第155回 植木安弘さん 国連事務局 広報官
プロフィール
植木安弘(うえき・やすひろ):1954年栃木県今市市(現日光市)に生まれる。1976年上智大学外国語学部露語科卒。国際関係論副専攻。米国のコロンビア大学大学院(SIA、現SIPA)で国際関係論修士号(MIA)、(GSAS、政治学部)で博士号(Ph.D.)取得。1982年より国連事務局広報局勤務。1992-94年日本政府国連代表部(政務班)。1994-99年国連事務総長報道官室。1999年より再度広報局。現在広報戦略部勤務。国連コミュニケーショングループ(UNCG)も担当。ナミビアと南アで選挙監視、東ティモールで政務官兼副報道官、イラクで国連大量破壊兵器査察団報道官、津波後のインドネシアのアチェで広報官なども勤める。ジンバブエ、東京、パキスタンの国連広報センターで所長代行。青山学院大学国際政治経済学部で国連研究(学部)、国連集団安全保障論(大学院)の夏期集中講義を担当。主な著書に「イシュー・リンケージ・デリンケージ」(英)、「日本の国連外交」(英)、「冷戦後の国連安保理と日本」(日)、「事務総長選と国連の将来」(日)、「イラクでの大量破壊兵器査察」(日、英)などがある。2014年1月末に国連を退官。
Q. 国連職員、その中でも広報官になったきっかけや経緯を教えてください。
大学での専門がソ連外交だったため、上智大学を卒業後、ロシア研究所(現ハリマン研究所)があり、ソ連研究者が集まっていたことでも有名なコロンビア大学大学院(SIA、現SIPA)に進学しました。修士課程を修了し、ロシア研究所の修了証書も取得して就職先を考えていた際、たまたま国連の広報局や国連大学ニューヨーク支部の人と話す機会がありました。その時は国連職員になる場合はできるだけ上のレベルで入った方が有利なので、博士課程に進学できるのであればその方が良いとアドバイスされ、コロンビア大学の博士課程に進学しました。
その後博士論文を準備していた頃、コロンビア大学で開催されていたジャパン・セミナーという大学の研究者を中心とした集まりがありました。私はそのセミナーの書記をしていたのですが、そこに当時国連の広報局長だった明石さん(明石康・元国連事務次長)が来ていて知り合いになりました。その後明石さんの方から、日本人のポストに空きができたので応募しないか、という連絡がありました。そこから私の人生が大きく変わったと言えます。国際関係の勉強をしていると国連がよく出てきますし、昔から国連のような国際的な機関で働きたいと思っていたので、応募を決めました。空いたポストが、たまたま明石さんの在籍していた広報局だったので、書類を提出して採用が決まり、1982年10月から国連に入りました。
Q. 広報官としての活動の中で特に印象に残っていることを教えてください。
1989年にそれまで南西アフリカと呼ばれていたナミビアが南アフリカから独立することになりました。そのために国連は平和維持活動(PKO)ミッションを派遣してその移行を監視するという役割を与えられました。このPKOでは大規模な文民部門ができ、新たな憲法を作るために制憲議会選挙を行うことになったので、私は選挙監視要員として派遣され、まず選挙人登録の監視を行いました。さらにその後もミッションの選挙部に残って、世界各国から約1500人派遣されてきた選挙監視要員のうち、500人位を対象に首都ウィンドフックで選挙監視のトレーニングを行いました。
1989年11月に5日間に渡る制憲議会選挙があり、私は選挙チームのリーダーとして加わりました。5日間の選挙の中で最初の2日間は国連が世界の注目を集めましたが、3日目にベルリンの壁が崩れて、世界の目が一斉にベルリンに移ってしまいました。それでも地道に選挙監視活動を続け、無事に制憲議会が設立され、ナミビアは1990年の3月に独立しました。
それまでは国連本部で仕事をしていたので、国連の役割の変化は気づきにくかったのですが、実際にナミビアに行き、国連の活動が国、地域の平和につながるものであり、そこに住んでいる人にとっても歴史的な意味がある、つまりその国、地域の人たちの生き方に我々の活動が直結していることを身にしみて感じました。この経験から国連の役割がポスト冷戦後の中で次第に大きくなっていることを実感するとともに、国連の見方も大きく変わりました。
Q. ナミビアの経験で感じた国連の見方の変化は、その後どのような活動につながったのでしょうか。
1994年4月に南アフリカ初の民主選挙がありました。ネルソン・マンデラ氏が大統領になった選挙で、アパルトヘイトと呼ばれた人種隔離政策の社会から民主化社会になって行くための歴史的な選挙でした。私は国連の政治ミッションに参加し、そこでも国連の活動の存在意義を実感しました。
さらにその後1999年に東チモールに行きました。東チモールではそれまで支配されていたインドネシアの一部となるか、独立の道を選ぶかという住民の意向を確かめるための投票を国連が行うことになり、私は住民投票が自由で公正に行われていることを査定するため、政務官として派遣されました。それまでのナミビアや南アフリカは監視が主な業務でしたが、東チモールの場合は住民投票そのものを国連が行うという、非常に重要な任務でした。
1999年8月に住民投票があったのですが、開票中に独立派が勝つかもしれないという情報が出始めました。政治状況が緊迫してきて、開票を急がなければならなかったのでボランティアを募り、私もその一員として開票を手伝いました。最後の晩は一睡もせずに夜通し開票を続け、朝の6時頃に開票を終えました。開票は二人一組で行うのですが、私のパートナーが最後の1つとなった投票箱を持ってきて、その開票を終えると、開票作業に携わった人達がデスクに集まってきて、一緒に拍手しながら喜び合いました。その3時間後、朝9時にディリとニューヨークで同時に開票結果を発表しましたが、発表直後から騒乱がおこり、その後東チモール全土が焼き討ちされて焦土となってしまいました。
我々のミッションもオーストラリアのダーウィンに避難しましたが、その2日後安保理の調査団がジャカルタにやってくるということで私は英国人の政務官と2人でジャカルタに移動しました。調査団には、インドネシア政府は軍隊をさらに増員したので現地の状況は収まりつつあると言っているが、実際は状況が極めて悪くなっていることを伝え、実際に現地に行くよう説得しました。そのため、当初ジャカルタまでしか来る予定がなかった調査団は予定変更して現地まで行き、我々が伝えた通りであることを確認しました。
調査団はそのことを安保理に報告し、安保理はインドネシアを説得した後多国籍軍を派遣して、やっと騒乱が沈静化しました。その後2年ちょっとかけて東チモールは独立します。小さな役割だったかもしれませんが、東チモールの運命を決める場面に私なりに貢献できたと感じた出来事でした。
その後、2002年から2003年のイラク戦争が始まる前に国連の大量破壊兵器査察団(UNMOVIC)と国際原子力機関(IAEA)の査察団がイラクに派遣され、私はその査察団のバグダット報道官として任命されました。大量の破壊兵器があるかどうかが最大の焦点で、私は現地でメディアに公式に情報を伝えられる唯一の報道官として、世界の注目を集めました。査察の初日から最後まで毎日私の名前で記者声明を出し続けましたが、これはUNMOVICの唯一の査察公式記録となりました。
一番苦労したのは、査察団が政治的に偏っているという噂をおさめることでした。査察団はスパイだ、などの噂が立つことがありましたが、公式にスパイ行動を行っていないという説明をその都度行い、広報に加えて査察団を守ることが私の役割になっていました。この任務の中で、相手側のイラクの国連査察団対策本部長から、国連査察団に移動式ラボの写真を提出したので、そのことを国連が発表してほしいと依頼がありました。私はイラク側から発表してはどうかと伝えましたが、イラク側が発表してもおそらく誰も信じてもらえないが、国連が発表すればみんなが信じてもらえるだろうから、と言われました。
このことは、我々がこれまで中立性を保ちながら広報活動をやってきたことの証明であるように感じました。残念ながら戦争になって査察チームは撤退しましたが、報道官としてできる限りのことは行ったという自負心があります。
Q. どのような想いを持って仕事に取り組んでいらっしゃったのですか。
ナミビア、南アフリカ、東チモール、そしてイラクは歴史的に見ても大きな出来事であり、その中で国連が非常に大きな役割を果たしました。その中の一員として働けたというのは、国連職員としての醍醐味だと思います。仕事の中では、与えられた任務を全うしなければいけないという責任感を持って取り組んでいました。国連の役割が国、地域で世界の平和につながるものになってきて、私はその中の一助としてすべきことができたのではないかと感じていますし、そういった活動に参加できたのは、私個人の国連の仕事から見ても有意義なものでした。
Q. 国連の広報官になっていなかったらどのような仕事についていたと思いますか。
元々研究者の道を歩いていたので、大学の先生になっていたと思います。実はこれまで国連に勤めていましたが、これから大学に戻ることになりました。上智大学に2014年4月から総合グローバル学部が開設されるのですが、その中で主に国連研究を中心としたコースを教える予定です。
これまでも青山学院大学で国連に関する夏期集中講義を行ってきましたが、準備をする課程で体系的に事象を捉えてまとめることが必要でした。これは、様々な人に国連を伝えることにも役立ちましたし、自分の国連分析の広がりにもつながりました。国連の仕事を通じて学んだことが多くあり、自分なりに分析してきていることを振り返ってまとめてみたいと思っています。
Q. 今後日本の学生が社会に出るために行っていおいた方がよいことは何でしょう。
今後、日本から出て仕事をする機会が多くなると思います。というのも日本と世界はつながっており、日本の平和と繁栄は世界の平和と繁栄なくしては続かないからです。国際社会で仕事ができたり、自分の考えを表現したりするためにはまず、英語でコミュニケーションができることが極めて大事です。そして言葉だけでなく中身も大事です。世界を知ることで己を知る、と言っていますが、学生の頃から自分の殻を破ってどんどん外に出ることが自分の成長にとって極めて重要だと思います。例えば、大学生であればもっと海外に出て行ってほしいと思います。
さらに、国際社会には様々な人がいます。その多様性にうまく適応できることも大事です。私の現在の仕事は、世界各国から集まった20数名の広報スタッフとともに世界に60余りある国連広報センター(約250人の職員)を統括していくことですが、日本人の価値観を尺度に他の国の人を計るとギャップがあります。そのギャップに耐え、うまく関係を保つためには他の国の人々を知る必要があります。それができないと国連のような多様化社会ではうまくやっていけません。また私も大学生までは日本で育ちましたが、このようにずっと日本で育ってきた場合でも多様化社会にとけ込めないことはなく、努力や性格次第で複雑多岐な国際社会で十分活躍できる素地はあると思います。
Q. 今後の抱負を聞かせてください。
今後は大学で働くわけですが、アカデミックな分野と現実世界は密接に関わっています。そのため既にその2つを結びつけるような国連関係の仕事をいくつか考えています。まだ決まっているわけではないのですが、例えば国連広報局が主催している中東和平国際メディアセミナーをできれば上智大学に招聘したいと思っています。また国連広報局とInternational Photographic Council(IPC)がドイツで行う国際写真展をできれば日本でも上智大学を起点にして行っていきたいとも思っています。
また、私はまだまだ国際的な場面で日本が貢献できることは多いのではないかと思っています。1つの例として、日本では既にグローバル人材育成のために様々な施策が行われていますが、さらにそれを広げて行く必要があると思います。例えば日本政府のJPO予算が減って行っていますが、私はJPOを増やすべきだと思います、なぜなら国連職員採用競争試験を受けるためには国連での経験の有無が非常に重要になるからです。国連に勤める日本人の数が減ってきていますから、それを増やすためにも、JPOを増やし、将来国連で働ける人をどんどん増やして行く必要があります。それに向けて政府も予算を付けるなど、戦略的に動く必要があります。
また、PKOの例でいえば、日本はゴラン高原から撤退した後、南スーダンにしかPKOを派遣していません。これは世界的に見ると極めて小規模な派遣と言えます。そのため国連に対する理解、ひいてはPKOに対する理解を深めて行かなければならないと思っています。
まだまだ日本ができる余地は大きいので、日本としてどういうことができるのかを私なりに問題提起や政策提言をしていきたいと思っています。
Q. 今後日本が世界の中での立場を築いていくためにはどのようなことが必要だと思いますか。
日本と世界はつながっているので、世界の平和と繁栄が、日本の国益にもつながります。そのため、日本として何が貢献できるのかをきっちりと議論して、行動に移していく必要があると思います。さらに個人のレベルでも、現在日本は平和と繁栄を享受していますが、平和と繁栄が永続的に続く保証はありません。国民が真剣に日本の将来を考えて、平和と繁栄を長期的に維持するためにはどうしたらいいかを個人レベルでも考えていかなければなりません。
そのためにやるべきこと、できることはたくさんあると思います。例えば気候変動、生物多様性、PKOへの貢献、政策提言、専門的な知識や技術を使って問題解決に貢献することなどもできると思います。まだ日本の国際感覚が狭いと感じているので、視野をいかに広げていくのかが大切になります。個人的にもその方面で何らかの貢献ができればいいなと思っています。
2014年1月30日、国連広報局オフィスにて収録
聞き手:小田理代
写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:田瀬和夫
ウェブ掲載:田瀬和夫