第80回 秋山 愛子さん 国連アジア太平洋経済社会委員会(UN ESCAP) 社会問題担当官
プロフィール
秋山愛子(あきやまあいこ):カリフォルニア大学バークレー校文化人類学科卒。2008年リーズ大学障害学修士終了予定。カリフォルニア州を中心としたアメリカの障害当事者運動や権利擁護制度、実践などを日本に紹介する活動を続ける。衆議院議員秘書を経て、2002年より障害プロジェクト専門官。2007年より現職。
Q. 国連に入られた経緯をおきかせください。
ちょうど6年前、2002年の夏に日本人の障害者の方から、ESCAPで障害プロジェクト専門官というポジションを募集しているので応募してみませんか、と誘われたことが直接のきっかけです。それまでは国連に対して漠然としたイメージしかなく、国連のことはあまり知りませんでした。けれど、障害という分野である程度の経験もありましたし、関心もものすごくありました。NGOや国会議員の秘書としての仕事をしてきたので、今度はアジア太平洋という国際舞台で自分の力をちょっと試してみたいな、という気持ちがあって、思い切って飛び込んでみたんです。2007年にプロジェクト専門官から社会問題担当官という正規職員の立場になりました。
障害者に関わるようになったきっかけは、カリフォルニアに住んでいるときに与えられました。それ以前に、子どものときに観た映画でとても印象に残っているのがイタリアの映画監督、フェリーニの「道」です。主人公の女性はいわゆる知的障害者。大道芸人が彼女に愛情を感じながらも最後は邪険に扱ってしまう、というとても悲しい映画です。子どもながらに、どうしてこういう人たちは邪険にされてしまうんだろう、と疑問を感じました。社会から排除されがちになってしまう人への共感が、私の性格に影響を与えていると思います。
そして、20代半ばでカリフォルニア大学バークレー校に留学し、文化人類学を勉強しました。当時、バークレー校には自由な気風があり、障害者運動のメッカといわれていました。ここで、私がそのときまで抱いていた障害者というイメージとはまったく違うタイプの障害者にたくさん出会ったのです。とてもざっくばらんで、いい意味でのアメリカ人のきさくさを身につけている人たち。彼らは自然体で、障害を持っている自分に対しての自信はきちんと持っていながら、なおかつ社会が抱えているいろいろな形のバリアと闘っていました。その姿勢がとても新鮮だったのです。それまで私が日本で知っていた障害者というのは、どちらかというと内向的で、気詰まりでした。何よりも、障害者を街で見かけること自体あまりありませんでしたし。この違いは何なんだろうな、という疑問がわいたものです。
カリフォルニアでは日米市民交流のNGOに所属して、日本から市民活動を視察にいらっしゃる方々のお手伝いをしていました。障害者の団体もよくいらっしゃっていて、今度はそれまで出会ったことのないような日本人の障害者たちに出会ったのです。彼らは自分をよく見つめていて、社会に挑戦することもよく知っている。人間的な魅力を感じました。というのは、私は、障害があるかないかというくくりでいうと、障害がない、メインストリームの人間です。でも私は、成績を上げなきゃ、卒業したら何になればいいだろう、といつも頑張らなくてはいけないプレッシャーや価値観に自分が押し流されそうになっていたと思います。私の中には、そんな自分を素直に受け入れられない部分があったのです。
そんな時、日米の障害者に出会って、この人たちは偉いなと感じました。そして障害というのは、例えば目が見えない、足をひきずっている、耳が聞こえない、という機能的な障害そのものではなくて、建物の入り口にスロープがついていないですとか、手話通訳者がいない、という環境整備や社会的な配慮がないことによってつくられるんだ、ということが見えてきました。障害に対して社会学的な興味が芽生えたんですね。その辺に、ねっこがありそうです。
そこからです。日本からの障害者運動の視察団の調整を行ったり会議に参加したりするうちに、どんどん皆さんと仲良くなって、やればやるほど巻き込まれて、抜けられなくなっていきました。でもその抜けられない感じがけっして悪くはなかったのです。
Q. 国連ではどのようなお仕事をなさっているのですか?
障害というのは、その人が持っている身体的、精神的な状況そのものを指すのではなく、社会との関係性でつくられるし、つくられていく。その社会のバリアを皆でなるべく少なくしていけば、あらゆる障害を持った人たちが生きやすい世の中をつくることができるのではないでしょうか。このメッセージを主に政府や障害者の団体、NGO、開発関係者に伝えていきながら、法律の制定や実施に貢献することが、私の仕事の目的です。これを実現する枠組みとして、アジア太平洋障害者の十年、次いで第2次十年があります。日本政府が1993年から指導的立場をとって始めたもので、第2次十年の初年度には「びわこミレニアム・フレームワーク」という当地域の障害者に対する考え方と具体的な政策に関するガイドラインが採択されました。現実的にはこのびわこミレニアム・フレームワークの実践のための様々な活動を行っています。
毎日の仕事では、これまでは会議の開催が多かったですね。ESCAPはアジア太平洋地域の政府間機関なので、ネットワークづくりや議論の場を設けることによって、何が問題になっているのか、理想と現実のギャップはどこにあるのか、と話し合います。また、情報収集・発信をすること。アジア太平洋は加盟国が62か国もある広い地域ですので、どの国が障害者に関するどのような法律をもっているのか、どう障害や障害者を定義しているのか、障害者は全人口に対して何割を占めているのか、などまだまだ不明です。全体像を理解する手がかりを、そして根拠に基づく唱道活動、支援運動 (アドボカシー:evidence-based advocacy)を行うための材料を集めていきたいですね。
Q. お仕事の上でご苦労されていることはありますか?
会議には、障害の世界にある「私たちのことは、私たち抜きで決めるな(Nothing about us without us)」という哲学を尊重して必ず障害当事者を招き、活発な意見交換を促すようにしてきました。けれど、例えばハイレベル政府間会議などで文書の採択をする際、NGOの方々には会議の仕組み上発言権がありません。あるとき、ろう者の団体の方が文書に対してどうしても言いたいことがあったようでしたが、発言はできませんでした。そんな時、心が痛いな、と感じます。
また、2007年の6月、アジア太平洋各国から政府関係者や障害者が集まり、びわこミレニアム・フレームワークの実践報告をする会議が開催されたとき、タイ人の障害者運動のリーダーが会議の最終日に突然亡くなられるという出来事がありました。私は司会をする立場にありましたが、あふれる涙をおさえることができませんでした。このときもつらかったですね。
あとは、いろんなことが思っている以上に時間がかかるので、時間の使い方、もっとうまくならなきゃなと痛感しています。
Q. 今まで働かれてきた中で一番思い入れがある仕事はなんでしょうか?
当事者の笑顔が思わずこぼれて、私がやっていることがきっかけになったのかしら、と思うときに喜びを感じます。また、出張先で障害者の方に発表をして、「よく分かりました、ありがとう」と感謝されると、とても嬉しいですね。単純なことですよ。
過去5年間で世界的に盛り上がってきた動きとして、障害者の権利条約設定、最終的に2006年12月に国連総会で採択されたという動きがあります。ESCAPでもニューヨーク本部で開かれる国連特別委員会と連動して、権利条約をテーマとした会議を開催し、地域の総意を集約した権利条約の草案、「バンコク草案」を作成しました。この草案には、ろう者にとって手話は言語である、といった条約のユーザーである障害者自身の考えや精神が多く取り込まれています。自分たちのニーズを国際条約の文言に変えていく、というプロセスに自分たちが参加しないでどうするんだ、という当事者の強い意志とアプローチの正しさを証明した歴史的な出来事と捉えています。国際条約の作成に参加することは障害者の自信につながりましたし、彼らのニーズをどう政策に反映させるか一緒に考えて現実のものにできるのか、改めてこの仕事にやりがいを感じました。(後日談:嬉しいことにこの条約が2008年5月3日に発効しました。)
また、昨年11月、ESCAPの取り組みとしては初めて知的障害者に焦点を絞った国際会議を上海で開催しました。知的障害者の方はとても抑圧されて生きてきた部分が多いといえます。ですので、会議で発言するためには、まずご自分の感情や考えを肯定し表現することに自信を持てるようになること、自己表現にためらいを感じないようになることが必要です。これは解放のプロセス、あるいはエンパワーメントともいえるかもしれません。会議では、フィリピン、中国、タイ、そして日本などから知的障害者を招いて、考えていることを語っていただき、こういうサポートを受けることができたら助かります、ということを主張できるようになるまでのエンパワーメントを行いました。会議の議事録も、知的障害者に分かりやすい言葉でまとめています。この会議でもまた、会議に参加していることそのことが彼らの純粋な喜びとなり、力となっていたことが印象的でした。
Q. 今後の展望を聞かせてください。
今後1、2年間で力を入れたいことは、バリアフリー観光(障壁のない観光:barrier-free/accessible tourism)の概念をより多くの方々に知っていただき、そのノウハウを伝えることです。バリアフリー観光では、様々な障害を持っている方々にも旅を楽しんでもらえるよう交通機関や観光諸施設ならびに情報のバリアフリー化に取り組みます。その結果、高齢者や子ども連れの家族を含む全ての人々にとって暮らしやすく、移動しやすい街づくりが推進できます。さらに、企業や自治体への観光収益もあがるという、いってしまえば一石二鳥のシナリオなのです。昨年はアジア太平洋障害者の第2次十年の中間年にあたり、ESCAPで開催した会議でこのテーマ、特に岐阜県の高山市のバリアフリー観光推進を取り上げてから、その後も何度か発表を行って手応えを感じました。現在、バリアフリー観光をアジア太平洋に広めようという動きが盛り上がってきており、これは障害者権利条約の実践にもつながると期待しています。
Q. 障害の分野で日本の貢献について教えてください。
ESCAPに関しましては、日本政府には1986 年以降ずっと、ESCAPの障害プログラムに人的・財政的にご支援いただいています。お蔭様で障害に取り組むことの重要性が伝わり、法律をつくり施行する政府の数も増えましたし、世界で活躍する障害者のリーダーも育ちました。また、日本の政府や企業、NGOは当地域の方々を日本に招いて人材育成を行っており、日本のよい取り組みや活動家の精神が広まっています。それから、バンコクの町を歩いているとたいへんな都会だな、と感じますが、交通事故などによって家の中で何年もずっと寝たきりになってしまっている人たちがいます。今の日本だったら電動車椅子を利用して社会で活躍できそうだと思う人たちでも、そのような援助を受けることのない人たちが実にたくさんいるのです。そのような方たちに対して、日本のNGOや学校などが地道な援助を行っています。
Q. 地球規模問題に取り組んでいこうと考えている方々へメッセージをお願いします。
自分の心の中で、これはやりたいな、と本当に素直に思っていることがあったら、どうぞ!取り組んでください。けっして遅くはありません。いろいろな現場を見てまわりたいという方は、現場の雰囲気を知って、生活をしている方々の感覚を吸収していくという方法が良いかもしれません。私自身はそういうことが好きです。現場をみてから国際機関で働くのもいいでしょう。国連という枠組みにこだわる必要はありません。
そして、やはり人の心の痛みが分かること。自分の足を踏まれたら痛いと思うじゃないですか。社会的に痛みを感じている人たちが世の中にはたくさんいて、しかもそれは彼等のせいではない。この感覚を身に付けることは大切だと思います。
国連では正規の職員になれば、ある程度身分が安定します。人間は組織や環境によってつくられるところがあるので、安定するとかえって鈍化していく部分があることも否めません。また、現場に出なくても仕事を進めてしまえることも多々あります。ですから、私にとっては現場との接点を保ちながら、自分を自分で厳しく方向付けていくことが大切です。私は肌で感じるものがないと元気がでません。障害のある当事者の生活を少しでも改善できるよう、私には一体何ができるのか。出張の機会があれば、必ず村に寄って生活の現場を見せてもらう、NGOを訪問するといった努力を続けています。
(2008年3月27日。聞き手:吉田明子、国連事務局OCHA・アジア太平洋地域事務所所属、幹事会でネットワーク(タイ)担当。写真:松浦彩、国際労働機関・アジア太平洋総局所属。ならびに田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネーター)
2008年7月21日掲載