國井修さん
国連児童基金(UNICEF)保健戦略上級アドバイザー
國井 修(くにいおさむ):1988年自治医科大学卒業。公衆衛生学修士(ハーバード大学)、医学博士(東京大学)。病院・僻地診療所勤務、国立国際医療センター国際医療協力局、東京大学国際地域保健学講師、外務省経済協力局調査計画課課長補佐、長崎大学熱帯医学研究所・熱帯感染症研究センター国際保健学教授を経て、2006年2月よりユニセフ・保健戦略上級アドバイザー。 |
Q.いつ頃から、また、なぜ国連に関心を持つようになったのですか?
国連への関心は最近なので、経緯をお話ししますね。
私は小学校の頃から医者になりたいと思っていました。看護師だった母親の添い寝話に影響を受けたようです。末期癌で鎮痛剤も効かなくなった患者が家族にも医者にも見捨てられ、結局病室で首吊り自殺をしたという話です。子どもながらにショックを受け、それから医者を志したようです。
高校の頃、シュヴァイツアーの本などに影響を受けてアフリカに関心を抱くようになり、次第に途上国で医師として働く自分の姿を夢見るようになりました。実際に医学部に入学してからは、難民キャンプからスラム街、辺境地まで貧乏旅行をして世界各地を廻り、うち1年は休学してソマリアの難民キャンプでボランティア、インドで伝統医療の勉強をしていました。大学ではジャズバンドやテニスの部活動もやっていたので、忙しくて勉強する暇もありませんでした(笑)。
大学の頃、インドシナ難民やエチオピアの飢餓がありました。欧米のNGOが活躍する中、日本に緊急医療のNGOがほとんどなかったため、学生時代からアジアで交流していた医学生のネットワークを基に、ある緊急医療のNGOの立ち上げに関わりました。
医者になってからは、病院勤務や僻地診療をしながら年に1、2回NGOとして海外で緊急援助や地域医療のプロジェクトに携わり、また日本国内で在日外国人診療のNGOを運営していました。ただ、医者として開発問題に関わることに限界を感じ始めたのもこの頃です。
緊急援助では医師として目の前の患者を治療することである程度の人命を救うことはできます。しかし、その数はごくわずかで、数万、数十万の難民を助けることはできません。そういった場所では医療以前に、栄養不足、安全な飲み水の不足、劣悪な衛生環境、感染症の蔓延といった様々な要因がその背景にあり、医者としてできることには限界があります。自分はとても無力感を感じました。それからより多くの人を助けることができる予防医学、公衆衛生を勉強したいと思い、米国留学をしました。
その後、5年間は厚生省管轄の国際医療協力機関に勤務し、主に政府開発援助(ODA)に関わりました。JICAの国際緊急援助隊から技術協力・無償資金協力まで、多いときは一年の3分の2は海外出張でした。最後の1年2か月はブラジル東北部の貧困地域で公衆衛生プロジェクトに関わっていました。
その後、教員として大学に呼ばれ、これまでの仕事のまとめや研究・教育に携わっていたところ、外務省に呼ばれ2000年の九州沖縄サミットで発表された沖縄感染症対策イニチアチブの監理・運営、そしてODAの保健医療分野全体の政策や戦略づくりに従事しました。とてもやり甲斐のある仕事でしたが、また現場に戻りたい、できれば緊急援助と開発を一緒に、広範囲で継続して実施できる機関で働きたいとの思いが強くなり、国連、中でもコミュニティに最も近いユニセフに関心を持ちました。
Q. 今のお仕事はどのようなものですか?
アフリカの国事務所に行きたかったのですが、ユニセフニューヨーク本部からのお誘いもあり、MDG目標4(子どもの死亡低減)達成のための保健計画・戦略の仕事をしています。具体的には、アフリカの地域事務所(ケニアおよびセネガル)や国事務所(シエラレオネ、ルワンダ、エチオピアなど)からの依頼を受けて、子どもの死亡低減を促進するための保健計画作りや中期収支枠組み(MTEF)作成のため、途上国政府に対する技術支援やトレーニングを行ったり、UNICEFが推進する「子どもの生存プログラム(Child Survival Programme)」の地域や国レベルの展開を支援したりしています。
このままでいけばサブサハラアフリカの多くの国でMDG目標4の達成は難しいのですが、効果の高い介入方法をうまくパッケージ化または統合してスケールアップしていけば、達成は可能なはずです。現在、一日に約3万人の子どもが世界で亡くなっていますが、その3分の2は基本的な予防・治療方法で助かるのです。そのためには、効果的な介入の選択と統合、その全国展開にむけた保健計画、戦略、予算配分が必要です。ユニセフではこれまで予防接種事業やビタミンA補給、殺虫剤浸漬蚊帳の配布によるマラリア対策など、効果的な介入方法を選択して、現場で実際にそれを拡げ、具体的に子どもの死亡を減らしてきました。しかし、途上国のオーナーシップを高め、こうした活動や成果を自立発展させていくためには、政府の計画・執行能力の強化が必要です。これを他の国連機関やドナーと手を組んで実施しているところです。
Q. これまでで一番思い出に残った、楽しかった仕事は何ですか。
ユニセフには最近赴任したばかりなので、過去の話でもいいでしょうか。
日本の僻地診療、ブラジルでの活動、外務省の政策づくりなどそれぞれに思い出がありどれも楽しかったですね。アマゾン、カーニバル、シュラスコと、生活の楽しさではブラジルが一番でしょうか。よく飲んで歌って踊っていました(笑)。
ただ仕事として、楽しいといっては語弊がありますが、非日常性と緊急性の中でアドレナリンが大量に分泌され、一種の躁状態で働くようになる緊急援助は特別の記憶として残っています。オガデン紛争後と米軍介入後のソマリア、強行突破時に医療班として働いたペルー日本大使館人質事件、大洪水中と竜巻災害後のバングラデシュ、米軍介入後のアフガニスタン、国連ビルが爆破直前のイラク、それぞれ特徴が異なりますが、生と死が隣り合う中で、自分自身、貴重な経験と思索の機会を与えられました。
例えば、内戦直後のカンボジアでは、道路も橋も破壊されていたのでNGO「国境なきパイロット」のセスナでバッタンバンとプノンペンを往復しましたが、定年をかなり過ぎたご高齢のパイロットが操縦する老朽化したセスナ機はかなりスリリングでした。地上からクメールルージュが迫撃砲を打ってくることもあるということでしたが、私はパイロットが心筋梗塞で倒れる方が心配でした(笑)。
1992年に訪れたソマリアは米軍が介入した1か月後とあって、空港は空軍基地と化していました。夜中に到着してピックアップトラックで街に入り、時折、銃声が鳴り響く中、地元民の家に泊まりました。夜は気がつかなかったのですが、朝起きてよくみると天井は銃痕で蜂の巣状態、家の周りも内戦で破壊されていない家がないほどでした。1984年にはモガデシュは美しい街でしたので、その無残な姿に体が凍りつきました。
でも途上国には活気というか生きる力がみなぎっています。紛争後でも、悲しんでいる暇はない、何とか生きていかないといけない、という人々の力を感じますし、紛争のない地域では、貧しくとも明るく前向きに生きる人々の姿があります。そんな人々のひたむきな生きざまを見ていると、こちらも元気になってくるんです。ですから、現場に近い仕事はどれも楽しいです。
Q. 逆に辛かった経験はありますか?
私は自治医大という特殊な大学を卒業したので、卒後の進路を自分で決められなかったことが一番辛かったと思います。すべての学生が入学金から授業料まで免除の上、奨学金(貸与金と呼ばれる)を月5万円も頂けるのですが、卒業後は義務年限というのがあって、出身県で最低9年間、主に僻地医療に従事しないといけないのです。私の場合、インドやアメリカ留学をしたので、その義務が12年に延びました。この間は基本的に私の出身県である栃木県職員として、県庁の指示に従って病院、診療所、保健所などで働く義務があり、国外はおろか県外で働くこともできないことになっていました。私は日光の奥にある山村の診療所で働きました。いいところでした。やりがいを感じ、生活も満喫していましたが、海外で働きたい気持ちを抑えられずにいたのも事実です。
最終的には、大学や県庁の方々のご厚意で、制度内の特別措置として卒後7年目には栃木県から国(厚生労働省)へ出向させて頂き、国際協力を本格的に開始することができました。ただし12年目までは栃木県庁の許可なしには自由に転職できないことになっていました。
この義務年限がなければ、もっと長く留学したかった、あの時期にソマリアの国内被災民、ミャンマーの難民キャンプ、ルワンダの難民キャンプで長期に働きたかった、などと考えることもあります。自治医大を卒業していなければ、周りからは言動が過激だから控えるようにといわれるほどNGO的だった自分が、官僚になることはなかったと思います。気がつけば、厚生労働省、文部科学省、外務省の三省の技官・事務官をし、霞ヶ関でODA政策に関わっていました。人生って不思議だなあ、と外務省の8階から国会議事堂と窓に映る自分を見ながら笑ってしまうこともありました。
後悔はもちろんしていません。むしろ、そんな機会を与えてくれた自治医大には感謝しています。結局、何らかの制約や制限の中でもがきながら、時には流されながら生きるのが人生なのだと思います。自分は僻地医療から霞ヶ関での政策づくりまで、すべてが新鮮で楽しく、多くの学びをしました。NGO一筋で、途上国の現場に長期にいるだけでは見えないものが見えるようになったと思います。
Q. 日本の僻地医療に関わっていらっしゃいましたが、アフリカでの医療協力との共通点あるいは異なる点はありますか?
医師になりたての頃は大学病院や大きな救急病院で働いていました。次から次へと担ぎ込まれる患者さんを救命センターで処置し、また開業医が診断・治療できなかった患者さんを診断・治療することで、自分は人の命を救っている、助けているとの満足感と自信を感じていました。また、手の施しようのない患者さんでも、可能な限りの薬を投与し、心臓マッサージを続けて延命をはかりましたが、だめとわかると家族を短時間だけ臨終に立ち会わせ、死亡宣告をするとすぐに家族を部屋から出して死後処置をするというのが通例でした。そんな人間的でない人の死に様をみながら、人の死は所詮そういうものだと感じるようになっていました。
しかし、私が赴任した村での人の死に様は違っていた。村は東京23区より広い面積ですが3000人ほどの人口しかいない僻地でしたので、診療所での診察以外に、秘湯があるような山奥まで車で往診に行っていました。急患がでると夜中でも電話がかかってきました。赴任したての頃、温泉宿から「先生、人が浮いてっから早く来てくれ」というので、行ってみると、露天風呂でうつぶせでぷかぷか浮いているご老人の姿がありました。既に亡くなっていました。家族に聞いてみると、癌の末期で死ぬ前に一度でいいから温泉に浸かりたいといって連れてきたといいます。温泉では血圧の変動や脱水状態などで脳卒中や心筋梗塞を起こして亡くなることもあるのですが、この方にとってはある意味で幸せな亡くなり方だったのかもしれません。
またある時、毎日のように往診をしていたご高齢の患者さんの家族から夜中に電話がかかってきました。臨終が近いことを家族に伝えていたので、私もその心積もりで出かけました。家に着くと、庭から玄関、患者さんの部屋まで、近所や親戚など大勢の人で溢れていて、私が来たのを見て皆が「先生が来たぞ」といって道をあけるのです。たくさんの人に注目されながら、私も緊張して患者さんの座敷まで辿り着くと、そこには既に意識はなく、死期が近いことを示す大きくゆっくりした下顎呼吸をしているご老人の姿がありました。その周りには孫やひ孫が集まって手足をさすりながら、「おばあちゃん、死んじゃやだよ」「目を開けてよ」といいながら言葉をかけているのです。私はご老人のほとんど触れない脈をとり、ほとんど打たない心臓音を聞きながら、その光景を見ていました。それから半時間ほどでしょうか、大きなため息のような呼吸を一息ついた後、呼吸はなくなって心臓音も消えました。静かに皆が見つめる中「ご臨終です」と私が言うと、堰を切ったように皆が泣き始め、ご老人の死を皆で悲しみあうのです。どんなドラマを見るよりも感動的な死の瞬間でした。人の死が深遠で厳粛なものであったことを今更ながらのように思い知らされました。ご老人にとって本当に幸せな死に方だったと思います。
ところがそれから30分も過ぎると、一転して人々が違った動きをはじめます。台所は途端に忙しくなり、家の片付けなどが始まります。家族、親戚、近所が協力して、通夜、葬式の準備です。悲しみも束の間、行事としてやるべきことがたくさんあります。冠婚葬祭は村にとって重要なイベントです。喜びや悲しみを分かち合いながら、助け合いながら、邑社会をつくっているのがよくわかりました。
このほかにも沢山の経験をしました。結果的に、こうした邑社会の中で、自分が医師としてできることには限りがあること、それでも健康は人々の重要な関心事であること、ただし住民が考える病気と医師が考える疾患には格差があって、これを守り増進するのは医師でなく住民自身であること、それには住民の知識・態度・行動を変えることも必要で、それには個々人の能力開発、環境整備などが必要で、住民組織、行政などを動かす、理想的にはそれらが主体的に動くことが必要なこと、などを経験として理解しました。
これはアフリカの保健医療協力で、程度や内容に違いがあっても基本的なところでは繋がります。住民側に立って考えるとこの予防活動はどうすべきか、このデータは住民の真の声を反映しているか、この地域の少ない資源を最大限に活用するにはどうすべきか、様々なアフリカでの活動にあの村での経験が重なります。
アフリカは日本とは違う、アフリカは貧しく人材もいないし、希望がないと言う人がいますが、私はアフリカに対して希望を持っています。つい最近もザンビアに行って、厚生省および地方の保健行政官に5日間の研修会を行いました。昔なら9時の開始時刻のところ10時でも全員集まらないことも多かったのですが、最近は9時きっかりに全員が集まり、研修に対する目的意識・期待も高く持っていました。全員がコンピューターを使いこなし、エクセルを使ったやや複雑な計算も結構できます。人材育成、能力開発は目標を明確に定め、きちんとした方法で行えば、日本と同様に人は育ち能力はついていくと思います。国のガバナンスや実施・運営能力強化も諦めず、説明責任や透明性などあるべき姿を追求していく必要があります。
Q. 色々な職場を経験していらっしゃいますが、特に国連がいいと思われるところはどこでしょうか?
これまで主に関わってきたNGOそしてODAと異なることは、広がりと継続性だと思います。紛争国、最貧国であればあるほど国連の役割は大きくなり、ニーズがある限り、より広範囲で活動を展開する必要があります。紛争が終わっても活動は終わりではなく、そこからの復興・開発・国づくりに継続的に関わる必要があります。
もちろん、欧米のNGOの中には緊急および開発において、ある分野・ある地域では国連よりもいい仕事をしているところがあります。また、ODAからの分担・拠出金がなければ本来、国連自体は成り立ちませんし、二国間協力も国連以上にいい仕事、大きな貢献となるものも多いです。ただ、例えばユニセフであれば、子どもの死亡が多い国や地域があれば、治安が悪かろうと紛争があろうと、子どもを守る手立てを考えなければなりません。その国が自立して子どもの健康を守れるまで、継続的に支援していく使命があります。そんな使命と責任を私は共有したいと思いました。
もうひとつは組織が持つ文化、そして人材でしょうか。ユニセフでは年齢も上下関係もほとんど気にせずに議論し合い、情熱を持ってバリバリ仕事をする一方、人間関係、家族や休暇を大切にする文化があります。世界の第一線の学者・研究者を巻き込んで仕事をすることもありますし、同僚の中には大学教員、政府高官、NGO活動家として一流または第一線の仕事をしてきた人も多くいます。当然のことながら世界中から人が集まっていますから、例えばルワンダの保健事情を議論していると、自分はキガリ生まれだ、自分はDRC出身でゴマで難民救援もしていたなどという人がいて、議論がさらにリアルになり、とても勉強になります。
ただ時々疲れることはあります。日本人は十知っていても一話すところ、国連では一知っていても十話す人たちもいます。議論を通じてものを作るのはいいのですが、的を射ていない発言や単なる自己主張というのも多く、日本ではもっと効率よく結果が出てくるのに、と思うこともあります。そんな議論を聞いていて疲れるというのは、まだ私が国連の文化に慣れていないということでしょうか(笑)。
今日は時間がないのでお話しできませんが、国連に比べて日本のODAやNGOのいいところもたくさんあります。「国連で働きたい」ことを目的にしている人は別ですが、「国際協力をしたい」人については、自分に合った組織・団体・形態で仕事をするのがいいと思います。国連は合わないという人も少なくないと思います。
Q. 国連に対して日本ができる貢献についてはどうお考えですか?
ご承知の通り、国連に対する日本の資金的貢献は全体として減少していますが、未だリーディングドナーとしての重要性に変わりはないと思います。ただし、人的貢献、知的貢献という意味ではまだまだ貢献できる余地があります。国連職員としての日本人の貢献度は数的にはまだまだ低いですし、国連を通じた様々な決議、協議、活動の中でのリーダーシップもまだ不十分だと思います。
また、バイ(二国間協力)とマルチ(多国間協力)をうまく連携させてWin-Win関係をつくることも重要です。折角のバイの協力も、独自に計画・実施・評価するために、国際的な評価につながらないものもあったように思えます。たとえば、さらにマルチと連携できる領域としては、途上国の各種計画作り、人づくり、復興支援があると思います。時に日本は独自に調査をし、独自の開発計画や保健領域であれば政府のマスタープランを作成することがありました。これはマルチと共同で行うことで、経費や知恵をシェアーし、現実に使える、使ってもらえるものにする必要があります。人づくりも独自に人を日本に招いたり、現地で研修を行ったりすることが多いのですが、人材育成のためのマスタープランづくりや個々の研修に国連機関を絡ませて行うことも必要です。復興支援は最近、日本の貢献としてプレゼンスの高いところですので、国連諸機関と戦略的に連携して、その比較優位性を高めていくことが大切でしょう。
Q. 国際協力に関する日本の課題は何でしょうか?
国際協力全体として資金的貢献は高くても、知的貢献が低いのが課題でしょう。顔の見える援助、人的貢献については、現場に人を多く送ればいいのではなくて、数は少なくとも、真に貢献できる人をどれだけ国際舞台に送れるかだと思います。日本人で貧困削減に対する仕組みづくり、保健医療制度づくりなど、国全体の計画づくりに知的貢献のできる人材はとても不足しています。個々の課題、例えばエイズ対策、マラリア対策といった分野でも、真に現地のニーズに対応できる人は少ないです。技術支援は独自のプロジェクトを実施するよりも、現地政府の計画や戦略づくりに協力し、その計画に沿った支援をすることが重要です。それには単にその分野の専門家であるだけでは足りず、その国の開発計画、援助協調、プログラムの管理運営などに精通した人材を育て活用する必要があります。バイの援助も従来の要請主義ではなく、現地のニーズとドナーの動向を見て、積極的に先取りして現地で援助計画を立て執行するような援助の枠組みづくり、そのための人材も必要です。
最近の一連の改革で、日本のODAもその迅速性・柔軟性が高まり、JBICと合体するJICAについても大きな期待をしています。ただ、裾野を広げ、優秀な人材を育て、プールし、知識や経験を組織として蓄積していくには、ODAの中心機関のみならず、コンサル、NGO、大学なども含めた能力開発が重要だと思います。これらの組織や機関は、日本のODAのみならず、他ドナー・国際機関との連携・資金獲得も模索しながら、国際的な競争力をつけ、実力をつけていく必要があると思います。
Q. コミュニケーションのこつがあったら教えて下さい。
このような仕事をしていると、難民やスラムに住む人から首相や大臣まで、西洋人からアジア人まで、キリスト教信者からイスラム教信者まで、幅広い人々とつき合います。ですから、まずは相手をきちんと理解することからはじまります。相手が誰であろうと、まずは相手が何を言いたいのか、何を求めているのかを理解しようと心がけています。
ただし、外交の場、交渉の場ではまた違った技術と能力が必要です。特に、途上国のしたたかな役人や官僚と付き合う時には、理解・尊敬、実直・誠実なだけではうまくいかないことが多くあります。国際社会では日本の常識・美徳・価値観が全く通用しないことがありますので、これは場数を踏み失敗をしながら、自分で獲得すべきでしょう。
この価値観の幅を広げるという点に関しては、若い頃の経験が重要だと思います。私の場合、学生時代に南インドの田舎に遊学して、自分のもつ常識や価値観を完全に覆された経験があります。
また、今のような多国籍の職場にいると日常生活の中でコミュニケーション能力は鍛えられます。私よりも数倍コミュニケーション能力の高い人たちがたくさんいますから。これは日本国内ではなかなか培うのが困難なことのひとつだと思います。
Q. グローバルな課題に取り組むことを考えている若者への一言をお願いします。
まずEarly exposure、できるだけ早く海外の文化に触れることが重要だと思います。私は学生時代の貧乏旅行や海外経験が国際感覚や感性を磨いてくれたと思います。
またコミュニケーションの基礎となる英語、そしてもう一カ国語くらいは早いうちに身につけたほうがいいでしょう。これは武器で道具です。海外で学んだほうがもちろん早いですが、無理な場合は独学でもなんでも語学をやっておくべきでしょう。
大学院を卒業しなくても国際協力はできますが、もし機会があれば開発経済、国際政治、公衆衛生など自分の関心や得意分野で大学院に進まれることをお勧めします。若いときの投資は一生の宝となります。
そして最後に情熱です。というか、最初に情熱ですね。国際協力では苛酷な環境で働くことが多いですが、情熱があればなんとかやっていけます。もともと体力がなくても、情熱があればすごい底力を見せる人もいますね。
私の座右の銘は「艱難汝を璧にす(かんなんなんじをたまにす)」。人生には様々な試練がありますが、それらが自分を磨き強めてくれるという意味です。国際協力は未だに自分で道を切り開き、多くの困難をかき分けて進まないとならない世界。でも、それだけに気がつくと成長した自分がいて、素敵な人々と出会って、素晴らしい世界を見られる。でも最近はちょっと楽したいなあ、なんて時々思います(笑)。
(2006年11月30日、聞き手:林神奈、コロンビア大学国際公共政策大学院。朝居八穂子、コロンビア大学教育大学院。写真:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネーター。)
2006年12月18日掲載