第43回 杉本 恵太さん 国連開発計画 アンゴラ事務所プログラム・スペシャリスト

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プロフィール

杉本恵太(すぎもとけいた):1994年同志社大学経済学士。1996年米国SIT国際学士。1994年よりNGOの一員として、米国、旧ユーゴ、アンゴラ、ザンビアで活動。1999-2001年国連コソボ暫定統治機構民政官。2003年米国モントレーインスティトュート国際行政学修士。2004-2007年国連開発計画アンゴラ事務所プログラム・スペシャリスト。

Q.杉本さんはどんな仕事をされているのでしょうか

この3年間は国連開発計画のプログラム担当官としてアンゴラで地雷対策を請け負ってきました。具体的には、私が中心となって地雷対策のプログラムを作成し、アンゴラ政府が効率的・効果的に地雷問題を解決していくために、相手国政府の能力向上に寄与してきました。

Q. 現在の仕事に至るまでの経緯を教えてください。

日本の大学では経済を勉強し、その後すぐアメリカの大学に入り国際問題、特に難民問題と人道問題を勉強し、在学中に初めて旧ユーゴスラビアの現場で難民援助の仕事に携わりました。そして学校を終え、97年からNGOの一員としてアンゴラに入り、一年半ほど難民援助の仕事をしました。その後同じくNGOの一員としてザンビアに入り、日本政府との共同での開発援助、特にプライマリーヘルスケアに関する事業を調整する仕事をしました。そしてその頃ちょうど国連コソボ暫定統治機構が99年6月に安保理決議の下にでき、その年の10月に民政官に選ばれコソボ南部のプリズレンという町に赴任し、町の役人として公共サービスの提供をしました。そして更に部署を変わりまして、住民登録や選挙の仕事に携わりました。それから地域事務所に移り、そこの保健省で予算執行の管理をしました。

こうしてコソボには通算2年間滞在しましていい経験をさせてもらったのですが、今度は自らの能力向上の必要性を感じました。そこでカリフォルニアの大学院のモントレーインスティトュートという所へ入り、国際行政学、特にプログラムマネージメントと難民援助について2年間勉強しました。そして在学中に国連難民高等弁務官事務所の本部にありますNGOリエゾンユニットというところで、連絡担当官として6か月間働きました。

そして大学院2年目にJPOという日本の外務省が行っている制度の試験を受けました。これは若手の職員を選抜して国連に2~3年派遣するというもので、可能であればその後国連職員として世界の問題解決に貢献し続けるという制度です。その試験に受かりまして、卒業後UNDPのアンゴラに赴任しました。アンゴラには6年ほど前に働いたことがありましたので、6年ぶりに今度は違う組織の一員として戻ったということですね。そしてこの3年間がこのアンゴラでの仕事で、今は次の赴任先を待っている状態です。

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Q. 大学では経済を勉強されていた杉本さんがなぜアメリカで国際関係を勉強する決意をされたのでしょうか?

これは非常に大事な質問で、仕事の合間に日本に帰るたびに振り返る問題なんですよ。大学までずっと日本にいたのですが、中学・高校と進むにつれて色々と疑問に思うことが多くなったのです。日本の詰め込み教育の中で言われるままに詰め込んできたのですが、じゃあ今度は果たして自分が一体何を考えているのかがわからなくなる経験をしたのです。自分とは何か、自分が自分として生きるとはどういうことか、人間が人間として生きるとはどういうことなのかを考えるようになったのです。

いわゆるアイデンティティクライシスですね。そういうことを大学の時によく考えるようになり、社会というのは一人ひとりの人間の気持ち・考え方・意思・行動などが最大限に尊重されるのが大事だなと思ったんです。しかし実際の社会では様々な理由のために人間の尊厳や気持ちや考え方、行動などが押し潰されているではないかと思ったのです。そこで人間がどういう生き方を望んでいるのか、自分が自分として生きるとは、人間が人間として生きるとはどういうことなのかを知りたくなったのです。そこで戦争によってたいへんな生活を強いられ、生きたいように生きられない人たちの中に身を置いて、人間は一体どういう生き方をするのがいいのかを探りたくなったのです。そこでアメリカの大学に進み難民問題を勉強して、現場に出て人々と触れ合って考え、この疑問を追究し貢献していくためにこの道に入ったというのがいきさつです。

Q. 在学中に旧ユーゴスラビアでの現実を見て、何を感じましたか?

やはり私が日本で考えていたように、多くの普通の人たちというのが、一人ひとりの気持ちや意思や行動を自由に持てる社会を望んでいたんだなということです。普通の人たちは誰もユーゴスラビアが分裂することや、人が殺しあうことを望んでいなかった。しかし政治のために人々が分けられていくのです。自分はセルビア人だから、イスラム教徒だからクロアチア人だからといって差別したくないと言っていても、周りがどんどん分かれていってしまい自分も分かれなくてはいけなくなってしまい、最終的には自分の身を守るためにも、分裂した社会に生きざるを得なくなってしまったという状況を見ました。それは一人ひとりの力が及ばないところ、つまり政治によって人々が線引きをされ追い込まれていったわけですが、その状況を見たときに非常に残念であり悲しく思いました。

Q. 旧ユーゴスラビアでの経験によって人生観は変わりましたか?

それまでに考えていた社会のあるべき姿についての思いが強くなり、それぞれの人が大事にされる社会を築くために一人ひとりが努力しなければならないと思いました。ユーゴにいても、多くの人が平和に暮らしたいと言っているのですが、政治の事情で人々が分けられていく中で、それぞれの人の心の中に憎悪が生まれていくのです。嫌いたくないんだけど人を嫌わなければいけない状況に置かれていて、それぞれの人に憎悪という感情が芽生えてしまう現実を実際に目の当たりにしました。

そういった憎悪を一人一人が抑えていく努力をしていかなければ社会はどんどん分かれていく方向に行きますし、そのような憎悪は自分の心の中にもあると感じました。どんなに平和に共存しようと言っていても、状況が変わる中で自分が憎悪が無い人間でいられるかというとそうでは無いと思います。しかし、自分が努力して心の中に芽生える憎悪を抑え込んでいくことが、私にとってもユーゴに住んでいた人たちにとっても大事だということを感じました。

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Q. 2001年から2003年まで再びアメリカの大学院で勉強されますが、なぜその必要性を感じたのでしょうか。

アメリカの大学に戻るまでユーゴやアンゴラで難民援助をし、そしてザンビアで開発援助の仕事をし、コソボで民政官の仕事をしたわけですが、そこで自分の力量の無さを感じたのです。もっと能力を上げないと自分の期待する貢献ができないと思い、今までの経験を基盤にして、プログラムマネージメントについての知識と技術を習得し、難民問題についての知識を深めるために学校に戻りました。大学院では非常に堅固な知識と技術を学びました。

学校を出た後にアンゴラで3年勤めましたが、そこでは学校に行って学んでいなくてはできなかったようなことがいくつもありました。学校で学んだことを生かしつつ、数々のプロジェクトを策定し実施しましたが、その資料作成や資金提供者とのお金の交渉もより効果的に行うことができ、その結果末端の人たちにも利益をもたらすことができました。大学院では学生仲間の刺激的な考え方や知識から学ぶことも非常に大きかったです。

Q. そして大学院を卒業されて国連に入られるわけですね。

JPOとして日本政府からの派遣で、6年前に働いていたアンゴラに国連開発計画の事業担当官として入りました。このアンゴラは私にとっては非常に思い出深い国なのです。私は1997年から98年にかけて難民援助でアンゴラに入りましたが、98年の春先に戦争が再び勃発しアンゴラを離れざるを得なくなったのです。そして2002年に戦争が終わり、本格的な戦後復興の時期が来まして2004年の4月に政府からアンゴラの国連開発計画赴任の依頼を頂きました。やり残したことが多かったので、アンゴラに戻ることができ戦後復興から開発への手助けをすることができて非常に嬉しかったのです。そういういきさつがあってアンゴラに入り、アンゴラでは3年間地雷対策をしてきました。

Q. アンゴラではどんな仕事をされたのですか?

我々が相手国政府や国民を助ける時に最も大切にすることなのですが、その国の人々や政府の能力強化です。私たちが仕事をしてしまうのではなく、相手国政府や国民が仕事をできるように能力を上げる手助けをするのが基本です。地雷対策を全国的に調整する組織がアンゴラ政府にありますが、その組織の能力強化のプログラムを策定し、そこに人やお金を付けてその組織の能力強化に寄与するという仕事をしました。それとはまた別にアンゴラ政府は実際に地雷を除去する機関を持っているのですが、その組織の能力強化のプロジェクトも私が受け持ち、日本政府からの援助を得てその組織の能力強化の仕事をしました。このように、私の仕事はプログラムを策定し、その実施を監督し最終的に評価するという一連の事業運営をすることなのです。

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Q. 国連で働く中でたいへんな事は何でしょうか?

アンゴラで3年間働く中で一番たいへんだったのは、国連の組織の一員として働いているわけですから常に政治的配慮、外交的配慮を求められることでしょうかね。国連の理念・価値観に基づいて、相手国政府に対してアドバイスをしていきますが、我々のその理念に基づいてアドバイスをしても必ずしも相手国政府がそれを快く受け取るとは限らないのです。特にアンゴラは大多数の貧しい人たちがいる上で、ある一部の有力者が支配する国ですので、その中で、万人に利益が行き渡るような経済社会開発をしましょうと言っても、相手国の政府の要所についている人たちの利益とは一致しなかったりするのです。そこで国連の理念に基づいて発言すると同時に彼らの政治的な既得権益も見つつ、その中間を取らなければならないのです。

この政治的配慮の必要性は常に感じ、葛藤の中で相手国政府とのやり取りをしています。しかし彼らが自分たちのポケットにお金が入ることを最優先している場合はなかなか受け入れてもらえません。実際に相手国政府の要所についている人に何度も怒鳴られたり脅されたりすることもありました。それでも諦めず勇気を持って何度も何度も説得し、時間が許す限り相手国政府とぶつかります。このような緻密な作業を私たちは繰り返しています。なぜ理解してくれないのかとイライラすることもたくさんありますが、これが国連で働くことの現実だと思っています。

しかしそういう現実がある一方で相手国政府の方は、私の仕事がよかった場合には一目置いてくれ感謝もしてくれます。アンゴラは1997年に対人地雷禁止条約に調印し、2006年の12月までにアンゴラ国内に備蓄されていた対人地雷を完全に廃棄しなければいけませんでした。国連開発計画はその手助けをすることを約束し、約8万発の対人地雷の完全廃棄に成功しました。アンゴラ政府はその条約の義務を果たしたことを非常に誇りに思っており、それは国連開発計画の協力を得て果たしたものでしたので、そのプロジェクトの中心となっていた私に非常に感謝してくれました。このように感謝される一方でぶつかり合うこともあり、そういう中で私は3年間仕事をしてきました。

Q. 今までの仕事の中で、喜びを感じた瞬間はどんな時ですか。

それぞれの仕事、そして出会った人たちの笑顔が私の心そして記憶の中に焼きついています。特に紛争直後の社会で働いてきましたから、その場その場で見たその方たちの笑顔というのは私の大きな喜びですね。

Q. これからはどのような道を歩んでいきたいですか。

原点に戻りますが、続けて国際社会の中で一人ひとりの気持ちや考え方や意思や行動が大切にされる社会を築くために少しでも貢献し続けることができればと思っています。それが国連の一員としてかもしれないし、NGOの一員としてかもしれませんし、他の役割があるかもしれませんが、しばらくは国連の一員としてそういった社会づくりに貢献し続けていくことができればと思っています。

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Q. これから国際問題に携わっていきたいという人たちにメッセージをお願いします。

やはり頭だけで問題を考えるのではなく、問題が起こっている現場に入って実際にその中で生活している人たちと一緒に感じ、一緒に解決策を考え、共に模索して共に努力することが大事だと思います。そして恐れることなく勇気を持って自分が感じることや考えることを大切にして行動に移し、自分がよいと思う社会、よりよい社会をつくるために貢献していったらいいと思います。

Q. 最後に、国際社会を知る上で杉本さんのお勧めの映画や本を教えてください。

映画「Angola Saudades de quem te ama」は戦後のアンゴラの問題をよく描いていていいと思います。それから「ホテルルワンダ」も自分がこれまで見たこと感じたことがよく描かれていて、非常にいい映画だと思います。国際問題とともに、人を愛することや家族の大切さなどが描かれていてお勧めです。本はですね、私が学生時代によく読んだ犬養道子さんの本がお勧めです。国際問題について、そして人間としてどうあるべきかということを彼女の本から学ばせて頂き、色々と助けられました。

(2007年5月29日、インタビュアー:桑原りさ、コロンビア大学院 国際関係・国際メディア専攻。フリーアナウンサー。写真:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会コーディネーター。)

2007年7月9日掲載