第6回 田瀬 和夫さん 国連事務局OCHA人間の安全保障ユニット課長「国連の予算を市民社会も分担できるようにしよう」
プロフィール
田瀬 和夫(たせ かずお)さん
1967年生まれ。東大工学部卒、同経済学部中退、ニューヨーク大学法学院客員研究員。1991年度外務公務員I種試験合格、92年外務省に入省し、国連政策課(92年~93年)、人権難民課(95年~97年)、国際報道課(97年~99年)、アフリカ二課(99年~2000年)、国連行政課(2000年~2001年)、国連日本政府代表部一等書記官を歴任。2001年より2年間は、緒方貞子氏の補佐官として「人間の安全保障委員会」事務局勤務。2004年9月より国際連合事務局・人道調整部・人間の安全保障ユニットに出向。2005年11月外務省を退職、同月より人間の安全保障ユニット課長。外務省での専門語学は英語、河野洋平外務大臣、田中真紀子外務大臣等の通訳を務めた。
1.背景:2006年の分担率交渉で誰がいくら払うか決まりました
昨年、このフォーラムのメーリングリストで「おカネと国連」というくだらない連載を10回にわたって投稿したことがあります。これは、昨2006年の秋に国連の「分担率交渉」というのが6年ぶりになされ、国連の通常予算の各国の分担率、すなわち「国連を運営するにあたって誰がいくら払うか」が決まったということが背景にあります。この連載を読んで頂いた方、コメントを頂いた方、本当にありがとうございます。
この中でご紹介したのは、国連の一年間の通常予算の規模は約18億ドル(約2000億円)あること、日本は2004年~2006年においてそのうちの約20%(19.468%)である年間400億円を義務的に支払ってきたこと、これは例えるならだいたい東京の青梅市の年間一般会計予算と同じくらいの規模であること、一方でいちばん払っていない国々は0.001%(約200万円)で50か国くらいあり、50か国タバになっても日本のわずか400分の一であること、などなどでした。
そして、この連載の中で強調したこととして、国連ではいくら払っているかに関わらず一国一票主義、主権平等主義が貫かれており、理論的には「分担率と国連における発言力はほとんど関係がない」ということがありました。国連における各国の発言力を決定するのは、さまざまな問題においてそれぞれの立場を国際社会のルールにしようとする国家の意思と、アイディアと、そして主導力であるような気がします。
さて、ここからは「おカネと国連」ではあまり触れなかったことですが、あくまでも国連の予算というのはメンバー国である国家が負担するということになっていて、非政府の財源は一部の信託基金などを除いてはありません。特に国連の通常予算、PKO予算といわれるものはすべて国家による義務的な分担ということが原則であって、それ以外の財源を受け取ることはないのです(2000年にテッド・ターナー氏が米国分のうち3%を負担したことがありましたが、国連はあくまでも米国政府分として処理しました)。
一方、最近の大きな流れとして、国連における非国家主体、つまり市民社会の役割についてもう少し真剣に考えるべきだということがあります。国連はその成り立ちから言って、これまでは「主権国家のみがメンバーの組織」以外の何ものでもありませんでした。もちろん経済社会理事会の諮問的地位を持っているNGOなどはあり、現場でもさまざまな組織が活躍していて、実際には市民社会の声は国連に取り入れられるようになってきていますが、制度的には「国家が最終的にものごとを決める責任と権限を持つ」ことになっています。
私は外務省にいたこともあり、「国家が国民の代表である」そして「国連というのは各国の人々を正統に(legitimate)に代表する人々の集まりであるべき」という前提には頷きますし支持します。でも一方で、これを補完する形で世界の市民社会が適切に国連に声を届け、意思決定に適切な方法で参画できるような仕組みを思いつけないものかとも思います。以下はそういった観点から、あくまでも実験的にかつ大胆に考えてみた試案・私案ですので、それぞれのお立場からご批判頂きみんなでさらに考察できれば幸いに思います。
2.問題点:「国家主権」は今の時代にどこまで正統性を持てるのでしょうか
みなさんふるさとがおありと思います。私は少年時代を鹿児島で過ごしましたが、鹿児島の人たちは自分たちのことを「鹿児島人」であると思っています。これはかなり強いこだわりです。でも、その中で「私は日本人ではない」と主張する人は今の時代ではまあほとんどいないでしょう。これは例えば四川省の人でも福建省の人でも「私は中国人である」という認識を持っているであろうことと同じと思います。
しかし、これを越えて鹿児島の人に「あなたはアジア人ですか」と聞いたら多分違和感を覚えるでしょう。四川省の人に同じ質問をしてもやはり違うと答えると思います。その意味では、「日本」なり「中国」なりといった「国」という単位は、人々の帰属意識の最小公倍数的な、かつ最大公約数的な意味合いを持っているように思えます。そして現時点において、これ以外に人々を納得させられるような「帰属形質」というのは考えつくのが難しいように思えます。
このことが、「国家」が「人々のまとまり」の最も強固な単位として現在の世界を形づくっている一つの理由ではないでしょうか(学術的な見地から国家論などを学んでおられる方、見当違いだったら教えて下さい)。その意味で、国連が国家をもっとも重要な単位としていることも、それ以外のメンバーシップや代表権をほとんど認めないことも、ある意味では自然です。NGOや個人、その他市民社会組織・団体のいうことがいくら正しくても、それは必ずしも人々のまとまりである国家を代表するものではありません。だから現在の国連はメンバーシップを主権国家に限り、その政府のみを国家の代表団として認めているのでしょう。
でも、ちょっと考えてみるだけでも、政府が人々を真正に代表するというのは理論的な仮定であって、むしろほとんどの場合、人間がつくったシステムはそのとおりには動きません。そもそもまず選挙なんてどこ吹く風という国がまだ地球上にはいくつもあり、こういうところでは政府は国民の代表というよりも国内紛争の勝者なのでしょう。また、曲がりなりにも選挙によって代表が選ばれる国でも不正の余地はいくらでもあり得るし、日本のように比較的公正に選挙が行われる国でさえも、選出された代表が正しいことをするとは限りません。政府という代表システムは「擬制(フィクション)」の上に成り立っているといってよいでしょう。
私の問題意識は、こうした「主権」なり「国家」なりの不完全性を何らかの形で補正することはできないだろうかということです。上記の理由から国家が引き続き国連のメンバーであり最終的な意思決定主体であることは構わないのだけれども、その意思決定においては、この壮大かつ危険なフィクションの上に乗っかった方法以外の何かがあるんではないか。そう考えた時に有力なオプションとなり得るのが「市民社会」だと思います。
3.分析:「市民社会」の中身と国家主権、国連の活動との関係
一口に「市民社会」といっても、その中身は一つではありませんよね。国連で使うcivil societyという言葉には、公的なもの以外はなんでも入るといったニュアンスがあって、ちょっと考えるだけでも(1)人道支援や人権擁護その他の特定の目的のために組織された団体(NGOや財団など)、(2)メディア、(3)企業、(4)研究者、(5)その他積極的に何らの公的活動はしていない市民、などのグループがあるような気がします。そしてそれらが別々の挙動を示し、時には対立します。
しかしながら、市民社会のさまざまな主体が、「縦糸」となったり「横糸」となったりして社会のひだ(social fabric)を形づくっているのはほとんどの国で共通です。たとえばNGOは現場の人々の声に接してこれをより高い政治のレベルに上げていく縦糸の役割を果たすことがありますし、メディアはそれに加えて横糸の役割をも果たします。民間企業もまた、消費者が求めるモノやサービスを創造していくことにより、その社会を形づくることに貢献します。こうした市民社会の機能は政府には果たし得ないものが多く、また人々が国家を維持していく上では不可欠なものでありましょう。
さらに、国と国との関係は政府間の交渉によるものばかりでなく、むしろ市民社会に支えられているところの方が大きいのではないかとさえ思います。貿易は言うに及ばず、例えば第二次大戦後の日米関係の発展は、両国の政府によるところよりもむしろ、両国の市民社会どうしの強固で健全な交流関係が下支えしてきたところが大きかったと言われています。また、学者・研究者間の国際交流はそれぞれの社会を理解し合い、さらに科学の分野などで大きく進歩するために不可欠でありましょう。こうしたことも主権国家だけではなし得ません。
国連においてもこうしたことは同様に成り立ちます。政府間交渉と国連職員による活動だけでは、国連が本来助けるべき人々の現場にリーチアウトできるわけがなく、現実問題として国連の支援の現場では、情報収集、事業の実施を含めてその多くをNGOをはじめとする種々の市民社会団体に依存しています。また、国連とその加盟国がその方向性を決めていくにあたって、研究者からのインプット、NGOの意見、メディアによる情報の伝播が果たす役割は計り知れません。国連という組織は、加盟国の組織ではあっても加盟国だけではまったく成り立たない枠組みなのだと思います。
こうした相互補完性を今よりももう少し明確に位置づけていく方法はないものでしょうか。「グローバルコンパクト」のように世界中の企業が国連の活動を支持するために連携する、国連の各機関が民間の資金を受け取って活動の一部に当てるとなどのことはすでに行われていますが、これをもう少し国連の本体に適用することを考えてもよいような気がします。そして、その本丸の一つとなるのが「国連の通常予算」ではないかと思います。
4.提言:国連の通常予算の一部を市民社会が分担できるようにする
ここから先はまったく個人の独創であり、現在の枠組みではまあ近い将来に実現の可能性はないものとご承知おき下さい。ただ、こういう提案を出してみることによって、市民社会の国連への参画がどのようなものであるべきなのか、議論して考えるきっかけになればと思います。
いかなる組織や国であれ、その活動予算の一部を払っている人には、その運営について口を出す権利があると思います(代表なくして課税なし)。逆もまた真なりで、例えば国連の運営に参画する主権国家は、最低でも0.001%の予算を義務的経費として支払わなくてはなりません。とすれば、もしも市民社会が国連の活動により積極的に参加し、その意思決定に影響を与えることを是とするならば、その活動予算に対しても、なんらかの貢献ができるようなシステムをつくっておいてもいいのではないでしょうか。
以下に、「国連の通常予算の一部を市民社会が分担できるようにする」ことを目標として、二つのオプションを示してみます。
(1)各国の分担金の中に、「市民社会枠」を設けてよいことにする
例えば2007年~2009年における日本の分担率は16.6%で年間約400億円程度だと思いますが、このうち、企業を含む市民社会からの直接の寄付金を募り、残りを税金で賄うこととします。もし年間に5億円の寄付が集まれば、16.6%のうち2.5%は市民社会からの直接の国連への投資ということになります。そして日本は国連に分担金を支払う際に、このうちの5億円については日本の市民社会からの貢献であることを明示して支払うこととします。
国連では、各国からの市民社会からの貢献の合計額を計算して、その年の予算の何パーセントが市民社会からの支援であるかを世界に示します。そして、その割合については、翌年度の予算の中で国連と市民社会の連携の強化のために使うこととします。こうするとおそらく国連の通常予算の10%前後は市民社会との連携のために使われることとなるのではないでしょうか。
こうすることの利点は、主権国家が最終的には権限と責任を持つという現在の枠組みの根本は崩さず、実質的に市民社会の貢献が国連の活動に反映されること、そしてさらに市民社会と国連の連携ということが、より公式に国連の活動の一部となることです。また、0.001%を支払っている国が、大口の民間からの貢献によってこれ以上の額を支払えるようになるかもしれません(その場合は分担率と予算規模そのものを見直す必要がある)。逆に難点は、市民社会を認めないような国家もあってそういう国からは貢献が得られないことでしょうか。
(2)国連予算に追加的に「市民社会分担枠」を設け、誰でも貢献できるようにする
国連が寄付口座を開設して、世界中のだれでもここに送金できるようにします。そして、例えば1年間に100億円集まったとすると(ちなみに日本のユニセフ協会だけで年間100億円集めるんですよ)、これを次年度の国連予算に純増分として追加します。年間予算が2000億円だとすると、5%増えて2100億円になるわけです。そして、この100億円については、国連の公式な活動として、やはり国連と市民社会の連携のために使うこととします。義務的拠出ではなく任意拠出ですが、ミソはこれが公式な国連予算に組み込まれるという点です。
この方式ならどんな思想や体制の国にいる人でも、直接に国連の活動に貢献することができます。そして、少なくとも予算上は、「主権国家」以外の主体が国連の運営に直接関わるという革新的な形を取ることが可能です。「市民社会の代表」というのは理論上選ぶのがほとんど不可能ですから、市民社会が国連のメンバーという代表性を獲得することは困難であると思いますが、少なくとも国連自体が市民社会からの貢献によってこれとの連携を強化する部署を公式に設置することによって、市民社会の声が国連の意思決定に影響を与えることは確保できるのではないでしょうか。
問題はこの部分があくまでも自発的な市民社会の拠出によって賄われることから、額がいくらになるかの予想がつかないことかもしれません。
5.おわりに
以上つらつらと夢物語のようなことを書いてみました。こうした制度的な変革はなかなか実現が難しいのですが、でもまず各人が理想を考えてみること、そして現状からスタートして少しずつでもその理想に近づけていこうとすることは大切なことだと思います。私は国連が世界中の人のためによりよい場であり組織であるべきだと思いますし、20年、30年を考えればどのような変化だって不可能ではないと思っています。
みなさまのご意見、ご叱咤を頂ければ幸いです。
2007年8月10日掲載
担当:中村、菅野、宮口、藤澤、迫田