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川上 剛さん
国際労働機関 アジア太平洋総局 
労働安全衛生上級専門家

川上 剛(かわかみ つよし):1984年東京医科歯科大学医学部、1988年東京医科歯科大学医学部大学院(医学研究科社会医学系専攻)卒業。1988 年から 1991年まで労働省(当時)産業医学総合研究所実験中毒研究部勤務。その後、財団法人労働科学研究所教育・国際協力部勤務を経て、2000年、国際労働機関(ILO)アジア太平洋総局勤務(在バンコク)、労働安全衛生上級専門家として現在に至る。

Q.どうして国際保健に興味を持たれたのですか?

わたしは千葉県のごく一般的な家庭で生まれ育ちました。父は中小企業のサラリーマン、母は専業主婦でした。特に子どもの頃から国際的なことに憧れていたわけではないわたしの人生を大きく変えたのは人との出会いです。大学の医学部に入学して最初のオリエンテーション期間中に、学生食堂で食券を買って並んでいたら、たまたまわたしの前にマレーシア人の留学生がいて、そのとき、生まれて初めて外国人と話をしました。そして彼と非常に仲良くなり、その年の夏休みには1か月間、彼が里帰りするのについていって、彼の実家でホームステイさせてもらいました。マレーシアで医者として働いている彼とは今でも大親友で、つい先週もバンコクに来た際には家族ぐるみで会ったところです。

彼の故郷のマレーシアの田舎町が自分にとって初めての外国だったので、それはきわめて鮮烈な体験でした。まず、人々が親切でオープンなことに驚きました。それ以来アジアが好きになり、学部中はアルバイトでお金を貯めては夏休みや春休みにインドやミャンマー、タイなどへバックパッカー旅行をしていました。遊びながらいろいろと社会勉強をさせてもらっていたわけですが、これがわたしにとって、国際的な仕事をする上での原体験になっています。

大学で学んでいた医学には、大きく分けて基礎、臨床、予防と3つの分野があります。わたしは学生の頃から予防医学に関心があり、大学では公衆衛生予防医学研究会というサークルに入っていました。当時は漠然とした興味を抱いていただけだったのですが、このサークルを通して出会った素晴らしい先輩方も自分に大きな影響を与えています。

マレーシアの友人との出会いを通したアジアへの関心と、予防医学への関心、このふたつの出会いが繋がる事件が大学2年のときに起こりました。カンボジア内戦が起こって、多数のカンボジア難民がタイに流出してきたのです。タイのカンボジア人難民キャンプは衛生状況も悪く悲惨な状態にあるのに、日本は金は出すが人を出していないという記事が新聞に大きく出ました。それを見たわたしは、医学生として何かしなくてはいけない、とにかくその難民キャンプに行こうと思いました。そして現地のUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の担当者に手紙を書いたのです。そうしたら返事が来て、来ないでくれと言われました。「あなたのような若い学生の熱い気持ちはありがたいが、この難民キャンプは本当に深刻な状況にあるので何の経験もない人が来てもできることはありません。その気持ちは大事にして、将来貢献できるようにもっと勉強して下さい」というようなことが書いてありました。

ちょうどその頃、わたしと似たような想いを抱いていた医学生が集まって、アジア医学生国際会議(Asian Medical Students' Association:AMSA)という組織ができました。これは今でも続いていますが、わたしはタイで行われた第2回の会議から参加して、各国の医療状況を報告しあったり、タイの田舎町にフィールドトリップに行ったりしました。こうしてマレーシアとの出会いと予防医学を勉強したいという想いが何となく繋がってきたわけです。

Q. いつ頃から、なぜ労働安全衛生に興味を持たれたのですか?

労働安全衛生に興味を持つようになったのは、第3回アジア医学生国際会議で日本代表を務めたときです。その会議で、各国の大事な医療問題を発表するというセッションがありました。日本人学生同士で、日本の保健医療問題でアジアに伝えたい経験は何だろうかと話し合った末、選んだのは当時日本で深刻になっていた水俣病問題でした。当時、公害病については他のアジアの国々ではそれほど知られていませんでしたが、わたしたちはアジアでも今後重要な問題になるだろうと考えて、この日本の経験を伝えたいと思ったのです。この発表は他のアジアの国の参加者から強い反響がありました。この経験を通して、国際保健には感染症対策や緊急医療、母子保健だけでなく、環境衛生や労働衛生というアプローチもあるのだなと興味を持つようになりました。

また、本格的に労働安全衛生の分野に進むきっかけとなったのも、人との出会いがあったからです。まず、労働科学研究所という日本の民間の研究所の方々。日本ではパイオニア的に労働衛生分野の国際協力をおこなっている機関です。なかでも労働科学研究所出身の小木和孝さんは、当時、ILOで現在のわたしのバンコクのポストで仕事をされていたのですが、今でもたいへんお世話になっています。それから、外国人医療問題に積極的に取り組んでいる港町診療所(横浜)の天明佳臣先生。この二人からは労働安全衛生についてたくさんの教えを受けました。今でもわたしのメンターです。もう一人の大恩人はタイのマヒドン大学労働衛生学の初代教授だった、故マリニー教授。小木さんと天明先生、マリニー教授の3人がアジアの労働衛生問題に協力して取り組んでいて、わたしも強い関心を持つようになりました。そして、わたしが大学院に入ってからはマリニー教授とタイの労働者の健康に関する調査をするようになりました。

Q. ILOで働きたいと思い始めたのもその頃ですか?

小木さんと出会って、漠然とILOはいいなと思ったこともありました。しかし、それは確固とした思いではありませんでした。むしろ、小木さんに「将来ILOで働きたい」と言ったら怒られたことがあります。あなたが今しなければならないのは、労働の現場で働くひとたちの役に立つ実際の安全衛生の仕事をすることであって、ILOに入る、入らないというのは目的ではないはずだ、と。

大学院を卒業してからは、労働省(当時)の産業医学総合研究所に就職しました。そこでの仕事もたいへん面白かったのですが、どちらかというと実験が多く、私は労働の現場での仕事をもっとやりたいと思うようになりました。一方、小木さんや天明先生が関わっている労働科学研究所は、製造業、サービス業、農業などのさまざまな現場との委託研究のプロジェクトがたくさんありました。産業医学総合研究所に入って3年が過ぎた頃、労働科学研究所で本格的に国際協力の部署が設置され、日本に軸足を置きながらアジアの労働衛生の仕事をしたいと思い転職しました。労働科学研究所では10年ほど働いていたのですが、日本とアジア双方のたくさんの現場プロジェクトに関わることができ、とても勉強になりました。同時に、小木さんから紹介されてILOの短期専門家としてフィリピンの中小企業職場改善のプロジェクトにも参加してILOの仕事をはじめて経験することができました。それでも、ILOに就職したいと強く思っていたわけではありませんでした。

しかし、ひとつだけ抱き続けていた夢がありました。それは、機会があれば、アジアの国に住んでアジアの労働衛生の仕事にさらに深く関わりたいということでした。その時、フィリピンのILO中小企業プロジェクトの担当者が、実は現在タイで上司になっている人ですが、たまたま今のILOのバンコクの労働安全衛生専門家のポストが空席募集を出しているという情報を教えてくれました。そして応募したら採用されたわけです。

Q. 今なさっているお仕事は?

ILOアジア太平洋総局の技術専門家として労働安全衛生全般に関わっています。働く人たちが、病気にならない事故に遭わない、そして健康で安全で人間らしい労働環境で働くことを、各国の政労使と協力して一歩一歩実現を図っています。担当している国は、実質的にはタイ、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、中国、モンゴルの7か国、それから韓国とシンガポールも入っていますが、この2か国はすでに先進国なので実際に仕事をしているのは上記7か国です。具体的には、政策レベルと現場レベルの二つの仕事があります。

政策レベルでは、各国の労働安全衛生についての5ヵ年計画や関連法の制定に関するアドバイスをしたり、ILOの労働安全衛生に関する条約の普及と応用のためのさまざまなワークショップを開いています。現場レベルでは、中小企業、建設業、農業、家内労働の現場等で、労働者と経営者と共に労働安全衛生に関する参加型トレーニング活動をおこなっています。特に農業や、家内労働をはじめとするインフォーマル経済職場は、政府の労働安全衛生サービスが届きにくい分野ですから、地元の人たちの自助の改善努力を支援することが重要です。

わたしたちがおこなっている参加型トレーニング方式では、例えば、農民自身が農薬中毒・機械事故・腰痛等にならないために自分の仕事の中のリスク要因を見つけて改善するトレーニングを実施します。そのとき、ベストプラクティス・アプローチと言いますが、すでに地元にある好事例を集めてそうした自助努力をどのようにさらに広げるかという視点でサポートします。対策指向型で作られたチェックリストを用いて農民自身が健康・安全のリスク要因洗い出しをするのを支援し、さらに農民同士がグループ討論を通して改善アクションを絞り込むトレーニングを実施します。こうした参加型・アクション指向型のトレーニングをまずはパイロットプロジェクトとして実施し、次に農民安全衛生トレーナーを養成します。その後、農民トレーナーが他の農民をトレーニングするのを側面から支援し、意欲ある政労使の代表と協力してフォローアップしていきます。

中でも重要なのは、この現場レベルと政策レベルの二つのレベルの仕事を繋げることです。現場でできたモデルをその国のシステムに反映して、持続できるようにしていくことが大切です。また政府の政策は、労働の現場における労働者・経営者の努力を支援する実際的なものであるようにと考えています。対象となる職種は、中小企業や建設現場、鉱山、農業、サービス業なども広く含まれます。また、各国の経験を他の国に紹介して、アジアの国同士での地域内協力を推進していくこともわたしの仕事に含まれています。

Q. 労働科学研究所とILOでのお仕事を比較してみて、いかがですか?

どちらにもよい特色があります。ILOの仕事のよいところは現場に関わりながら、同時に国の政策づくりに直接携われるということです。一方、労働科学研究所の仕事の良いところは、いろいろな労働の現場の実態を時間をかけてつぶさに観察し、必要があれば測定や実験で補いながら、労働の実態を把握したりその解決策を科学的に検討できるということです。ILOに入った今でも現場にはよく行き労使とのトレーニング活動を実施しますが、現場に根ざした時間をかけた調査研究は労働科学研究所の特色です。

実は、労働科学研究所とILOには共通点がたくさんあって、わたしは特にギャップを感じることもなくILOに移ってこられました。ILOが他の国連機関と大きく違うのは、三者構成主義といって、政府だけでなく、経営者代表と労働者代表が正式のメンバーになっている点です。ILOの総会ではこの三者が独立した投票権を持っています。例えば、日本も政労使として合わせて3票持っているわけですが、日本の政労使が相談してその3票を同じ方向に投票するわけではありません。労働者代表は他国の労働者代表と協議し、経営者代表は経営者代表と協議し、日本政府は国益を考慮して投票行動を決めますから、いろいろな投票の分かれ方があります。政府だけでなく、経営者代表にも労働者代表にも投票権があるのですから、本当の意味でいろいろな立場の人の意見が反映されるわけです。ILOが設立されたのは1919年で、当時の民主的な雰囲気を反映しているのだと思いますが、ILOのそういうところがわたしはとても好きです。 

労働科学研究所の前身の倉敷労働科学研究所も1921年、大正デモクラシーの時代に設立されました。大正時代の啓蒙的経営者として有名な倉敷紡績社長の大原孫三郎氏が始めたその研究所では、自分の工場で起きていた、女工哀史に代表されるような労働問題を科学的な手法で解決するために、さまざまな分野の研究者を集めて研究をおこないました。それ以来の現場主義が今でも息づいています。経営者とも仕事をしますし、労働組合からもさまざまな仕事の依頼があります。ILOの三者構成主義に近いものが労働科学研究所にも根付いています。

Q. 一番思い出に残った仕事、辛かった仕事は何ですか?

思い出に残る仕事はたくさんありますが、ひとつ挙げるとすれば、ベトナムの農村でおこなったWIND(Work Improvement in Neighbourhood Development) という参加型プログラムの仕事が一番印象深かったですね。この仕事は労働科学研究所にいたときに、トヨタ財団の研究助成をいただいて、ベトナム南部のメコンデルタ地域にあるカント市の労働・環境衛生センターと共同して始めました。農民の労働の実態調査に5年を費やしてどんな問題があるかはわかってきたのですが、問題をどうやって改善するか、農民が主体となって関われる解決方法はないかとベトナムの友人と悩んでいました。そのとき、ILOが中小企業向けにつくった参加型アプローチと、農村の現場で培った知見を組み合わせて、農民向けのトレーニングプログラムとして開発されたのがWINDプログラムでした。参加型トレーニングは、専門家が現場に行って指示をするのではなく、農民が改善イラストのついた対策型チェックリストを用いて健康・安全リスクを自身で評価し、自分で必要と思うものから改善を実践するのを支援します。重要なのは、その国や地元にある成功例、しかも簡単に実践できる低コスト改善実例から学ぶことです。主体はいつも農民自身にあるということで、わたしたちは側面からの支援者(ファシリテーター)に徹します。このアプローチは実際的でしたので、カント市の友人たちの熱心な努力でベトナム南部の農民の間に着実に広がりました。WINDプログラムの広がりに取り組んでいるときに長男が生まれたので、彼の名前をWINDの「風」にちなんで佳風(よしかぜ)にしました。

一方で困難な点といえば、農民主体で参加型アプローチを進めていると、ときどき主体となる農民以外の人たちからの抵抗があることです。例えば、一部の労働安全衛生専門家から農民がおこなう健康・安全改善は完璧ではないと指摘を受けることがあります。しかし、たとえ100パーセント完璧でなくても農民自身が一歩一歩自身で改善を進めていくことが大事ですから、その自助の継続改善を支援しましょうと応えています。それから、一部の行政官の方が、善意からですが、農民を守るのは自分たちの役目であり農民は自分たちの指導の受け手であると見る場合があります。こうしたときには、地域の人々の自助の努力を行政としてどうサポートできるかを共同で進めませんかという議論になります。

Q. 労働安全衛生の分野で日本ができる貢献についてはどうお考えですか?

日本は労働安全衛生の分野で豊富な経験があります。その実践的な知識を、相手国や現場ニーズに合わせて加工しなおして伝えていく技術が必要だと思います。日本での成功例をそのまま違う国に持っていっても、なかなか根付きません。日本がより大きな貢献をするためにはまず、発想を転換することが必要です。自分たちが教えてあげるという姿勢から、学びあうという姿勢を持つことが大事です。日本がアジアで唯一のドナーであった時代はもう終わっています。日本がアジアから学ぼう、そういう双方向の視点を持つことが肝要です。例えば、カンボジアやベトナムの本当に貧しい農村に行っても、そこには何かを改善しようとしている人々の努力があるわけです。そのような現地にすでにある経験の上に、日本の経験をどのように焼き直してあてはめていくかという視点をもつことが大事です。

また、日本人は現場でこつこつ仕事をするのがやはり得意ですよね。そういう人たちが日常的に持っている技術で良いものはたくさんあるはずです。それをどうやって見つけて、ほかの国でも役立つ形に再構成してプレゼンテーションし、世界に伝えていくかということも大事な視点だと思っています。

Q. 国連を目指す若者に一言お願いします。

わたしの経験は限られていますが、わたしと同じようにある分野の専門家として国連を目指す方にアドバイスするとすれば、自分の専門分野における豊富な実践と問題解決の経験、それと次に何が必要かを見る洞察力がやはり必要であると思います。例えば、わたしのポストの求人広告にも労働安全衛生の分野における10年以上の経験が必要と書かれています。それは単に時間の問題ではなく、密度の高い実際的な経験が必要とされています。

わたしも10年間、言ってみれば泥臭い仕事をして経験を積んだことが核となり、専門家としての自信につながっています。労働科学研究所で働いていた際には直接観察が主体とされていましたので、ベトナムの農村に行けば、お百姓さんと一緒に夜明け前に起きて、田んぼまでついて行きました。タイムスタディといって、30秒ごとにどんな姿勢で何をしているかをすべて書き留めるためです。田畑や農産物の加工工場で夜明けから夜遅くまで一緒に行動することによって、お百姓さんの仕事がいかにたいへんかがよく分かりますし、どこにどういう健康のリスクがあるかも見えてきます。そうやって体に叩きこまれ、血肉となっている経験があるからこそ、競争の激しい国連機関でも崩れないでいられるのだと思います。困難に直面するとこうした現場での経験を思い出します。

また、学生時代に本当の意味での異文化交流を経験したということも、わたしの中で大きな位置を占めています。冒頭にお話したマレーシア人の友人は東京の文京区にあるアジア文化会館という留学生寮に住んでいて、わたしもそこによく遊びに行っているうちに、自分も住むようになりました。といっても、一緒に住んでいたアジアからの留学生と、アジアと日本の将来を真面目に議論し合ったというわけではなく、「洗面所を汚したのは誰だ」というような生活上のいろいろなトラブルをみんなで頭をつき合わせて解決していったというような思い出ばかりなのですが、そういう経験が現在の仕事を進める上で役立っています。

最後に、お伝えしたいのは、道はひとつではない、ということです。わたしはILOに入るまで、海外留学の経験も、外国で暮らしたこともありませんでした。国際的な仕事をするにはいろいろな道があります。自分が一度の人生の中でこの世の中にどのように役立ちたいのか、自分に問いかける作業が必要です。一見遠回りに見えても目の前の仕事を地道にこつこつ積み重ねて行くことで次のステップが見えてきます。今すべきことは何かを考えてがんばってほしいと思います。


(2007年6月20日、聞き手:林神奈、コロンビア大学国際公共政策大学院、公衆衛生大学院。幹事会事務局担当。写真:西本陽子、国連開発計画)

 

2007年9月10日掲載

 


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