第114回 中満 泉さん 国連平和維持活動局・政策部長

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プロフィール

中満泉(なかみつ・いずみ):早稲田大学法学部卒業。米国ジョージタウン大学大学院修士課程 (国際関係論)修了。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)旧ユーゴ・サラエボ、モスタル事務所長、旧ユーゴスラビア国連事務総長特別代表上級補佐官、UNHCR副高等弁務官特別補佐官、事務総長室国連改革チーム・ファースト・オフィサー、International IDEA(民主主義・選挙支援国際研究所)官房長、企画調整局長等を歴任。2005年より一橋大学大学院教授、2007年より現職。

Q. 国連に入ったきっかけは何ですか?

高校生の頃から国連で働きたいという希望を持っていました。特に具体的なきっかけがあったわけではないのですが、高校の時にマザー•テレサの映画を見てとても感動し、人生に大きな目的があるというのは素晴らしいと思い、国連のような大きな組織で人のため世界のためになるような仕事がしたいと思いました。大学に入って準備を始め、国際法を専攻し、また留学もしました。その後、アメリカの大学院で国際関係論を学び修士号を取得しました。

大学院を卒業してすぐ、JPOで法務官として国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に入り、トルコのアンカラに赴任しました。トルコ在任中に第一次湾岸戦争がおこり、続いてクルド難民危機があったことから、国連でのキャリアの初期に大規模なオペレーションに関わることになりました。クルド難民危機で初めてUNHCRは軍隊と大規模に連携して活動したのですが、その多国籍軍の司令部に、UNHCRからの初めての連絡調整官(リエゾン・オフィサー)として数か月勤務する機会を得たのです。冷戦が終結する激変期にスポットライトの当たる大きな任務ができたことは、その後のキャリアの上で大変有益でした。クルド難民危機から、それ以前のUNHCRの活動とはかなり異なる緊急人道支援活動が始まったわけですが、その最初からパイオニア的に関わることができたのは本当に勉強になりましたし、幸運でした。

Q.JPO後のキャリアを教えてください。

トルコで2年務めた後、ジュネーブのUNHCR本部の人事部に人事法務官として入り、国連内部で起きた人事関係の訴訟やUNHCRの職員の採用などを担当しました。ちょうどカンボジアでのオペレーションが始まる時期であったため、そのためのスタッフ約200人全員をリクルートしたりもしました。

ジュネーブ勤務を始めた頃、旧ユーゴの危機が始まりました。私は現場に行きたくて、8月の夏休み期間中に「1か月でいいから出張に」という話があった時に、喜んでその話に飛びつき、結局2か月半サラエボに行きました。戦闘が起こっている現場にUNHCRが初めてオペレーションを展開するということになったのです。紛争地に人を出すのが初めてだったので、なり手が他にいなかったのかもしれません。その時私はまだ29才でしたが、サラエボの事務所長代行という立場で働くことができました。

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その後、一度ジュネーブの人事部にもどりましたが、93年はじめには緒方貞子高等弁務官の特使の特別補佐官として旧ユーゴに舞い戻りました。そして、93年春には、ボスニアの紛争地モスタールに開設されたUNHCRの事務所の所長になり、さらに、ノルウェーの外務大臣だったトーバルド・ストーテンベルグさんが国連事務総長の特別代表として和平交渉を担当することになった時に声をかけていただき、国連PKOミッションである国連保護隊(UNPROFOR)の彼のチームに特別補佐官として入ったのです。ストーテンベルグさんの後任に明石康さんが就任した後もそのまま勤務し、94年の末まで旧ユーゴで活動しました。

95年の初めからジュネーブのUNHCRに戻り、当時政策およびオペレーション担当の副高等弁務官であったセルジオ・デメロさんの下で2年間働きました。旧ソ連から体制が変わった後の独立国家共同体(CIS)における人口移動問題について、難民問題よりも広く、予防的な視点から取り組みました。その他にもアフリカ大湖地域の問題やUNHCRの機構改革事業にも関わりました。その結果、97年にコフィー・アナンさんが国連事務総長になり国連改革に着手された際にお声がかかり、彼の国連改革チームの人道分野担当としてニューヨークに転勤になりました。

その後、ニューヨークで出会ったスウェーデン人である外交官の夫がストックホルムの本省に戻ったため、私もスウェーデンに5年住みながら、International Institute for Democracy and Electoral Assistance (IDEA:民主化・選挙支援国際機構)という国際機関に企画・調整局長として勤務しました。

2005年からは一橋大学で教鞭を執っていましたが、日本に戻ったのは夫が東京の大使館に勤務することになったことがきっかけでした。その時まで18年間日本を離れており、久しぶりに日本に帰るのもいいと思いましたし、子どものためにも日本で住んでみるのはいいのではないかと思ったのです。

Q.現在ニューヨークではどのようなお仕事をされていますか?

PKO局の政策部長です。具体的には政策と評価と訓練と3つの部門を統括し、横断的な政策事項を見るのが仕事です。いくつかの柱となる業務と、一般的な日常業務があります。

目下、主要業務として取り組んでいるのはPKO政策の全面的な見直し作業「ニュー・ホライズン・プロセス」です。これは今後5年ほどのPKOの方向性を模索する包括的なプロセスですが、冒頭から国連加盟国も巻き込んで議論を行っており、今年7月にまずノン・ペーパーという形でたたき台になる文書を発表し、来年早々にも実施状況や協議の進捗状況をまとめた報告書を出す予定です。今後はPKOに関係の深い国をいろいろ回って各国政府と折衝をすることになります。

また、PKOの軍事・警察部隊のための「文民保護」のガイドラインも作成しています。以前のPKOは領域を安定化させて停戦合意を監視したり、和平合意を実施したりするのが主要な任務でしたが、近年のPKOは状況が安定しない地域で市民の保護を行うという任務を担うようになりました。しかし、今まで紛争中の文民保護に関してPKO部隊に何ができるのか、どう実施すればよいのかなどのガイドラインがなかったのです。

PKO活動の成功のためには、多くの関係国、つまりPKOの部隊を出している国、警察を出している国、財政支援をしている国、安全保障理事会常任理事国などそのすべてに、共通の目的意識を持ってもらうことが大切です。オバマ政権になってからは、アメリカからも、PKOは国際の平和と安全を維持するための重要な組織であるとの声が上がるようになり、国際社会全体として意識の共有ができるようになってきました。つまり、PKOが動きやすくなってきた、ということですが、今成果が出せなければ大きな機会を失うことになりますので、頑張らなければと思っています。

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Q.今まで特に大変だったり、印象に残っている仕事は何ですか?

仕事はどれもそれぞれ印象に残っており、どの職場・ポストでも本当にいろいろなことを学んできました。ただ、組織の中で上がって行くにつれて、自分がどのような仕事をすべきか、成果を出すべきかということより、いかに自分の周りにいる人たちに刺激を与え、彼らに頑張ってもらうことで全体として一致団結して結果を出していくか、ということを考えるようになりました。

特に大変だった仕事はありません。私は楽観的なのだと思います(笑)。現場での仕事は精神的にも肉体的にも大変でしたが、若かったのでそれほど苦労はありませんでした。確かに紛争地では身の危険もありますし、精神的状況も不安定になることもあります。うまく働くことができずに辞めてしまう人もいます。無理して紛争地に残ったために精神的に参ってしまい、麻酔をかけられて強制避難となった方もいました。例えば、92年の夏の旧ユーゴは、一日に何千発もの砲弾が市内に落ちてくるような状況でした。私自身に身の危険があったことも3度程ありました。私はむやみに危険に向かうようなことは絶対に避け、スタッフにもそのようなことはさせないように注意していました。人を助けることで自分たちが死んでは元も子もないですから。

紛争地には、やはり現場だからこその緊張感や、テンポの速い活動があり、普通の仕事では味わえないようなことを毎日体験できます。また、戦地という極限状況での体験もあり、難民の人の人間としての威厳が輝いている瞬間を見たこともありますし、インターナショナルスタッフが傲慢な人間であるということを痛感したこともありました。この紛争地での体験が今も仕事の原点になっています。現場がどうなっているかを肌を通して感じることが政策の策定でも重要です。作られた政策が現場でどのようなインパクトを与えるのかを考えるためには、現場の経験がものをいいます。現場経験がない人は国連PKO局では採用しません。政策は現場から切り離して考えることは不可能です。

Q.国連で働くことの魅力は何でしょうか?

臆せずに、照れずに大きな理想を語れる、それが魅力です。日本の国内状況や政治状況を見ていると理想的なことや正義を振りかざすことについて、しらけモードがあったりしますよね。国連は官僚組織でもありもちろん様々な問題もありますが、PKO局は実際に極限の状況でオペレーションをやっているので、大きな理想を持った有能な人間が集まっていると思います。もちろん単なる理想主義では通用せず、いかに頭を使い、知恵を絞り、手練手管を駆使してその理想を実現するかを考える。そして少しずつ、世界をより良いところにしていくのです。国連で働いている人は国境を越えた同志という気持ちです。大きなつながりで、それぞれの文化的バックグラウンドを持ち寄り、チームワークで動くことの素晴らしさ、というのも国連の魅力です。

また、国連は日本の組織よりは家族生活を大事にしている組織であり、それも大きな魅力です。また、私自身も責任のある立場におりますので、有能な女性が仕事と家庭を両立させるのが当然、という職場に国連を一層進展させることに努力しています。国外で働く能力のある日本人女性が日本で働かずに国際社会に出てきているというのは、ある意味当然という気もします。

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Q.家庭と仕事の両立の秘訣は何ですか?

パートナーを厳選することです(笑)。私の夫は北欧系なので女性が仕事をすることを当然だと考えています。また、くよくよ考えないことも秘訣でしょう。私は何でもポジティブにとらえるようにしています。忙しく仕事をしており常に子どもたちと一緒にいられるわけではありませんが、私がこういう仕事をしていることは、長い目で見るときっと子どもたちのためにもプラスになると楽観的に考えています。

国連では「家族がある」ということが日本よりは当然のことだと理解されています。産休をとったり、自宅勤務をしようとする人に文句をいうような人は国連で働くことはできません。私が日本にいる時に「産む機械発言」がありました。私はそのような発言がなされることにももちろん驚きましたが、日本の社会で成功している女性たちがその発言について寛容でいることについて、もっとびっくりしました。

Q. 日本に対して思うことは何ですか?

私はバブルの時に海外に出たため、日本は大国だという意識があります。日本の大国意識が消えつつあるのを悔しく思います。大国であったはずの日本はどこへ行ったの?という気持ちです。現在日本の国連の分担率は16.624%でアメリカに次ぐ第2の財政貢献国ですが、今後も日本の分担率はさらに下がるでしょうし、それを歓迎する傾向が日本政府にあるのに正直驚きを感じています。

私は個人的に、例えばPKOに人的貢献が難しいのであれば、分担率を超えて25%くらいを日本が出しましょう、くらいのことを言ってもよいのではないかと思っています。世界でそれなりの地位、プレゼンスを保つためにはそういう思い切ったことをするべきです。もちろん、人材面でも日本人にもっと活躍してほしいと思います。いざPKOに自衛隊や警察を派遣することになったとしても、国のレベルで実際に自衛隊・警察に人材のプールができるには時間がかかります。何年か人を送り続けた後、ようやくPKOの知見を持った一定の人数が確保でき、国のレベルでの力をつけるわけですが、日本はまだそこまでいっていません。日本ほど能力が高く、規律正しい軍隊や警察は世界を見渡してもそうないのですから、なおのこと、彼らがPKOの現場で活躍していないことを残念に思うのです。

無理してPKOなどやらずとも、日本は開発支援など得意な分野で貢献すればよい、という考え方もありますが、私は、日本ほどの国ならば、ODAだけでなく、安全保障つまりPKOの分野でも責任分担するべきだと思っています。もっとも、近年はODAすら減少の一途をたどっていますけれど。そして、現場に人を送るのみならず、国際社会での政策議論をリードするなど、様々な場面でプレゼンスを示すべきです。さらに言えば、そうなって初めて、日本は国連をその外交政策上のツールとしてうまく活用することもできるのだと思います。

要するに、日本は、世界の中での立ち居地を真剣に考えなければならないのだと思うのです。大国であれば、国連に出てくる人がもっと多くていいはずです。例えば、日本には一握りのエリートだけが英語ができればいいという考え方があります。発展途上国ならそれでもいいのですが、このグローバル化した世界の中で、本当の先進国・大国だったら公立高校を卒業したらみんな英語をペラペラ話せるようになっていなければならないと思います。そして、一部の人が言うように、英語を学ぶことで日本らしさが損なわれるほど、私たちの日本文化はやわなものではありません。

どんどん縮こまってしまっている日本ですが、何とか今ここで方向転換を、と思います。それには、教育が大事でしょう。中学生や高校生に対してメッセージをもっと発信しなければならないと思います。おとなしく暮らしていても満ち足りていい生活かもしれない。でも、「あなたたちはどんな目標に向かってどんな人生を送りたいの?」というメッセージを若い人に送り続けるべきです。人間は限りなく可能性を秘めており、そのメッセージを受けた人間は育っていくはずです。日本は本当に豊かで平和な国。そんな国に育った日本人は、もっといろいろなところに出て行って、この世界をより良いところにするべく、貢献できるはずです。

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Q.国連全体の中でも日本人職員は増えていませんがその理由は何だと思いますか?

日本は居心地がいいですからね。あの心地よさを振り切って出てくるのには、なかなか勇気がいります。また、国連には若い世代は入ってきていると思いますが、中堅ぐらいから辞める人が多く、なかなか定着しません。一定の年齢以上に行くと、子どもの教育などのために日本に帰りたい人も出てくると思います。それで、全体の数がなかなか増えないのかなと思います。

国連での仕事を特別な仕事だと思っているうちは、なかなか人数は増えないでしょう。国連で働くというのは、アメリカやカナダ、北欧やイギリスではあまり特別なことではなく他の仕事の延長線上にあり、普通のこととして受け入れられています。日本での仕事と国連での仕事の行き来が柔軟にできるようにならなければなりません。それには、海外から帰ってきた時に、日本でメインストリームの重要職に就けるようにしなければなりません。

また、日本人が活躍するためには、もっと、ロールモデルを提示し、またメンターとなる人を増やしていくことが重要だと思います。ロールモデルを見て、またメンターから習って、どのように自分のキャリアを構築していくのか考えられるようにする必要があると思います。

Q.これから国際社会を目指している日本人へのメッセージをお願いします。

自分が何を目的にして、なぜ国連で働きたいのか、ということを常にはっきり意識しておくべきでしょう。自分を最も有効な形で活用できるのははたして国連なのか、その人の性格や能力、目的意識によっては、他で活躍された方がもっと自分を活かせる人も多いかと思います。「なぜ国連?」というところを自ら問い続ける、その態度が重要かと思います。

また、国連という組織で「日本人」であるということにこだわりすぎないことも重要です。日本人という特性は言葉に出さずにオーラとして発揮すべきです。日本人であることは今の国連の中でプラス以外のなにものでもありません。日本人は自己主張をしないので国連の組織では不利だと思っている人がいるかもしれませんが、それは間違いだと思います。日本人は教育レベルが高く、勤勉で、精神的にも強く、周りに配慮ができ、また、バランス感覚もあります。これらは本当に素晴らしい強みです。自己主張ができないというのは、コミュニケーション能力が足りていないだけでしょう。不必要に攻撃的にならずにコミュニケートできる能力というのはどこにあっても有利な能力です。国連の中でのネットワークづくりでも、国籍にこだわらずに、目指す分野や専門性などから働きかけてみてください。

(2009年7月7日NYにて収録。聞き手:富田玲菜・国連日本政府代表部専門調査員、猿田佐世・弁護士。写真:田瀬和夫・国連人間の安全保障ユニット・幹事会コーディネーター。ウェブ掲載:岩崎寛央)

2009年11月11日掲載