第9回 川端 清隆さん 国連政治局 安全保障理事会部
プロフィール
川端 清隆(かわばたきよたか):大阪府生まれ。1979年、米国ミシガン州ホープ大学卒。コロンビア大学大学院政治学部修士。時事通信記者を経て、1988年より国連本部政治局政務官。安保理改組、アフガン和平やイラク問題の処理に従事した後、現在は安保理を担当。著書に『アフガニスタン―国連和平活動と地域紛争』、共著に『PKO新時代』。
Q.どのような経緯で国連で働くようになったのですか。
もともと国際的な問題に関心が強かったので、マスコミで仕事に就ければという希望を持っていました。米国のコロンビア大学大学院政治学部に在学中の時には、現在の国連本部政治局(Department of Political Affairs: DPA)の前身である政治安保理局(Department of Security Council and Political Affairs)でインターンをしました。大学院終了後は、一旦日本に帰国し、6年間時事通信社の記者として働きました。その頃はアパルトヘイト、北朝鮮の中距離ミサイル問題や日米貿易摩擦などの問題を担当していて、仕事はとても楽しかったです。在職中に国連競争試験が行われるというので受験したら合格したわけです。それ以来、政治局で政務官(Political Affairs Officer)として勤務しています。
Q.ジャーナリストを経験された後の国連の印象はどんなものでしたか。
まず、はじめに認識させられたのは、当たり前なのですが、国連は主権国家の連合であるということでした。私が国連に入ったのがまだ冷戦の終わらない1988年だったということもあるのでしょうが、例えばある議題に関して国連の見解を準備するように言われ、上司に提出しました。記者の経験もあって、出来にはけっこう自信があったのですが、「それは『西』側の見解だ。『東』側と『西』側の両方の見解を述べるように」と言われたことがありました。また、これは国連に入った後で知ったことなのですが、私が最初に所属した政治安保理局は、ソ連出身者しか局長になれないという部署でした。当時は冷戦の最中で、国連内も部局によって「東」と「西」の「縄張り」に分けられるという状態だったのです。
ただ、ジャーナリストの経験に関して言えば、政務官の仕事は特に限られた時間の中で多くの情報を処理・分析することを求められるので、ジャーナリストの時に培った優先事項を見分ける能力は、今の仕事にとても役に立っていると思います。
Q.政務官としてどのような分野、または地域を担当されてきたのですか?
1994年は、国連ルワンダ支援団(UNAMIR)、1995年から7年間はアフガニスタンを、2002年から2年間はイラクを担当しました。1995年には、総会の下部組織である、安全保障理事会改革のための特別作業部会(Special Working Group on Security Council reform)の事務局を担当したこともあります。現在は、政務局安全保障理事会部(Security Council Affairs Division)に所属しています。安全保障理事会部は安保理の運営を支える部署ですが、安保理で行われる議論を日々まとめ事務総長室に送ることなど、安保理と事務総長室間の連携を円滑にすることも重要な仕事の一つです。
Q.今までの仕事で苦労した点はどんなところですか。
ルワンダでジェノサイドを許した国連の大失敗はもちろんですが、特に苦労したのは、90年代後半にアフガニスタンの内戦が激化していたのにもかかわらず、国際社会が周辺国の干渉に正面から向き合うことを避けていたことです。国連は内戦を放置した場合の潜在的危険性を何度も指摘しましたが、「アフガニスタンの将来はアフガン人に委ねるべきだ」という体のいい言い訳ばかりが返ってきました。周辺国や大国の利益が複雑に交差する中、国連は特使を送ったり、関係者間の交渉をお膳立てしたり、安保理の決議や政治宣言の採択などを通じて、タリバンと周辺国自身による政治的解決を模索するのに多大な労力を払いました。
残念ながら、そうした和平努力は最後の最後で実を結ばれませんでした。その後国連によって繰り返し発せられた警告にも十分な注意が払われることはなく、国際社会の関心がやっとアフガニスタンに向くのは世界が9.11に直面した後でした。9.11後の米国によるアフガニスタン空爆直後には、タリバンが特別のルートをたどって「米国と交渉したい」と私に頼ってきたことがありましたが、残念ながらすでに手遅れでした。
内戦中には「勝っている時こそ交渉に応じるべきだ。負けたら誰も言うことを聞いてくれなくなる」と、何度も説得したものの耳を貸さなかったのは彼らのほうでしたが、あの時にもっと何かできていればという思いは残ります。また、90年代の終わりにはタリバンの原理主義が蔓延していく兆候が顕著になっていたのですが、当時その深刻さをわれわれがどこまで理解していたかというと疑問が残ります。今から思えば、2001年の春ごろにはタリバンはすでにアルカイダに乗っ取られていたのだと思います。
Q.イラクも担当されましたが。
イラクの担当も大変でした。担当を始めたのは、まさに米国がイラク戦争を始めるのは時間の問題という時期でした。イラク戦争を巡っては、安保理内でも意見が分かれており、米国とフランスなどの対立する理事国の立場を踏まえた上で、戦争回避の可能性を模索するために、事務総長にどのタイミングで何を言ってもらうかに非常に神経を使いました。ご存知の通り、国連は結局イラク戦争を防げませんでした。今のイラクの状況を考えても、自分の仕事は役立ったのかと落ち込んだ時期もあります。
Q.逆に今までの仕事の中で、面白かった仕事は何ですか?
そんな仕事の心の支えになってきたのは、現場とのコンタクトでした。アフガニスタンへ出張に行く際にはいつもタリバンの大臣レベルの高官たち、といっても30歳前後の青年たちですが、彼らを含め実に多くのアフガン人と会合を持ちました。そのうちの何人かとは随分仲良くなったのですが、ある時、タリバンの高官の一人から、「実は教養のある女性と結婚したいんだ」と打ち明けられたことがありました。女性の権利を否定していると思われていたタリバンですが、彼らと付き合う中で本音と建前を使い分ける面を垣間見ることは多々ありました。バーミヤンの仏像の破壊を巡っても、実はタリバン内でも意見が分かれていたと言われています。
Q.平和活動における国連の課題は何だと思われますか?
90年代、国連はカンボジア、コソボ、東ティモールなどにおけるPKOで一定の成果を挙げた一方で、ソマリア、ルワンダ、ボスニア(スレブレニツァ)では、虐殺を許す、またそうでなくとも多数の死者を出す大失敗をしています。それから10年以上が経ち、ダルフールやコンゴ民主共和国(DRC)などでは再び平和執行(peace enforcement)の側面を含む活動を求める声が強まっており、イラクとアフガニスタンには安保理決議には基づいているものの、PKOの枠組みを超えた多国籍軍が展開しています。国連の能力を超えた平和執行には手をださないというのが教訓の一つではありましたが、国連以外の手段がない場合にただ傍観する訳にもいかず、また、安保理からの圧力もあり、この原則を貫くべきかが再び問われています。ダルフールやDRCに限らず、この問題に対するはっきりとした答えを国連や、日本を含めた加盟国はだせていませんが、現実の紛争はいつまでも待っていてはくれません。コフィ・アナン事務総長退任後の新しい事務総長がどれだけ国連の立場を主張できるかにもかかってくると思います。
Q.国連の平和活動において日本ができる貢献についてはどうお考えですか。
国連のPKOや平和活動ミッションで働く日本人は、まだまだ少ないのが現状です。物資の提供だけでなく、もっと文民を含めた人的貢献に力を入れてもいいのではないでしょうか。
Q.これから国連を目指す人へのアドバイスをお願いします。
早いうちから自分の進みたい分野を見定めて、それに合わせて大学や職業を選ぶようこころがけてください。
(2006年7月2日、聞き手:大仲千華、国連事務局PKO局ベスト・プラクティス・ユニット、幹事会安全保障グループ。写真:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会コーディネーター。)
2006年8月27日掲載