国際協力事業団(JICA、現国際協力機構)や海外経済協力基金(OECF、現JBIC)など国際協力関係の仕事の面接を受けたのですが、全部落とされたんです。困って大学の恩師に相談したら「井上君、国際協力をやりたいなら留学して、英語を勉強して、修士くらいとっておいたほうがいいよ」と言われイギリスで勉強することにしました。
JPOという制度はイギリスで同じ大学院に通っていた友達から聞きました。最近のJPO試験はとてもたいへんで、成績優秀な人でないとなかなかなれないようですね。私なんかだったら到底無理だっただろうなと思います。二十年前はそもそもインターネットもなかったし情報もほとんど手に入らなかった。「国際公務員への道」なんていう本も一冊も出てなかったからどうやって国連職員になったらいいのかも分からない。そこでニューヨークの国連代表部の人事担当者に会いに行くことにしました。「JPOという制度があるようですが、私もぜひ国連で働きたいのでお願いします」と話をしたら、英語の試験や正式な面接などはなく「井上君はイギリスで勉強しているなら英語はできるよね」「井上君は開発の勉強したんだね、じゃあUNDPがいいんじゃない」と言われUNDPのトリニダード・トバゴ事務所にJPOとして派遣されることになりました。
Q.国連という職場のどういうところに魅力があるのでしょうか?
一つは国際公務員としての誇りを感じることができるという点です。一企業、一国の政府のためだけに働くのではなく、この地球社会全体のために働いているということが実感できます。
もう一つは「理想主義的な実践家になれる」ということでしょうか。国連の掲げている理想というのは国連憲章にも出ているように素晴らしいものがあります。普通の会社であればきれいごとばかり言っていられませんが、国連にいると理想を言い続けることができるし、また言い続けなければならない。そして国連では単に理想を言うだけではなく、それを実践していくことができます。
それから三つ目には多様な文化や価値というものを日々の生活や仕事の中で経験できるということです。それ故にたいへんなことも多いのですが、「こんな考え方の人もいるのか」「こんな習慣もあるのか」「こんな食べ物もあるのか」と常に新しい物を発見していくことができます。
Q.ただ国連もいいところばかりではないですよね?
国連が抱えている問題も多いと思います。私の友人でもこんな官僚機構にはついていけない、と言って辞めていった人もいます。また国連の仕事というのはフィールドをあちこち回らないといけないし、しばしば生活環境の厳しいところや紛争地域にもいかなくてはなりません。子どもの教育の問題もあれば、親の介護の問題に直面することもあります。そういった意味で、国連は入るよりも入ってから働き続けるほうが難しい職場だと思います。ただどんな職場でもいいところと悪いところがあるわけですから、自分にとっていいところが悪いところよりも多ければよしとしていいのではないでしょうか。
Q.これまでのお仕事について教えて下さい。
一番最初にJPOとして3年間、トリニダード・トバゴのUNDPで仕事をしました。だから私は開発協力の仕事から入ったことになります。その後、当時タイとカンボジアの国境沿いに37万人くらいのカンボジア難民・避難民がいて国連が支援していたんですが、そこの国連事務総長特別代表室のプログラムオフィサーとしてバンコクで勤務しました。つまり人道支援の仕事に就いたわけです。それから国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に移って、平和維持活動(PKO)の暫定統治に携わりました。その後は第二次国連ソマリア活動(UNOSOM II)の仕事でソマリアに行って、そこでまた人道支援の仕事をしました。
それから国連ボランティア(UNV)の事務局に移って、ジュネーブで3年、その後ボンに2年、合計5年間勤めました。そのときは開発・人道支援・PKOの分野にボランティアを送ること、それから資金調達の仕事にも関わりました。でも5年も先進国にいるとフィールドが恋しくなって、それで三つ目のPKOとして国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)、そこで市の政治・行政機構をゼロから作り上げるという暫定統治の仕事を2年間しました。それから一時国連を離れて日本に帰って、アジア生産性機構(APO)というアジア地域の国際機関で5年間ほどお世話になりました。でもしばらく日本にいるとまた国連に戻ろうという気になって、そして今四つ目のPKOミッションで、ここ東ティモールに去年の2月から来ています。
Q.これまでフィールドでのお仕事が多かったように思いますが?
そうですね。私は特にフィールドの仕事が好きですね。フィールドの方が自分の活動によって便益を受けている人たちに近いというんでしょうか…自分が働いたことによって人々の生活が良くなったというのが目に見える形で実感できます。
Q.国連で働いていて辛かった経験を教えて下さい。
仕事上の苦労を別にすれば、生活でたいへんだったのはカンボジアで、暑さに苦しみました。本当に暑い国で、当時は電気がなかったので夜は蒸し風呂のような中で寝ていました。そういうときはバスタブに水をはっておいて、夜中に我慢できなくなったら素っ裸で飛び込んで10分くらい身体を冷やして寝る、ということをしていました。
逆に冬のコソボは部屋に置いておいたペットボトルの水が凍るくらい寒いところでした。その上電気も水もない中で生活していました。夕方4時くらいになると日が沈んで真っ暗になるのですが、蝋燭やランプの灯りで仕事をしていました。キャンドルをつけてもちっともロマンチックじゃなかったですね。お風呂にはいるときが一番たいへんで、NGOが配ってくれる水を鍋で沸騰させてからバケツに戻して水でうすめて体を洗っていました。その間10分くらいなんですが凍えそうになるんです。このお風呂も一週間に一回くらいしか入れなくて、コソボでの生活もけっこう辛かった思い出があります。
それに比べたら東ティモールは天国みたいなところです。ここも1999年や2000年にすべてが破壊されたときに来た人たちは、陸の上に住むところがないから船の上に住んでいたそうです。PKOミッションでも、設立後しばらく経って職場や生活の環境が整っているところはいいのですが、立ち上げのときは水も電気も電話も何もないのですごくたいへんだと思います。カンボジアやコソボは立ち上げのときに行ったのでたいへんでした。
Q.国連で働いていて嬉しかった経験を教えて下さい。
コソボで家を破壊されて難民となったアルバニア人が隣国のアルバニアやマケドニアから帰ってきたときのことです。1999年の8月頃だったと思いますが、冬は気温が零下20度くらいまで下がるので家がないと凍死者が出るおそれがある、だから冬が来る前に数千戸の家を直そうということになりました。
そこで大量の資材が必要になって地元の資材屋から買い付けようということになったのですが、入札など通常のプロセスをやっていたら到底間に合わない。そこで町にいって資材業者を集めて「冬が来る前にこの町の家を直さないといけない。儲けはあまりないが協力してほしい」という話をして業者には理解してもらいました。要するにそれはお金を低くおさえるための談合だったんですね。みんな利益がなくても自分たちの町だから自分たちで建て直す、と談合してくれたんです。
次にお金を払う段階になってまた問題が起きました。当時コソボには銀行もなくて現金で決済するしかなかったんです。これも通常の国連の手続きを経ていると間に合わないので、マケドニアの銀行から現金で200万ドルくらいおろして、ヘリでコソボまで運んできました。町へ持って行くのは私の役目でした。一度に数十万ドルくらいのお金を運ぶので、みんなが心配して護衛をつけると言ったのですが、かえって目立つからということで一人で現金を町へ持って行き、私のアパートのベッドの下に隠しておいて、資材業者に支払いをしました。国連の手続きに従わなかったということで、あとでいろいろ問題にはなったんですが、それで数千戸の家を直すことができました。その結果、私が担当していた市では市民が5、6万人いたんですが、凍死者が一人も出ませんでした。あのときはスタッフみんなで本当によく頑張ったし、人々が無事冬を越すことができてとても嬉しかったですね。
Q.働いている中でいつも心掛けていることはありますか?
オフィスでいつも言っていることが三つあります。一つ目はFrankに話しましょうということです。国連は文化の違う人が働いていますから忖度(そんたく)してもらおうなんてことは伝わりません。言わないと分からない世界だからはっきりお互いものを言いましょうというのが一つ目です。二つ目はOpenにしましょうということです。私は国連がやっていることで公開できないことはすごく少ないと思います。また常に新しい情報を仕入れることで自分の価値を高めていかないといけないし、自分が情報を共有すれば相手も共有してくれます。だからオフィスではオープンに情報を共有しましょうと言っています。三つ目はSincere、つまりFrankでOpenな関係でも誠意を持って接することです。どんなに率直に言ったとしても、人間は最終的には誠実さが大切だと思います。率直であること、オープンであること、誠実であること、この三つが仕事をする上でいつも心掛けていることです。
Q.井上さんは四つのPKOを経験されていますが、PKOに日本人が少ないのは何故だとお考えですか?
いろいろな理由があると思いますが、一つはPKOのシステムが日本の雇用システムとかけ離れているからではないでしょうか。日本ではPKOの立ち上げに合わせて仕事を辞めたり休んだりできないということがあります。それに単身赴任のミッションがほとんどです。国連の給料は悪くはありませんが、日本の中堅以上の人にとってそれほど魅力的なものではありません。それでも日本に家族を置いてあえてPKOでの仕事を選択するのかというと疑問です。また雇用保障がまったくないというのも大きな問題です。普通PKOの任期は半年ごとに安保理が決めるので、突然PKOが打ち切りになり仕事を失うこともあります。またその後仕事につける保障もありません。こうした状況ではPKOで働きたいという日本人が少ないのも頷けます。
ただ私は日本に人材がいないとは思いません。日本にも国連で十分通用するいい人材がいると思います。でもそういう人材は既に組織に入ってしまっていて、なかなか出られない状況にあると思います。PKOに日本人を増やすにはその辺を変えていく必要があると思います。例えば企業でも役所でもPKO派遣を希望する人を登録しておいて、PKOが立ち上がったらすぐに派遣して、任期が終わったら元の職場に戻れる、さらにはそれが評価される、昇進できる、という扱いが必要だと思います。PKOに出たために課長になるのが遅れた、となると誰も行きたがらなくなりますから。
Q.ミッションは生活環境の厳しいところが多いと思いますが、そういう環境で生活するにあたって気をつけていることはありますか?
私がいつも言っていることは、出稼ぎ根性はやめた方がいいということです。PKOには半年間しかいないから、ほどほどの仕事と最低限の生活をして給料をもらって帰る、という人も多いのですが、それではいい仕事もできないし、長く続かないと思います。私が常に思っているのは住めば都、住んだところでいかに自分の生活を充実させるかということです。厳しいところであればあるほどどうやって仕事以外の生活を楽しむか、ストレスを解消するか、ということを考えています。そうして初めていい仕事ができると思います。
Q.東ティモールでもそういった努力をされているんでしょうか?
東ティモールは海がきれいですし生活環境も良いので、それほどストレスを感じるところではありません。それでも大きな家に住んでしょっちゅう友人をよんでパーティをやったり、プロジェクターを持ってきて映画を上映したりして楽しんでいますよ。
Q.ソマリアは厳しい環境だったのではないでしょうか?どのような楽しみを見つけられたのですか?
私は『ブラックホークダウン』の映画の事件が起きた4か月後くらいに赴任したんですが、もし映画を観ていたら行かなかっただろうなと思います。ソマリアではバイドアという、当時は「死の町」と言われていたくらい餓死者が出たところで人道支援の仕事をしていました。とにかく厳しい環境で、人道支援って甘いものじゃないと身をもって感じました。
それでもオフの時間をどう過ごそうか考えたときに、ラクダを飼おうと思いましてね。というのも、仕事で乗ったヘリコプターからソマリアの半砂漠地帯をたくさんのラクダが群れをなしているのが見えたんです。実はソマリアは気候風土がラクダに適していてラクダの頭数が世界一多い国なんだそうです。そこで現地のスタッフに頼んでラクダ市に連れていってもらって、子ラクダを買いました。生後1年半くらいの子ラクダで、身長が160センチくらい、69ドルで購入したのを今でも覚えています。
休みの日にはすることもないので一生懸命ラクダを洗っていたんですが、そうしたら近所のソマリア人から「ソマリア中で体を洗ってもらっているラクダは、おまえのラクダしかいない」と大笑いされたりもしました。でもソマリア人はラクダが好きですから、ぴかぴかに輝いているラクダを飼っているということで私は有名になって、とても仕事がしやすくなりました。ラクダも私によくなついて「座れ」と言えば座って、私がのってから「立て」と言えば立って、「歩け」と言えば歩くようになりました。毎朝起きて窓を開けるとそこに自分のラクダがいる、というのはすごく幸せでしたね。仕事は本当にたいへんだったけどラクダがいたから乗り切ることができました。
Q.今のお仕事について教えて下さい。
今は東ティモール統合ミッション(UNMIT)の民主的ガバナンス支援ユニット(Democratic Governance Support Unit)というところにいるんですが、これはPKOの中でも比較的新しい部署です。一言で言うと、紛争後の国に民主主義を根付かせるということをしています。でもこれは単に選挙をやって新しい政府をつくるということではありません。選挙をするだけならある意味簡単なのですが、その結果できた政府が本当に民主的な政府になれるかどうか、というのは時間をかけてみないと分からないんです。
私が最初に行ったPKOミッションはカンボジアでしたが、UNTACはクメールルージュの妨害がありながらも選挙を行った、大成功のミッションだと言われていました。でもその後のカンボジアを見てみると、クーデターも起きたし、汚職や貧富の差もひどいですよね。東ティモールでは平和が定着したと思ってミッションを縮小したところ、2006年に大規模な騒乱が起きました。それでこの国の民主主義がいかに脆いものかということが分かって、UNMITを設立したときに民主主義を定着させるための部署ができたのです。
Q.民主主義を根付かせるとは、具体的にどんなことをされているんでしょうか?
第一には権力の分立ですね。東ティモールには四権(議会・首相府・裁判所・大統領府)がありますが、その間でチェック・アンド・バランス(抑制と均衡)が働いているかどうかをみています。二つ目は地方分権と地方自治の問題です。これまで中央に集中していた権力をどう地方にひろげていくか、ということです。三つ目はアカウンタビリティ(説明責任)の確立と汚職対策。東ティモールでは汚職はまだそれほど大きな問題にはなっていませんが、今のうちから対策をとっておく必要があります。四つ目は公務員制度をいかに強化していくかということです。それから選挙。特に来年は地方選挙があるのでその準備をどうするか。最後六つ目が市民社会とメディアの支援。やはり民主主義社会において彼らが果たす役割は大きいので彼らをどうサポートしていくか考えています。この六つの分野をモニターして、何か問題があれば国連事務総長特別代表などを通じて大統領や首相、政府機関に政策レベルの提言をしています。
Q.今のお仕事でたいへんなことは何ですか?
我々の仕事はあくまでアドバイザーです。暫定統治のときは国連が判断して実施すればよかったのですが、今それはできません。東ティモールの人々にオーナーシップを持ってもらい、彼ら自身で判断し実施してもらわなければなりません。だから我々は助言や提案をするのですが、彼らが全部を聞き入れるとは限りません。そのときにどうやって分かってもらうか。逆に我々も彼らの考え方を理解しなくてはいけません。国連は「この方法はあの国でもこの国でもうまくいったから東ティモールでも」と考えがちですが、そうではないんです。その国固有の事情というものがありますから、常に東ティモールの人と相談しながらやっていかないといけません。そこがすごく難しいし時間がかかるところです。
Q.東ティモールに民主的なガバナンスが根付いていると感じたことはありますか?
例えば今年2月11日に大統領・首相襲撃事件があったときには我々も心配して、全ての政府関係機関、学校や病院を調べたのですがそのほとんどが通常通り動いていました。これは2006年のときとは大きな違いです。国連警察がいたというのもあるかもしれませんが、それ以上に東ティモールの人たちから「こういうことにうろたえてはいけない」「民主的な仕組みを守っていかないといけない」という熱意を感じることができました。ゆっくりかもしれませんが、この国には民主主義が定着してきていると思います。
Q.これから先、どんな仕事をしたいとお考えですか?
まずは今やっていることを一生懸命やりたいですね。できれば今後も国連で仕事をしていきたいし、チャンスがあればまたいろんな国に行って平和の問題、人道支援、開発の問題に取り組んで、少しでも自分が生きている地球社会を良くすることができれば幸せだなと思います。やはり発展途上国や紛争地域など、人々が苦しんでいるところ、困難な生活をしているところ、そういう前線で仕事を続けていきたいと思っています。
Q.これから国連を通じて地球の問題に取り組もうと考えている人たちへメッセージをお願いします。
人間はみんな幸せを求めて生きていると思います。そこでどうしたら幸せになれるかを考えると、二つあると思うんです。一つは好きな人と暮らすこと、もう一つは好きな仕事をすること。この二つができればすごく幸せになれるんですが、難しいのは国連で働いているとなかなかこの二つが両立できなくて、苦労している人が多い。私もその一人です。それを理解した上で国連や国際協力の仕事を始めた方がいいと思います。
もう一つは、結局人生は一回しかないですから、その人生を自分はどう使いたいのか、ということをよく考えてほしいですね。国連は地球社会全体の問題を一国の利益にとらわれずに考えられる職場ですから、そういうことが好きな人にとってはやりがいのある職場だと思います。ただ国連も必ずしもいいところばかりではないし、向き不向きがありますから、自分自身が向いているのかどうか見極めることが必要だと思います。
Q.どういう人が国連に向いているのでしょうか?
一般的なことでいえば専門分野で修士を持っている、英語ができる、ということは必要ですね。あとは専門分野での職歴。この三つは全部必要だと思います。でも私があえて言いたいのは「性格」です。性格だからなかなか点数はつけられないし、いいとか悪いとかの問題ではないのですが、国連という職場で長く働き続けられる人というのはそれなりの共通の性格があると思います。もちろんこの性格でなければ絶対にダメということではありませんが、国連で働く7、8割の人は、一言で言うと「ネアカ」だということです。性格の根が明るい。消極的であるよりは積極的、否定的であるよりは肯定的、悲観的であるよりは楽観的な人が向いていると思います。国連のような職場で長い間生き残っていくには物事に前向きに取り組む姿勢というのはとても大切です。逆に学校と英語の成績がいいだけでは生き残れないんですね。私もどちらかというと根暗ではないし、ネアカだと思います。
Q.最後に、井上さんはいつも活き活きとお仕事をされているように見えますが、井上さんのパワーの源は何でしょうか?
若いときに気がついたんですが、私がイライラするときの原因は三つあります。一つはお腹がすいているとき、もう一つは睡眠不足のとき、そして病気のとき。だいたいこの三つのいずれかの状態のときにはパワーがないんです。だから常によく食べてお腹をいっぱいにする、よく寝る、健康に気をつけて病気にならないようにする。それが元気の源じゃないかと思います。そんなに大げさなことではないんです。あとは、常に好奇心を持ち続けることかな。
(2008年6月14日。聞き手:樋口綾子、UNDP東ティモール事務所。写真:吉田明子、OCHAバンコク事務所、フォーラム幹事会)
2008年9月28日掲載