第2回 河野 勉さん 国連事務局 軍縮局 事務次長室勤務
プロフィール
河野勉(こうの・つとむ):1958年大阪市北区生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、82年外務省入省。中近東局、シリア、エジプトでの研修後、ハーバード大学中東研究大学院修士号取得。86年より在イラク大使館勤務。外務省退職後、コロンビア大学、ニューヨーク市立大学、国連大学にて客員研究員として勤務。97年国連競争試験に合格、98年より現職。2006年6月より軍縮局ジュネーブ課に勤務予定。
Q.幼い頃から国連を目指していたのですか?
いや、必ずしも国連っていうわけじゃなかった。でも、外務省に入って仕事をしたいなと思ったのは、かなり早かったんですよ。中学校の頃だったか、日航機がインドに落ちてね。大使館員が走り回っているのがニュースになるでしょ?こうやって人の助けになっている人もいるんだな、外交官みたいな仕事もいいなと思ってね。勿論、国際政治を勉強するうちに国連も面白そうだなと思ったけど、国連に興味があって国連で働きたいって考えていたわけじゃないんです。
それで外務省に入ったんですが、僕はサッカーをやっていたりして結構体力があったから、アラビア語をやってくださいって言われたんですよ。かなり抵抗を感じたんだけど、それいいじゃないって母親から言われたり、当時つきあってた女性や周りにも面白いって勧められてね、やってみてもいいかなと思って。
一年目は本省の中近東局で研修だったんだけど、パレスチナ解放機構の撤退問題やイスラエルのレバノン侵攻問題を扱って、中東は面白いなと思った。でもその後、シリアとエジプトで研修をして、アラブって本当に大変なところだと実感しましたよ。3年目の研修には、ハーバード大学へ行って、そのまま博士課程に進む話もあったんだけど、結局、外務省に戻りました。
Q.外務省での研修後、サウジアラビアかイラクのどちらかに行く話になって、イラクを選ばれたのですね。どうしてですか?
サウジは、お酒も飲めないし女性の顔も見られないしね。イラクとシリアはバース党っていう、いわば社会主義に基づいた政権で、今はだんだんイスラム教の力が強くなっているけれど、それでもかなり世俗的なんですよ。
でも真面目な話、イラクでは2年間一生懸命やった。ちょうど戦争の最中でね、ミサイルが飛んできて近くに落ちて、もうちょっとで死にかけたなんてよくあった。イランはバクダットを標的に、イラクの航空攻撃の報復をするのがパターンでした。もうロシアン・ルーレットみたいで、イラクが攻撃をしたら、「今晩来るな」って。でも隠れようがないんですよ、スカッドBっていう50年代のテクノロジーで、狙ってもちゃんと飛ばないミサイルだから、どこに来るか分からない。
そんな中、国連憲章第7章の下で即時停戦を要求する安保理決議598が採択されて、事務総長はそれに基づいて制裁に踏み切るプランを立てたんだけど、イランは当時非常任理事国だったドイツ・イタリア・日本との友好的な関係を盾にとって上手く逃げ回ったりしましてね。そういう安保理での動きがバクダッドにいながら常に電報で伝わってきて、それについて外交官同士で話しあったりする日々が続いたんですよ。で、国連、特に安保理で、停戦や制裁の決議に関わる仕事に就けたらすごく面白いだろうな、と思ってた。
Q.30歳になる直前に外務省をお辞めになっていますが、その後国連に入るまで、どのようにキャリアを積まれたのですか?
外務省を辞めた時点では、さすがに国連に入れるとは思っていませんでした。とりあえずしばらくは、アメリカで学術研究をしながら中東での経験を本に書きたくてね。こっちではネットワーキングが就職への鍵だから、履歴書を作って泣けなしのお金をはたいて、米商務省の次官とか本当に色々な人に会いに行って情報を集めました。その後、コロンビア大学中東研究所やビジネススクールで客員研究員として執筆活動を続けながら、翻訳等をして生計を立てました。しばらくして、ニューヨーク市立大学ラルフ・バンチ国連研究所で、日米マルチラテラリズムと国連について研究したり、客員講師をしたり。95年から1年と2か月間は、東京の国連大学で学術審議官代行として働いたりもしました。
実はこの仕事で帰国する前に、国連の競争試験―――当時は39歳ぐらいまで受験できて、僕が受けたP3レベルは二次試験まであったんですけど、その一次試験を受けていたんですよ。でもその後、二次試験がなかなか実施されなくってね。国連大学の仕事の後、国際交流基金日米センターの安倍フェローとしてニューヨーク市立大学に戻っていたら、97年4月になってようやく二次試験があった。数か月後に合格の知らせが届いて合格者名簿(ロスター)に僕の情報が掲載されたんだけど、その後またしばらく何も音沙汰がなくて困りました。
結局、国連に入れたきっかけは、イラクが大量破壊兵器廃棄に絡んで大統領関連施設の査察を拒否していたことなんです。この事態打開のために98年2月末にアナン事務総長がバクダットを訪問して査察了解を取り付けてきた。その新たな査察団長に任命されたのが当時軍縮局長のジャヤンサ・ダナパラ事務次長で、至急軍縮局に、イラクで働いた経験があってアラビア語ができて中東状況に詳しい人材が必要になったんですよ。そのイラク担当補佐官にロスターに載っていた僕が選ばれて、98年秋にようやく国連職員として働き始めたわけです。
Q.日々のお仕事について教えてください。
軍縮局は、軍縮、不拡散、軍備管理といった問題を扱う局で、大量破壊兵器部、通常兵器部、監視データベース情報部、地域軍縮部、そしてジュネーブにある軍縮会議部の5つのユニットに分かれており、これに加え、事務次長直属の事務次長室、副事務次長室、そしてこれらのユニットのスタッフを支えるいわゆる官房(Executive Office)があります。僕は事務次長室で働いており、政策面で事務次長の補佐をする2人のポリシーアドバイザーのうちの1人です。基本的に安保理が扱う軍縮に関係する問題、たとえばイラク、イラン、北朝鮮、また大量破壊兵器とテロの問題(1540委員会)、DDR(武装解除、動員解除、社会復帰)や武器禁輸の問題などをフォローしており、これらの案件が安保理で取り上げられると、公式・非公式協議に足繁く通って報告をしてきました。
Q.今までで一番思い出に残ったお仕事は何ですか?
2003年のイラクに対する武力行使前に話題になった、国連監視検証査察委員会(United Nations Monitoring, Verification and Inspection Commission: UNMOVIC)という組織があるでしょう。イラクの大量破壊兵器や弾道ミサイルの廃棄の監視と検証を実施する委員会なんですが、99年にUNMOVICを設置する決議1284が安保理で審議されている間に、われわれは既に秘密裏にこの組織の青写真を作っていたんです。化学兵器禁止機関(OPCW)やIAEAを参考にして、どういう組織図にしたら一番効果的に査察や分析ができるか考えた。
決議が採択されて、ハンス・ブリックス前国際原子力機関(IAEA)事務局長が委員長に任命されてからは、彼を助けながら短期間で政治的に実行可能な組織をつくり上げなくちゃいけなかったんだけど、5か国の常任理事国の意見がバラバラで大変でした。でも一から組織をつくったのはやっぱり面白かった。僕は自分たちで作った組織図をディスケットに保存して持っていたんだけど、委員長は就任後60日以内に組織図を安保理に提出しなきゃいけなかったから、急にそのディスケットをくれって言われて、あわてて渡したりしてね。勿論、全てわれわれの希望通りにはならなかったけれど、自分たちの考えをベースにした機関ができたから、生みの親の気分でした。
Q. これから国連を目指す人たちへ、アドバイスをお願いします。
何事にもしつこく、粘り強くやるといいと思いますよ。国連にはなかなか入れないけど、ずっと追いかけているとポッと空いたりする。私なんて、7、8年かかって40歳で入っているわけでしょう。だから「これがやりたい」と思ったら、遠回りになるかもしれないけれど若いうちに自分を鍛えて、P2・P3では入れないかもしれないけれど、P4レベルの実力をつけて、あるいは50歳位でトップで入ることもあり得るわけです。そのためには日々努力して、自分の専門性を高めながら、いいネットワークを築くのが大切です。
僕は、アメリカに来て一番良かったのはネットワーキングを学んだことだと思っている。例えば、この間の週末に友人の子どものバート・ミツバーっていうユダヤ人の女の子が12歳になる時にやる成人式に招待されて行ったら、偶然ローレンス・サマーズ元ハーバード大学学長と同じテーブルになって、いろんな話をするチャンスができたんですよ。日本もアメリカもどこで誰がどう繋がっているか分からない。自分たちのことだけでなく、国連、または世界がどうあるべきか、どうしていけばいいか考えている人を友人にしておけば、何かあった時に一緒になって真剣に考えてくれる。それで物事がばっと上手く運んだりするわけです。そういうネットワークを、国連の中でも外でもつくっていくのが大事です。
(2006年5月18日、聞き手:小谷、写真:田瀬)