第50回 「緊急医療援助の現場における最近の課題及び国際社会における女性NGOの視点」

黒﨑 伸子さん
第63回国連総会日本政府代表団顧問 日本BPW連合会会長、国境なき医師団外科医
2008年11月6日開催
於:ニューヨーク日本政府国連代表部会議室
国連日本政府代表部/国連フォーラム共催 合同勉強会

写真①

■ はじめに

国連総会日本政府代表代理としてニューヨークに来ているが、いまだ国連とは何かという問いは解けないままである。それには国境なき医師団での経験が大きく影響していると考えている。今回は、普段人々が見ることのない映像を提供しながらプレゼンテーションをしたい。現在は基本的に長崎を拠点として活動しているが、医師としての活動の始まりは、まず長崎大学医学部を卒業し医師の資格を取得後、外科医になることをめざしたが、当時は長崎大学ではこの領域での女性医師の受入れを拒む傾向が強く、東京女子医科大学で研修を行った。専門は小児外科である。2001年からは緊急医療援助団体「国境なき医師団MSF(Medicins Sans Frontieres)」で、ボランティア外科医として紛争地あるいは紛争後地域での医療援助に携わってきた。

■1■ 緊急医療援助団体「国境なき医師団 (MSF)」での体験から

1) フィールドでの現状報告
2001年から7年の間に、MSFにて8回のミッションに参加したが、最初のミッションに際しては、長崎大学医学部講師であったのを、辞めなくてはならなかった。実際に行ってみると教えられることがたくさんあり、これまでの活動に繋がっている。外科医は非常に多忙なこともあり、現地での滞在期間は1回が4週間から6週間とされている。よって、通算参加ミッションの回数は多いが、これまでのトータルでの現地滞在期間は約1年となっている。まず、一番最近のミッションについて紹介する。

ソマリア(2008年)
はじめにソマリアに行くことが決まったとき、周囲は本当に行くのか?という反応を示したが、自身の認識では、現地に行っても外科医として手術室に入っている限りは安全であると考えていたが、実際に赴いてみると非常に大変なところであった。1月にソマリア南部のキスマヨでMSFのスタッフ3名が殺害された。そのため、3月初めからの予定であった赴任は一旦ペンディングになり、3月末まで待ってケニヤから入り、現地の治安をモニターした結果でソマリアに入ることとなった。つい最近9月にはエチオピアで世界の医療団(MDM)に所属する日本人女性医師が誘拐され、現在はソマリアの首都で拘束されている。彼女は長崎大学で勉強していたこともあり、10月の帰国後は私の赴く病院の代診をしてもらう予定であった。今は何も出来ない状況だが、とにかく早い解放を願っている。ソマリア政府は暫定政府で、各部族が対立している状況だ。首都のメインストリートでも人がおらず、一般市民は砂漠のような山中に逃げて生活している。1週間のナイロビ待機から4月8日にやっとソマリアに入ることができた。コマーシャルベースの飛行機で行くと危険なため、チャーター便で行った。ソマリア内では、女性は髪を見せてはいけないので、ターバンをまいている。道の中では首も見せてはいけない。

ソマリアの首都モガディシュでは、4メートル近い壁に囲まれた病院の敷地内で活動を行った。一旦敷地内に入れば、危険はないが、それでも、宿舎から病棟まで移動するにも危険は予想されるため、銃をもったボディーガードに守ってもらっていた。なお、ムスリムの国なので、寝泊りしている宿舎内以外は常に長袖にターバンを着用していた。

赴任して最初の数日間は静かであったが、一旦銃撃戦が始まった後は、連日一挙に20~30人運ばれてきた。軽トラックに4~5人、乗用車に3~4人など、一度に患者が運ばれてくるのだ。街で何かあっても、病院に来るまでに30分など時間がかかってしまう。夜間は、人がほとんど移動しないこともあって、負傷者はほとんど来ない。ソマリアでは犠牲者の7割くらいは、女性か16歳以下の子供である。赴任した病院は、もともと公立病院だが、MSFが外科用に病棟を立てて活動を行っていた。1981年からソマリアが紛争に入って以来、教育が荒廃しているため、医療技術レベルが低く、手術ができればいいという認識がある。よってMSFの海外スタッフが撤退すると、診療行為は現地スタッフで継続しても治療成績が悪化し、術後死亡率も倍増する。看護師の多くが男性で、女性は少ない。また、女性のつける職業は看護師しかないのだが、貧困が著しい国であり家族を養うべき男性が優先になりがちで、なかなか女性が職につけない。

紛争地というと、青空の下やテントの中で手術などを行うというイメージを持つ人が多いかもしれないが、多くはちゃんとした建物の中で手術を行っている。ここでは外科病棟、産科、内科があった。しかし、みなが助かることができるわけではなく、来るまでに4時間かかった腹部に複数の銃弾をうけた男の子は、結局術後3日に亡くなった。また、若くして出産する女性が多く、緊急帝王切開のケースもある。帝王切開ができる外科医でないと、現地では活動できない。足に銃撃を受け、右足太もも皮一枚でつながって運ばれた女性患者はいったん切断し、数日後の切断端の形成手術をして落ち着いた。

そうしているうちに、近隣で活動していたNGOの韓国人が誘拐されたりと、外国人を狙った誘拐が多発するようになったため、緊急撤退することになった。その際、まわりにわからぬよう夜中のうちに準備して、朝大慌てで出発することになったのだが、当日の朝4時ごろ、地雷を受けて手がとんでしまった患者さんがきた。しかし緊急撤退せねばならず、とりあえず止血の応急処置のみして、その場は退去した。

イラク(2003年)
イラクでの大量破壊兵器疑惑に関して、国連安保理で毎週決議案が延ばされていた頃、MSFは早々にチームを組んで、2002年からベルギーのブリュッセルで準備を始めていた。戦争開始を想定しての最初に派遣するチームのメンバーの1人に選ばれ、2月からWMD(大量破壊兵器)対策・研修として、化学兵器に対する講習等を受け準備を手伝った。3月からはヨルダンのアンマンで後方支援を行ったが、4月に入って同僚2名が誘拐され、その後釈放されるという経過をたどった。当初はベルギーのチームだったが、途中からフランスが加わり、ミッションの初めの10日間はブリュッセル、フランス、アンマン、バグダッドの4地域でテレカンファレンスを行ったりした。
実際にイラクに入った後は、まずは貧民の多いサダムシティで活動する予定だったが、なかなか許可がおりず、事実上活動が開始できたのは戦争開始後であった。現地では、イラク人の医師の多くが国外に脱出した直後であり、麻酔や医療用の針がないなど、極端な医療機器不足の状況の中でバクダッドの同僚は24時間働き続けていた。私自身はアンマンで、どこから物資を調達すれば迅速かつ経済的かを調べたり、スタッフに精神的(PTSD)もしくは身体的になにか起きた場合、どこで受け入れられるかなどを調査した。

リベリア(2005年)
リベリアも同様の内戦があったところで、医療へのアクセスは非常に制限されていた首都モンロビアには、国内避難民が押し寄せており、山奥から首都の病院に人々が来る。山奥から化膿した足で歩いてくる間に、足を切断しなければならなくなる人などがいた。人々が密集して住んでいるためか、非常に子供のやけども多かった。朝手術のスケジュールを決めても、5件の予定が急に13件になったりというような状況で、その中で印象的だったのは、レイプあるいは望まない妊娠により、septic abortionといって妊婦が自分で中絶の処置をするために骨盤内の感染から腹膜炎に至ってしまうケースだった。もともと帝王切開など産婦人科手術も多く、重症腹膜炎では外科医が手伝う形が多かった。

スリランカ(2001年)
これまでスリランカへは2回赴任したが、2001年に初めて赴き、4ヶ月滞在した。長期化した紛争地域ということで、ノルウェーの和平交渉などもあり、その結果比較的安定したところであった。小児外科医であるため、本来ならそのまま見過ごされたか、あるいはコロンボまで搬送せざるを得なかった先天性横隔膜ヘルニアの新生児を、未熟児用infant warmerという機器を用いて手術を行うことができた。

インドネシア(2004年)
アチェへはスマトラ沖地震・津波の援助で入ったが、この地域には全く外科医がいない環境であった。外科の施設はあるのだが、首都ジャカルタから外科医が派遣されても、長く居続けることはない状況だった。なぜなら、首都からくる外科医には、当初数ヶ月は給料があがるというインセンティブがあるが、やがて手術してほしければ金を払うよう患者に要求するため、お金がない人は手術が受けられない。こうして患者は来なくなり、医師は首都へ戻ってしまう。これではいけないということで、MSFは外科のプロジェクトを始めたのだが、ICRC(赤十字国際委員会)が救急外科病院を現地で運営する計画もあったため、ハンドオーバーという形でMSFは撤退した。

スリランカ(2007年)
2007年、6年ぶり赴いたスリランカでは、かつて何も無かったところに、CTの機器や、内視鏡手術の設備が整い、脳外科医も常駐するまでになっていた。当時誰もいなかった外科医が、研修医も含めて12人の外科医が活動するまでに育っていた。今回は現地の病院の要請で外科チーム派遣となったのだが、調査の結果ニーズがないと判断して、MSFはオープンしないことにした。ところが一方、スリランカ北部では銃撃戦が激化したため、ポイントペドロやキリノッチという北部に拠点を移して活動している。この時の緊急手術のケースだが、16歳のLTTEの分派SLAの兵士だった少年が、逃げ出していたのが見つかり背後から撃たれて緊急手術になった例がある。このように、何も知らないでゲリラに加わってしまった少年達が、その後ゲリラの活動を知って逃げ出そうとしても、抜け出せないというのがchild soldierたちの実態である。

ナイジェリア(2007年)
通常1ヶ月に70~80人程度の手術を行う中、この年の8月のはじめ、一週間で70人の手術をするような銃撃戦が起こった。ほとんどは、足の切断や骨折といった症例のため、整形外科医を手伝う形での活動だった。しかしながら、整形外科医は開腹手術ができないため、銃で腹部や胸などを打たれた場合などは、私がそれらを担当した。また、現地の看護師たちは非常に優秀であった。

2) 紛争地あるいは紛争後地域での医療援助

MSFの活動方針及び計画
紛争が激化した地域での医療は、そこがどいいう状況で何が必要とされているかを把握しておくことが非常に重要だ。ミッションを始める前に、なぜ紛争がおこっているのが、どの地域が安全か、どんな部族がいるのか、国際社会はどういう援助をしようとしているのか、現地にどういうNGOがいるか、国連はどういう活動をしているか、協力している国はどこなのか等を把握することが重要だ。MSFでは、実際にミッションを開始するかなり前から、調査隊が現地に入って調査をする。MSFは、だれも行かないところに行くのをミッションにしている。誰も行かないが、ニーズがあるところに行くことに使命感を持っているのだ。しかしここ最近セキュリティー上の理由からこの方針を貫くのが難しい状況にあるのも事実である。イラクの国連職員が狙われたホテル爆破事件以降、UNやNGOなど国際的人道援助機関のスタッフはターゲットになりやすく、その運営に非常に苦労している。
もうひとつのMSFの特徴とは、ある程度現場の状況が落ち着いたら居座らないというのをモットーとしているということだ。そのために、現地の人材を育成し、その能力を向上させ、他のNGOに引き継ぐなどの形をとっている。限られた財源と人材で、一番必要なところに投資するため、このような対応になっているのだ。しかし、最近は紛争の激化や、食料不足による支援の長期化に従い、ミッション数が減少し、継続ミッションに投入する資金が増えていることも事実である。

紛争のタイプと医療援助(外科的医療援助が関与する場合)
過去のミッション体験から考えて、紛争には大まかに分けて4つのタイプに分類できる。①2国間の戦争、②内戦、③長期化した紛争、④隠された紛争(政府が隠蔽:例えばアチェなど)であり、それぞれのタイプに対応した医療援助が必要であると考える。

3) 最近の緊急医療援助がかかえる課題

人材育成
紛争地帯で医療を行う際に麻酔医の数が絶対的に足りない。ヨーローパでは麻酔ナースという資格があり、訓練を受けたナースが麻酔を取り扱うことが出来るため、そのシステムを紛争地帯でも適用すべきである。麻酔ナースを育てて、どんどん手術できるような体制をつくることが、こういう場所では必要である。

栄養面の支援
多くの紛争地で食糧不足からくる栄養失調が深刻である。いくら外科的治療など医療支援を行っても栄養面が欠けていては結局助からないという場合も多いので、栄養面へのアプローチは重要である。最近は、栄養価の高いplumpy nutsなどが開発されて効果をあげている。

支援スタッフの安全確保
NGOの支援スタッフが誘拐や殺害等危険にさらされるリスクが年々高まっているため、新たな対応が必要になっている。一つの例として、かつて医療援助を行っている団体などの移動用車両は白が基調であったが、簡単にターゲットになるので、これを避けて、MSFではピンクや青に塗り変えているところもある。

4) MSFと日本の現状

日本人のMSFへの関わり方
MSFは19カ国に支部(ゆるやかな連携)がある。フランス、ベルギー、オランダ、スイス、スペインがオペレーション(ミッションを組んで運用する仕事)をしている。現在60-70の国で年間約4千人のボランティアが活動している。うち日本人は50-60人程度。個人的には、より多くの人が参加することにより、日本の医療もかわるのではないかと思っているので、参加希望者をできるだけ支援している。世界全体では医療関係者が約60%、それ以外が40%なのだが、日本の特徴としては、医療関係が75%、その他が25%で、医療従事者以外の割合が他国に比べて低い。
なお、今年度新しくスタートした長崎大学大学院国際健康開発研究科では、このような地球規模での健康課題、特に開発途上国の保健医療問題の改善に貢献できる人材育成のため、公衆衛生学修士(MPH)を取得できるプログラムを実施している。

5) 個人としてのMSFとの関わり
紛争地域での医療活動は厳しいものであるが、なぜ8年間こういうことをできたかというと、次のような経験がある。本来は紛争による患者の手術しかしないのだが、あるとき膀胱結石の男の子を手術した。最後に撤退するときに、わざわざ空港に挨拶に来てくれてとても嬉しかった。紛争地という何もないところでやった医療行為で、患者さんから助かったことに感謝されるという気持ちが、こういった地域での医療活動を続ける支えになる。また、どんなに厳しい環境でも、美しい自然の姿に心を洗われることがある。

写真②

■2■ 女性NGOの視点とは

私自身は、女性であることにより、マイノリティや、ハンデのある人の気持ちが分かるというメリットがあると思っている。小児外科は先天的奇形を治療することが多い。術後もこのような患者は一生ハンデを抱えていきることになるため、母親は夫の離婚や浮気、義母のいじめなど、阻害されているケースも多い。そういう気持ちを理解しながら仕事をすることができる。

6) 日本の女性NGO

日本政府が国連に加盟してから50年間、毎年欠かさず女性NGOの代表者を国連総会に送り出しているが、これは非常に評価に値することだ。日本の中での女性が抱える問題と国際社会の中で女性が抱える問題は違うことも多いが、国際的な基準や考えの変化によって日本の状況が変わってきたという現実もあるので、日本以外の国や社会に暮らす女性の状況にもっと目を向けるべきである。

BPW(Business & Professional Women)とは?
女性の多様な働き方を促進する団体で、新しいテーマは”Power to make a difference”である。日本では、来年の法人化に伴い男性の会員参加も認めることを考えている。なぜなら、男性の働き方も変えていかないと、今や女性の働き方も変らないからである。また、様々な価値観を認めうる社会にする為にも、働く女性だけがメンバーではだめなのではないかと考えている。
加えて、自分だけのことに精一杯で、他の社会問題を考え、関わっていく人が少ない今だが、今後は、ワークライフバランスを考えていくことで、社会が活性化することを期待している。

BPWインターナショナル交流
1996年から外務省が支援をしてきた日本―中東女性交流プログラムがあり、これにBPWは大きく関与している。2006年に訪問したヨルダン、パレスチナ、エジプトでは、女性起業家育成セミナー、女児教育プログラム等を視察。エジプトでは女児の就学率が低い事に対応するためのプロジェクトの中で、女の子が早くに社会へ出て働いてもやっていけるようにという考えを組み込んだ柔軟な教育に驚いた。

7) 国連-人権と女性:第3委員会が取り扱う課題としての“女性”

Obstetric Fistulaと世界的キャンペーン
Obstetric Fistula(産科的ろう孔)とはアフリカに多い症状で、若年での強制結婚や出産で、産道が未成熟なために胎児が分娩時に長時間産道に留まり、膣壁を圧迫して胎児は死亡、女性は尿道や直腸と膣が繋がった状態となり、常時失禁状態になるもの。最近はよく知られるようになったFGM(女性器切除や膣を縫う習慣)でも、その程度によっては、尿道が全くわからず、カテーテルすら挿入できない場合もある。このような場合は、膣も狭くて産道を塞ぐ原因で、陣痛が起こっても児が進んでいかないことになる。つまり、基本的には妊娠・出産に関するケアやアクセスが不十分であることによるものが大きい。こうしてFistulaを患った女性は、社会的に葬られてしまうという現実問題がある。この問題には強制結婚等の社会的な背景が関与するため、世界的なFistula撲滅キャンペーンの一環として日本も「人間の安全保障基金」に支援を提供している。MSFも専門病院を作って対処をしているが、現在は現地でこの症状へ対応できる医者を育成するという方向へ活動をシフトしてきている。

8) 日本の女性NGOの現状

関心の低下とBPWの取り組み
日本では特に若年層において女性団体への関心低下が見られ、行き詰まりを感じる。BPWではUN-CSW(Commission on the Status of Women:国連女性の地位委員会)に毎年学生インターンを送り、彼女たちの成長を支援している。

国際社会の中での遅れ
日本は国際社会の中で、女性の多様な生き方を促進するための具体的な対策を講じるという点で、遅れをとっていると感じている。例えばドイツでは、男性への育児休暇を促進し、かつ託児所をふやして待機児童の数を減らす等の力強い動きが見られる。この点において、国際社会から日本が取り残されていくのではと懸念を抱いている。

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■3■ 最後に

NGOは国際社会と現地政府の観点からのギャップ、つまりそこからぬけ落ちてしまう人々の存在に対して、働きかける存在意義があると思う。例えば、WFPから配給されるカリフォルニア米を食べたスリランカの難民キャンプの住民が、みなお腹をこわしてしまうことがあった。理由は、炊飯設備が先進国と異なる環境で、燃料や炊飯方式が違うために、十分な加熱がないまま米を食して消化不良を起こすのである。このような国際機関の援助と現地の状況との間にあるギャップを埋められるのがNGOなのではないか。まだまだNGOができることがたくさんある。
また、国連・現地政府・NGOは各々に良い所、強み等があるが、誰が何をするのか、その上手なコーディネーションが必要である。この三者のパートナーシップがこれからもっと大切になると信じている。国連が一体、どれほど苦しい人々の助けになっているが疑問に思うこともあるが、それぞれのいいところ、悪いところをカバーしあうことにより、本当に苦しい人を助けられるのだと思う。

質疑応答

■Q■ 緊急医療援助現場におけるコーディネートについて、特にNGOと国連との連携について成功例、失敗例は?

■A■ フィールドで国連がいるという実感がないため、成功例、失敗例を考えるのは難しいが、MSFが赴く地域は、子供への暴力や水の配給など問題が多いため、UNICEF、WFPと共に働くことはしばしばある。

■Q■ 緊急援助におけるクラスターアプローチについて、現場で機能していたか? ?(クラスターアプローチ:人道・緊急支援などにおいて、各機関の役割をセクターごとに明確化することで、アカウンタビリティーと透明性を高め、より効果的な支援を目指そうとするやり方)

■A■ 答えるのが難しい質問だが、例えばイラクではNGOが山のように集まっていたので、OCHA(国連人道問題調整局)が常にコーディネートを行っていた。栄養、トランスポーテーション、ロジスティックスなどに分かれていて、その都度必要なスタッフが参加するという形で活用していた。

■Q■ NGOからみて国連に期待する役割とは?

■A■ 国連に期待することを考えるのは難しいが、紛争現場等での現地セキュリティーがいまNGOでは重大な問題なので、国連の責任ではないのかもしれないが、そのような事項を取り扱うオフィスを国連内に設立できないか。国連本部は権力者の集まりなので多大な期待はしていないが、関係諸機関と各国にいる調整官には期待をしている。時折各政府から、プロジェクトやリポートにおいてNGOからの情報を使用したことで不満があがることがあるが、国連は自信を持ってNGOと働いていることを主張してほしい。NGOがもっと信頼されれば、困っている人々にもっと力が届くと思う。

■Q■ どのような基準、意思決定で緊急撤退等の決断をおこなうのか?

■A■ ケースバイケースである。基本的にはフィールドが判断をおこなうが、仕組みとしてはフィールド、オペレーションデスク、ヘッドクォーターの協議となっている。往々にしてヘッドクォーターが撤退を決め、フィールドがそれに反対するということが多い。また、MSFは紛争状態の中でどの勢力に対しても中立を信条としている為、一般市民のみならず兵士も助ける。しかしこの考え方が現地で信用されなかったり、またこの中立関係を利用されることもある。地元有力者への根回しなどがミッション遂行には重要であり、これが上手くいかない場合ミッションを行わないこともある。場合によってはテストで数人派遣して様子をみてから本ミッションを始めることもある。なお最近は地元の国連関係機関で勤務経験のある現地の人を雇うことが増えていて、そういった人からの情報をもとに動きを決めたり、判断を下すことも増えてきている。

■Q■ 現地スタッフのキャパシティビルディングについて。また地元政府へのキャパシティービルディングは行っているのか?

■A■ 場所によって様々である。スリランカでは現地外科医がいなかったが麻酔医はいたため、手術室の看護師に対する指導を重点的に行った。ナイジェリアでは、毎週火曜の7時半から勉強会を開催した。インドネシアのアチェでは、賃金が少ないため看護婦が治療の際患者にお金を要求する現実があったので、給料をあげるというインセンティブを出したところ、外科病棟勤務希望者が増えたということもあった。様々な所属の人が混じっている場合、MSFが企画してそれぞれに対してトレーニングを行うこともあれば、現地スタッフ達が自ら計画しMSFがサポートに回る場合もある。MSFが雇用しているスタッフだけのところの方がやり易いことは確かだが、基本的に敵を作らないように所属がMSFであるかないかに関わらず、関係する人々皆にトレーニグを行うようにしている。

■Q■ ポストコンフリクトでのミッションで上手く行った例及び支援の中で足りないと感じたことは何か?

■A■ ポストコンフリクトの状態によって、栄養が足りないのか、感染症が多いのが、事故が多いのか、医師が足りないのか、など状況は変ってくる。プランをたてどこまで資金を使うかはケースバイケースだ。現在はICRC(赤十字国際委員会)のように、ポストコンフリクト地域に長くいる団体が多いので、ハンドオーバーしている傾向にある。

■Q■ 今後MSF組織として強化したいと考えている分野及び方向性はなにか? またそれに関する黒崎先生の個人的な意見について。

■A■ 24時間以内に必要なものをもっていけるというMSFの強みを生かし、自然災害時におけるMSFの活躍を促進できないかと思っている。またさらにMSFは現在手術室キットを持ってフレキシブルに対応できるようになったが、政府からの許可がなかなか下りず対応しきれなかった例などがあるので、その点を改善すべきだ。(ミャンマーでは政府の許可がなかなか下りなかったため対応しきれず、患者が感染症などで死亡することが多かった。)なお、発生する避難民へ対応できる人材確保及び栄養の確保も重要だ。

また、アドボカシー、すなわち人に知らせることも重視している活動の一つだが、レポートの提出により活動国から追い出されたり、捕まったりする原因になっているのも事実なので対応が必要だ。(過去にはスーダンでレイプ被害者に関するレポートを報じたスタッフがつかまった。)

さらに、結核への対応及び結核とエイズ併発への対応・研究も必要だ。最近は薬が効かない菌(多剤耐性菌)が増えている。しかしながら、薬を開発する先進国の製薬会社は、先進国で高く売れる薬しか作らないため、感染症などの熱帯での病気に対する新薬が1年で一つ、二つか出ない。これは国連期待する役割のひとつだが、率先してこのような途上国で需要がある薬を開発・製造できるようにしてほしい。

■聴衆からのコメント

淡々と語られていたが、自分の生命が危険にさらされる中で、人の命を助ける活動に敬意を表したい。また、その経験を政策レベルへと上げている点が素晴らしい。
紛争地での援助では、病院内での安全、そしてどこまで行ってどこで撤退するかという判断が大きな課題。ユニセフやWFPも現地へアクセスできず、NGOからの情報に頼っている状態である。しかしながら、国連やバイラテラルドナーにしかできないことも同時にあると思う。達成したい目標という点では、みな一致するものがあるのではないか。関係者が構造的な障壁をのり越え協力することが将来必要となるのではないだろうか。

2002年くらいから、人間の安全保障ではFistulaへの支援を行っている。古いプロジェクトだが、男性の行動を変えるという視点は入っていなかった。これは単に保健の問題だけではない。今いる患者を治しても、社会全体を変えないかぎり、根本的な解決になはならない。よって、男性側がかわらなければ、社会は変わらないと思う。自分を含め、常に考えるべき問題であると思う。

■黒崎先生のコメント

先進国では、内視鏡手術の普及により、将来的に開腹手術ができる医師が減ってくるのではないかと危惧している。医師の目から見た医療援助という観点において、これからの日本で外科手術、開腹手術、帝王切開など外科医として何でもオールラウンドに一通り出来る人物をどうやって育てられるかが課題だと考えている。こういった後継者の育成も、自分の課題だと思っている。
また、DNDI(ニグレクトディズイーズ)などへの関心を高めることにも力を入れたいと思っている。
最後に、(株)CHINTAIがCSRとして行っているチンタイクリック募金が先週2千万円を超えたので、皆さんもどうぞ興味があったらクリックしてみて下さい!(株式会社CHINTAIが、クリック1回につき1円をMSFに寄付する取り組み)

議事録担当:鈴木(三)
ウェブ掲載:菅野