ミャンマー・スタディ・プログラム - 報告書「3.4. カチン州」
3.4.1. カチン州地域概略
地図
地理
ミャンマー北方に位置し、中国と国境を接する。訪問したのは州都ミッチーナーと川を隔てたところにあるワイモウという町。なお、ミッチーナーとは「大きな川のほとり」という意味。
歴史
第二次世界大戦中は日本国の駐留地点でもあり、戦没者の供養として長さ30メートルほどの巨大な寝仏が建立されている他、慰霊碑も設置された。また、日本軍による慰安所も設けられていたとの事で、戦争による残虐行為並びに悪影響の大きさを考えさせられる訪問地であった。
地域の独特なポイント
仏教徒の多い同国内では珍しく、キリスト教徒が多い。シャン州同様、麻薬の栽培が盛んとされており、また中国国境付近は反政府軍(カチン独立軍:Kachin Independent Army、KIA)支配地域が存在する。KIAは1948年の発足後、同地域の独立を求めて政府軍と断続的な戦闘状態にある。近年では2013年6月に政府との和平合意がなされたが、訪問直前の2014年11月にも政府軍によるKIAへの「誤爆」事件が起こるなど、紛争の永続的な解決には程遠い状況といえる。また、同州の生産物としてはヒスイも非常に有名である。
3.4.2. UNHCR
- 日時:2014年11月25日~27日
- 場所:UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)ミチナ事務所
- 担当者名、所属:金子事務所長、Paul Mikiさん(Field Associate)他多数
ブリーフィング内容
国内避難民(IDP) キャンプ訪問前にセキュリティ・ブリーフィング、翌日、キャンプ訪問後に金子氏より再ブリーフィングを受けた。
- セキュリティ・ブリーフィング
- 地図をもとに、カチン州に存在するIDPキャンプ一覧を見せて頂く。地域によって非常に緊張状態が高い場所もある。中国国境地域においては、通行不可のために中国国内を迂回して訪問しているキャンプもある。数日前にライザで衝突があった。我々が訪問する、ミチナ市周辺のキャンプは比較的安定状態の場所であるとのこと。
- 再ブリーフィング(質疑応答)
- 情報へのアクセスについて(キャンプ内でPCが使われていた事からの質問)
- ミチナでは携帯のキャリアが3つあり、中国付近では中国のキャリアも発達しており、情報へのアクセシビリティが無くはない。ノルウェイや中央アジアの会社の参入もあってSIMカードも$100程だったのが月に$50~$60程度に安くなった。寧ろ情報の氾濫の方が課題となっている。例えば、2012年に約10万人のIDPが住むラカインで、民族間での焼き打ちがあったかのようなデマが流れた。
- IDPキャンプと周辺コミュニティ間の軋轢が生じないのか?
- 確かに、周辺地域も豊かではないのにキャンプ内の避難民だけ支援を受けている状態にある。キャンプ内での盗難が起こったこともある。しかし、元々地域に受け入れの状況があってキャンプが成り立っている。教会等の場所を提供してくれる組織もあるし、現地の人々とは言葉も同じである。移住当初は同情や彼らの置かれた状況を鑑みれば仕方がない事から周辺の理解も得やすいが、3年程も経つと確かに周辺地域も貧しい中でキャンプ内の避難民のみを対象として支援をしていることへの不満はでてくる。そこで、”Peaceful co-existing”の考えに基づきIDPキャンプ周辺の公共施設を充実させる事により、キャンプを受け入れている周辺地域も支援対象とする試みも始まっている。
- 雇用について(キャンプ内で琥珀の産業もあれば、暇を持て余している様な人もいた事から)
- 周辺住民の賃金が大体5,000kyat/day(約500円)であるのに対し避難民は2,000kyat/day(約200円)程である。継続的雇用が難しい(避難民という立場も、継続的な雇用とは相反する)ことから、安くても仕事を受けてしまっている現実がある。また成年女子の雇用は更に難しく、中国と国境を接するキャンプでは、人身売買の問題があるとも報告されている。キャンプ内で女性組織を組成し、Community Based Protection Projectとして職業訓練を行ったりもしている。
- 民主化と活動環境について
- 今までは政府が国際社会からの援助を受け入れていなかった。今は、制約はあるが活動ができている。滞在許可は半年ごと、ミチナでの活動は毎月の許可申請が必要である。ラカインでのロヒンギャに対する援助は止められてしまう場合も多くある。州の政府がOKを出したとしても、軍司令官からの圧力が強い。国境付近の非政府地域での人道支援活動について、10月~12月の州政府からの許可は出たが、現在のところ実施できていない。
- IDPの国内避難はどのように始まったのか?
- 紛争が起こり、田畑へのアクセス・市場へのアクセスが遮断された人々が安心できる所へ避難し、援助として設立されたキャンプへ居住する事となった。そもそも、当該地域の人々は日本軍の侵攻を受けた大戦後に何度も移動を繰り返している(カチンでは、第二次世界大戦は”Japan War”と呼ばれている)。現在も、避難民は時々自分の元住んでいた地域に帰り田畑の確認などをしている。
- 情報へのアクセスについて(キャンプ内でPCが使われていた事からの質問)
参加者の声①
訪問以前には、UNHCRに関して、映像や文書を通して得た国連機関の1つとしての漠然としたイメージしか持っていなかった。しかし、実際にキャンプで暮らしている方々や、職員として働いている方々と出会い、一人ひとりの顔や声を思い浮かべてUNHCRをイメージできるようになった。訪問を通して目にしたことの中では、IDPの方たちのなかに、鉱物の加工業をはじめとする新たな職により生計を支えたり、GBVや災害などの課題に関する委員会をIDPの内部で設置し、問題の克服を試みたりという動きがあるということが印象的だった。また、IDPの方々との質疑応答のセッションのなかで、日本国内で行われている災害対策に関する質問が挙げられたことなどからも、能動的に自分たちの生活をより良くしていこうというIDPの方々の姿勢を強く感じた。ただ、今回の訪問では、UNHCRの現地職員の方とともにキャンプの訪問を行ったが、UNHCR職員のいない場面ではIDPの方々の様子に多少の違いがあるということも考えられるため、そうした場面での彼らの様子も知りたいと思った。また、避難先での支援を行うことは、人びとに避難せざるを得ない状況を強いている諸問題への根本的な解決にはならないという点において、IDPへの支援の限界に、もどかしさも感じた。そして、IDPの方々の今後の生活に関して考えると、UNHCRの活動の引き際について、どこまでがUNHCRの活動し続けるべき範囲であるのかということの線引きが非常に難しいということも感じた。さらに、支援の体制に関して、諸NGOや現地機関との協力関係が支援の基盤となっているというカチンでの支援の特徴は、私にとって新しい発見であった。訪問後のさらなる関心としては、ミャンマー内外のIDPキャンプ(あるいは難民キャンプ)における各種の人身売買の問題の現状がどのようなものであるかということを、その背景も含めてより詳細に知りたいと思った。
最後に、実際にUNHCR職員として働く方々やIDPの方々と出会い、そのお仕事や生活のリアリティに触れさせていただいたことにより、将来自分がどのようなフィールドでどのような学問・仕事をするとしても、決して忘れること無く顔を思い浮かべることのできる人びとができたということが、今回の訪問によって得ることができた何より尊いことがらであったと思う。そうした人びとは、今後私たちがあらゆる課題に直面し、さまざまな判断を下さなければならない時に、なんらかの進むべき方向性を示してくれるような、道を見失いそうな時にも、始めに志したところへ立ち返らせてくれるような存在として、すでに私たちの人生の一部となっているのである。
参加者の声②
現地渡航で一番印象に残っているのは、UNHCRが支援するカチン州のIDPキャンプを訪問したことです。国内なのに難民??と最初は僕も思っていましたが、カチン州では少数民族のカチン族の人々が二年前に発生した独立紛争の影響で故郷を追われ、同じミャンマー国内に滞在していても避難民としてキャンプ生活をおくっているのです。
キャンプ内ではIDPの方々が私達のことを暖かく迎えてくださりました。笑顔で挨拶を返してくれる子供達や、自分が作ったアクセサリーを嬉しそうに見せてくれるおばさんたち、コミュニティのことを熱心に私達に説明してくださるキャンプのリーダー。IDPキャンプで出会った方々が日本から来た私達に興味を持ってくださり、日々の生活の様子や日本のことなどをたくさん話しこむことができました。
キャンプ内では、国際機関やNGOからの支援をもとに、アクセサリーや洋服作りなどの産業、井戸やトイレなどの水回り、小学校や幼稚園などの教育機関、リーダーや食料配給担当などのキャンプ内運営組織が整えられていて、想像していたよりも充実した環境が整っていました。なかでも教育機関がしっかりとしていて、外部の学校に行くこともあるが、高等教育への進学支援も進んでいるなど、将来のコミュニティの担い手がキャンプ内で育ちつつある様子に希望を持ちました。
しかし、いまだにコミュニティ全体が故郷に戻れるような状況ではなく、紛争はなかなか終わる気配がありません。もし援助が続かなければ彼らの生活が困窮してしまうかもしれませんが、一方で援助によって援助依存体制という問題が出てきたり、キャンプ周辺の地域経済と根付くことで、もとの故郷に戻れなくなってしまったりするかもしれません。そんなジレンマと葛藤しながら日々、IDPの方々のために奔走していらっしゃるUNHCRスタッフの方々の姿が印象的でした。