第20回 「Leverage (梃子) としての援助:旧ソ連圏支援の現状と限界」
2006年3月31日開催
於・UNDP DC-1 19階 会議室
国際開発学会(JASID)NY支部/国連フォーラム 合同勉強会
柳沢 香枝 氏
国連開発計画(UNDP)南南協力特別ユニット
シニアアドバイザー
■ はじめに
本日のテーマに関連する部分を取り取り上げて簡単に略歴をご紹介する。大学卒業後、国際協力事業団(JICA)に入団し、対中ODAの黎明期にJICA中国事務所に勤務した。当時のODA関係者が日中関係の強化のため、強い使命感を持って事業に臨んでいたことを思うと、現在の日中関係や対中ODA批判は残念に思う。本日の話の中に中国との対比が出てくるのはこうした経歴によるものとご理解いただきたい。
その後ワシントンDCの大学院にて、開発経済と中国研究を学んだ。ワシントンDCという土地柄、世界銀行や国際通貨基金(IMF)からの講師が多くいた。時代的には1980年代の末期、ソ連崩壊の前夜であったが、この時期に学んだことは、2つの ”BOP” に象徴される。1つは 政治面での”Balance of Power”であり、米ソの2極構造が実は最も安定しているという考え方だった。その後のソ連崩壊と冷戦終結の結果、世界各地で紛争や内戦が多発し不安定な状況が続いていることを思えば、この理論には一面の真理があったと言える。もう1つは”Balance of Payment”であり、累積債務とそれによって引き起こされる国際収支のアンバランスが経済発展の障碍となっていた時代を背景に、マクロ経済の安定を最重視する考え方であり、この時期に開始された金融安定化支援や構造調整融資の根幹をなすものであった。
また夏休みの2ヶ月間、米国国際開発庁(USAID)のアジア中東局においてUSAIDがどのように国別援助計画を策定しているのかを学んだ。USAIDにおいても、プロジェクトというミクロのレベルを対象にするだけでなく、政策面(価格政策や貿易政策等)にも目を向けなければ問題解決はできないという考え方が浸透しつつあった。
90年代初めに東京に戻った。JICAにはそれまで「国」の視点で事業と捉えるという考え方がなく、漸くこの頃カントリープログラムが作成されるようになった。そのガイドライン作りに携わることができた。しかしJICAが地域を中心とする組織編成となったのはその10年後の2000年のことであり、その際東アジア・中央アジア課長に就任した。そして、2002年にウズベキスタン事務所長として着任し、2005年8月に帰国するまでウズベキスタンとタジキスタンを所掌していた。今回の講演はUNDPの立場からではなく、今までのJICAでの経験を元に話をする。
■1■ ウズベキスタン、タジキスタンの現状比較
中央アジアの概観
まず中央アジアという地域を地政学的に見ると、ロシア、中国、アフガニスタン、イランといった国と国境を接しており、これらの地域の政情と密接な関係があることがわかる。地域内にはフェルガナ盆地という人口密集地域があるが、スターリンが民族分断を意図して複雑な国境線を配したため、これが同地域の不安定化の要因ともなっている。中央アジアは日本人には馴染みの少ない地域であるが、国名が似ていても一様ではない。民族・言語的にはタジキスタンがペルシャ系、その他4カ国(カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタン)がトルコ系である。また地形的にはタジキスタンとキルギスが山岳地帯、その他の3カ国が平野部に位置している。
タジキスタン
独立後の経緯
1991年の独立の翌年内戦が勃発し、1997年の和平合意成立まで戦闘状態が続いた。国連は1994年にタジキスタン監視団(UNMOT)を設置し、和平構築に努力した。1997年に和平合意が達成されたが、その1年後の1998年にUNMOTの秋野政務官が殺害されたことはよく知られているところ。2000年には総選挙が実施され、またUNMOTはタジキスタン和平構築事務所(UNTOP)に移行した。その後の治安は安定している。
ドナーとの関係
ドナーとの間には支援国会合(CG)の枠組があり、初期段階は日本がリード役だった。2002年には貧困削減戦略文書(PRSP)を作成し、また2005年には第2PRSP及び「ミレニアム開発目標(MDG)に基づいた開発戦略(NDS)」の中間報告を発表するなど、基本的にドナーとは協調的な関係を維持している。
国連のタジキスタン支援のキャッチフレーズは”Moving the Mountains”というものであるが、同国の国土の93%が山岳地帯であり、また内戦からの復興と開発がまさに山を動かすほどの困難な事業であることを思えば、適切なキャッチフレーズであると言えよう。
ウズベキスタン
独立後の経緯
同じく1991年に独立。その後経済発展の兆しはあったが1996年の国際収支の悪化をきっかけに貿易・為替制限を行ったため、IMFとはオフトラックになった。しかしその後2002年にIMFの監視プログラム(Staff Monitored Program)を受入れ、2003年にはIMF協定第8条国(第8条では、(1)経常取引における支払に対する制限の回避、(2)複数為替レートや2国間の支払い協定などによる差別的通貨措置の回避、(3)他国保有の自国通貨残高の交換性維持、を規定)入りを宣言した。また2004年末には総選挙を実施し、二院制に移行した。
このように、表面的には経済改革と民主化が進展しているように見えるが実態は異なる。1996年以降の為替制限は複数為替レートを生み出し、国に重要と認定された産業だけが公定レートにアクセスできるというものであったことから、経済に重大な歪みが生じ、それがドナー側にとって最大の懸案事項となっていた。8条国入り以降、外貨交換は自由化されたが、政府はインフレ抑制を口実に国内通貨の供給量を極端に絞ったため、実質的に為替制限が残存するのと同じ状況になっている。また政治面でも、上下2院制、複数政党制で現在6政党となったが、いずれも大統領が作ったか推薦した党ばかりである。真の反対政党は登録することさえ拒否された。
ドナーとの関係
国際通貨基金(IMF):2001年にインターナショナルスタッフを撤退させた。現在は4条項に基づく通常のマクロ経済状況モニタリングを継続。マクロ経済は安定しているため、IMFとしては表面的には政策を批判しにくい状況になっている。
世界銀行(WB):2005年に“Welfare Improvement Strategy Paper”という名のPRSPのウズベキスタン版の中間発表を行った。(ウズベキタンが「貧困」という表現の使用を拒否したため。)
WBは、PRSPを作成した国に対しては低利子(国際開発協会(IDA)ベース)で融資するが、ウズベキスタンは1人当たり国民所得ではIDA対象国であるにもかかわらず、未だPRSPがないためその対象外。国家のプライドが先行しているが、負担は国民にかかってくる。2006年3月、新規融資凍結を発表。
欧州復興開発銀行(EBRD):ソ連崩壊と共にできた銀行で、開発銀行の中で唯一政治的側面の重視をマンデートに加えている。2003年にタシケントにて年次総会が開催された際には、クレア・ショート英国開発庁長官(当時)が、ウズベキスタンの人権侵害に関し公衆の面前で大統領を批判する場面もあった。EBRDが支援を継続する条件として、7つ(人権問題の解決、複数為替制度の撤廃、複数政党制など)のベンチマーク達成を要求した。2004年に融資の制限的適用を決定。
アジア開発銀行(ADB):政治的干渉はしない開発銀行なので、ウズベキスタンの最大の支援財源となっている。
アメリカ:アメリカには国防重視派(国防省)と人権重視派(議会とそれに影響される国務省)という2大勢力があると言われているが、9.11以降は対テロ戦略的パートナーとして援助が急増した。しかしその後人権重視に振り子が揺れ、2004年末には、議会がUSAIDの政府機関への直接支援の禁止を決議した。2005年5月にはPeace Corpsがビザの発給停止のため撤退を余儀なくされた。またアフガニスタンへの物資輸送のため使用されていた空軍基地からも撤退した。
国連:2005年7月にセキュリティオフィサーが事実上の国外退去扱いとなった。また2006年3月にはUNHCRが1ヶ月以内の撤退を通告された。いずれも2005年5月のアンディジャン事件(東部地域での刑務所襲撃を契機とする「暴動」と政府による武力鎮圧)に関連していると推測されているが、国連といえどもウズベキスタンにおいては安定的な存在ではないということが証明された出来事となった。2005年版の人間開発報告は、相手国政府との共同出版という形をとっているため止むを得ないが、ウズベキスタン側の主張が前面に出たものとなっている。
このようにドナーとの関係は一様に冷えたものとなっている。しかしどのドナーも援助停止という結論は下さず、engagementを続けるという態度をとっている。
■2■ 国によりドナーとの関係に差が出る要因
動機のずれ
ソ連崩壊後IMF・世銀側が主導するドナーは、旧ソ連・東欧地域を共産体制から民主国家に、また計画経済から市場経済へ転換させることを目指して支援してきた。そこで取られた手法は国際収支悪化国に対して行われた構造調整とほぼ同様のものであり、その際主導的役割を果たしたのはJeffery Sachs教授などだった。他方、旧ソ連圏の側にとってソ連崩壊とは地方政府が独立国となることを強いられることを意味していた。分離独立の結果モスクワ中央政府からの財政移転が得られなくなった以上、西側ドナーに頼る以外選択肢はないという状況があり、民主化や市場経済化は、必ずしも被援助国側が自ら選びとったものではなかった。このため、当初から双方の動機にはずれがあった。
国による条件の差
ウズベキスタンとタジキスタンを比較すると、まず人口規模(前者は2,600万人、後者は600万人)において圧倒的な差があるが、それ以上に差を決定づけているのは天然資源の賦存状況である。ウズベキスタンは石油・ガスを自給するのみならず輸出も行っている。また綿花・金が最大の輸出品目となっている。他方タジキスタンには豊富な水資源があるものの未開発であり、現在の主要な外貨獲得減は100万人規模の出稼ぎ労働者からの送金である。開発経済学では一次産品生産国から工業化への脱却が必要としているが、現状、ロシアを含め一次産品、中でも石油生産国が経済的に有利であるというのは否定し得ない。そしてウズベキスタンの場合、天然資源と食糧の自給が可能であるため、極端に言えば鎖国しても生き延びられる状況にあり、このことがドナーへの依存度を低くしていると言える。
■3■ ウズベキスタンの経済改革の状況と阻害要因
経済改革の進展度
ウズベキスタンはソ連崩壊後の経済の落ち込みが最も少なかった国の一つである。それは主要輸出品である綿花が、旧ソ連の外に市場(国際市場)を持っていたためと考えられる。他方、経済成長の落ち込みが比較的少なかったことに反比例して、改革は進展していない。それは同等規模の隣国カザフスタンと比較すれば明らかである。統制価格の割合、民間セクターの経済の占める割合、国有銀行の銀行総資産に占める割合、一人当たりの直接投資受入額など、どれをとっても旧ソ連・東欧地域27カ国中最低水準となっている。
改革を阻害する経済的要因
ウズベキスタンの経済運営は基本的に計画経済の手法のままであり、国家のコントロールに強く依存している。それには民間セクターに対する不信感も関係している。更に重要なことは、国にはフロー(経済成長率や1人当たり国民総所得(GNI)など)だけでなく、ストック(人的資源を含むインフラ)があるということである。ウズベキスタンの1人当たりGNIは460ドル程度と貧困国並みであるが、ストックは中進国レベルであるため、経済改革を行うと失うものが多い。またソ連には「開発」と言う概念がなく、現状維持を良しとするメンタリティがある。
改革を阻害する政治的要因
ウズベキスタンは大統領を元首とする共和国制とされているが、実態は旧ソ連のシステムが残存している。それは現在も社会主義体制を維持している中国の政治システムを参照するとわかりやすい。現在の大統領府は共産党中央委員会が形を変えたものに過ぎない。そしてこうした旧ソ連型システムの特徴は、大統領府(共産党)とそれに直結する政府による行政権が極度に肥大しているということである。ウズベキスタン・中国両国に共通するのは、議会が年に数日しか開催されず、職業政治家もいないということである。また司法権の独立性もない。要するにチェックアンドバランスがまったく機能しないシステムとなっている。
更に旧ソ連型国家における国家と国民の関係は、国家が一方的に命令し、国民はそれに従うという支配・被支配の関係である。これは民主国家において公と民とが並列の関係にあるのとは対象的である。ロシア語においては「国家」と「政府」とはほぼ同義語であり、また「公」という言葉は存在しないに等しい。このような政権は、権威主義的、独裁的、抑圧的であると表現される。他方、国家は命令を下す代わりに教育や医療などのサービスを無償で提供し、国民もそれを当然のこととして享受するという、「父権国家」の側面があることにも留意すべきである。
権威主義的国家はウズベキスタンだけでなく、経済成長著しい東南アジアにも見られ、一概に好ましくないと決めつけることはできない。しかし権威主義的国家には民主国家にはないリスクがある。それは国民に対する権力の横暴が起こり易いということである。また権力と富が少数のエリートグループに集中しやすいという危険性を持つ。このことを適切に表現するものとして”The marriage between unchecked power and illicit wealth”という描写があった。これはForeign Policyで使用されていたもので、中国の現状を表現したものである。経済改革が成功していると言われている中国でもこのような弊害は見られるのである。更に最も重大なリスクは、現状維持がエリートグループの利益になる限りにおいて、その変革を望まないという現象が起こることである。
改革が進展しないことによるリスク
ではウズベキスタンが今のままで持ちこたえられるかという点であるが、国民は生存最低レベル生活(公務員の月収40ドル、税引後30ドル)を強いられ、また政治的抑圧により合法的に政府に反対する手段がない。その結果政治的意思の暴力的発露やイスラム勢力の伸張のリスクがある。アンディジャン事件はその象徴である。また対外開放が進まなければグローバル化に遅れ、内陸国である故に他国に投資先を奪われるというリスクがある。更にはソ連時代の遺産であるインフラや人材の質の後退を招く。
■4■ 今後ドナー(日本)がとり得る道
果たして選択肢は?
現在のウズベキスタンの最大の阻害要因が現政権であるとして、政権転覆を考えるのは、あながち荒唐無稽なこととも言えない。少なくともウズベキスタン政府はウクライナやグルジアの「カラー革命」をアメリカの後押しによるものと信じている。しかしドナーの立場ではこの選択肢はあり得ない。その対案は市民社会を育成し、民主化を進展させていくという選択肢である。しかし旧ソ連の国民は受身の状態に慣れきっており、国家に保護されていたソ連時代に対する強いノスタルジーを抱いている。アンディジャンで人々が求めたものは、経済改革ではなく、職や食糧の支給であったと思われる。また仮に民主化が進展したとしても、それが改革を求める圧力になるとは限らない。世界の他の国の例を見ても、国民は経済改革には保守的な傾向にある。
日本の援助
個人的な繋がりを重視し、理論的というより情緒的に援助が行われてきた傾向がある。民主化や人権を前面に押し出すことはないが、その代わり方針や援助量がぶれず、安定的に援助をしてきたということは言える。欧米は、日本を「求められたものを黙って提供するドナー」と言うが、日本型のアプローチは、西欧諸国のアプローチに対案を提示するという点で意義があるのではないか。
誰を援助の対象としていくか?
援助対象をエリート層、政府職員、ビジネス界、農民(農場主)、国民に分け、それぞれの立場を「個人的利益の伸張」、「保守派」、「改革派」に分類してみた。この表から言えることは、経済改革を行わなければ国益が損なわれると考えている政府職員と、改革による収益拡大に関心のあるビジネス界、農場主グループを対象にすることが効果的であるということである。一般国民は保守的、受身的であるが、農業改革の中で生まれた農場主は収益拡大という合理的判断を行っている。一例を挙げれば、昨年ある農場主が主催した講習会に300名を招待したところ、自費で600人が集まった(今年は1,000人に拡大)ということがあった。
■ 結論
ウズベキスタンの政策の基本的枠組が経済改革を阻害するものであるため、対ウズベキスタン援助は非常に困難であり、段階的な変革を期待するしかない。その際のアプローチは以下のとおり。
- モチベーションのある人々、例えば、変革を求める意識が強い農民(農場主)層に働きかける。
- グッドガバナンスは無理でも、質の高い行政により国民の福祉の増進を目指す。
- 税制や法制度を整備し、国家による民間セクターへの干渉を排除する。
質疑応答
■Q■ 日本のウズベキスタンに対するこれまでの援助の歴史を現在の方針を教えて下さい。
■A■ 1993年に、ベラルーシとロシアを除く旧ソ連邦13カ国がOECD/DACの援助対象国となり、日本はその認定に大きく関わり、援助も始めた。それ以前の米ソ冷戦期の影響もあり、JICA内部に旧ソ連邦に対する知識は皆無に近かった。そこでまずは、地域合同で日本に研修生を招聘しマクロ経済、財政金融分野の研修を実施した。1999年にはJICA事務所がウズベキスタンに設立された。日本の援助全体では、円借款で空港の修復、火力発電所の復旧等を行った。保健セクターでは、母子病院の改善、保健・医療財政改革(経済改革に一番影響しない分野から)を支援した。旧社会主義国にビジネスや日本語、コンピュータ等を学べる日本センターを設置し、ウズベキスタンが一番成功しているが、そのスキルを使える仕事はなかなかない。民間セクターの発展無くして経済発展はあり得ないことから、今後は法律分野で民法等を改善して、いかに国家の介入を防ぐかも課題である。国別援助計画策定には、一昨年から現地ODAタスクと東京タスクとの合同で取り組んでいるが、経済改革等国家の根幹に触れる支援をどう扱うかという点やアンディジャン事件後の対応も不透明で、結論は出ていない模様。
■Q■ エリートグループと変革の意識のある農民層にどう援助していくのが良いと思うか。
■A■ 農民とは、日本型の個人農ではなく、主に農場主・農場経営者のことであり、どう経営するかを支援する。彼らを組織化し、流通や品質の向上を目指すのが良いと思われる。 また、国家が企業活動の阻害をしているので、制度面を変えていき、国家の介入を軽減する必要がある。現在の税制は、モスクワ中央政府からの財政支援の代替として、税収を上げることのみを目的に設計されている。しかし、税金は国が収奪するものではなく、企業の健全な成長を助長するものであるべきである。このため税務行政改善プログラムが近いうちに始まる予定である。
■Q■ ソ連が崩壊する以前は社会指標は比較的良かったと言われるが、本当にそうだったのか。その変化は?実際この指標はどうなっていると思われるか。
■A■ 教育は、以前は確かに良かった。現在でも、大学の教師の質に比べ、学生は優秀である。1996年に政府が基金を作り、優秀な人材を留学させていた。但し教育の中身はソ連時代のままであり、変革が必要。他方保健指標には問題がある。乳児死亡率は、旧ソ連の定義に基づき生後7日以内に死亡した乳児を除外して計算されており、ユニセフが使っているものと全く違う。現在ウズベキスタン政府は16人/千人と発表しているがユニセフ推計では56人/千人前後とされている。旧ソ連の指標は社会主義の勝利を示すために作られたもので、その変更にはナショナルプライドが邪魔をしている。しかし一旦このことを認めればドナーも援助がしやすくなる。例えば蘇生装置があれば救える命も多数あると言われている。
■Q■ ウズベキスタン政府としては、政治的変革も経済的変革も歓迎していない。しかし、欧米の援助は体制も含めて変える援助をしようとして失敗した。日本が果たしてそのような国に援助する意味はあるのか。自分がミャンマーにいた際の経験では、彼らは政治的変革をする気はなかったが、経済的変革をしようとする兆しはあった。官僚が真面目な良い人たちだったので、この人たちのために何かをしてあげたいという気持ちが沸いたが、ウズベキスタンの場合、そういう気持ちにさせる人材はいるか。
■A■ タジキスタンがPRSPを受け入れてドナーの言うような経済運営をし、協調しているように見えるのは、ドナーに付いて行く他に選択肢がないからであろう。キルギスが世界貿易機関(WTO)に加盟した結果、国内産業の育成に苦慮しているように、ドナーと協調して来たことが果たして良いことなのか否かはまだ分からない。ドナーにとって優等生であることと、国の発展との関係はどうなのか疑問である。日本は体制を変えようせず、細々と安定的に援助を続けている。日本の経済学者に共通しているのは、Gradualismの方がBig Bangより良いという思想である。国と民間セクターの関係について言えば、日本は、国が中小企業をコントロールしているのではなく、中小企業をサポートしている、というスタンスである。その逆を行くウズベキスタンに、日本のこういうやり方を伝えていけるのも日本の特徴ではないだろうか。変革を望んでいない国に援助をする必要があるのか疑問に思う時もあるが、できれば少しずつ徐々に変革に移行するのを助ける形の援助に意味はあると考える。
若者は優秀で物事を良く分かっているが、それを発揮する場がない。変革を望むそういう若い世代に支援していくところに、やりがいが見つけられる。そして、それを徐々に改革へ繋げるためにはやはり援助が必要。また、社会は急激に移行するものではない。
■Q■ インターネットが普及するとウズベキスタンの状況は変わると思うか。
■A■ 現在、ロシアが作る反ウズベキスタンサイトにはアクセスできない等、メディアのコントロールは厳しい。アンディジャン事件の時は、NTV(ロシア)、BBCもCNNも映らなくなってしまった。インターネットが普及しても、もともと民主主義の伝統がないので、下から革命を起こしていくのは難しいのではないか。
■会場からのコメント■ 北朝鮮、ミャンマー等の国にどう支援していくのかというのは、非常に難しい課題である。いくつかのアフリカの国ように、ドナー主導で骨抜きになってしまってもいけない。自分たちでやって行ける国をどう支援し、どういうアプローチを取るのかは、引き続き大きな課題である。
第20回国連フォーラム勉強会資料担当:古澤