パプアニューギニア・スタディ・プログラム - 報告書「渡航中:独立記念日」
Papua New Guinea Independence Day & Festival
集合写真
パプアニューギニア独立の背景
15世紀にポルトガル、スペインを中心に欧州の航海者が上陸した記録があるが、そのころの統治形態について詳しくは知られていない。1884年に北半分がドイツにより占領され、ドイツ領ニューギニアとなった。その後第一次世界大戦を経てオーストラリアによる統治に取って代わられた。
一方南半分は当初イギリス領、1901年にオーストラリア領パプアとして、厳密にはニューギニア地域とは別個に統治されていたが、1906年、ニューギニアと前後してオーストラリアの統治下に置かれた。ちなみに、「パプア」の言葉の由来は、ポルトガルの航海者により名付けられたもので、マレー語で「縮れ毛」を示すという。
第二次大戦下の1941年に日本軍によるポートモレスビー進駐が行われ、それまでパプア法のもとに行われた民政は一度断絶。両者は第二次世界大戦後に統合され、パプアニューギニアとなった。国連の信託統治領としてオーストラリアの統治下に置かれた。
その後は1960年代には自治政府による選挙、国家などの制定がなされ、1975年9月16日には正式に独立が宣言された。
国土西部は1949-61年までオランダ領西パプア共和国となった1961年にインドネシアの侵攻を受けた結果、西パプア共和国は半ば強制的にインドネシアの一州となったが、現在でもインドネシアからの独立を目指す動きもある。
上記のように、列強から分割で次々と支配を受けたパプアニューギニアは、60年代に自治議会選挙が発足、国政運営がなされてきたものの、国家権力が及ばない地域では、部族闘争が続く地域もある。
独立記念日
我々は9月16日、つまり独立記念日の当日に現地入りしたが、すでに空港には民族衣装、またはパプアの国旗のデザインされた服をまとった人であふれ、ラバウルへの移動の際には帰郷するパプア人も見られた。
独立日には多くの政府組織や学校、商用施設は閉まり、黒、赤、金で構成された国旗が掲揚され、3色をあしらった装飾品があふれた(写真1)。地方により祝い方は異なるが、ポートモレスビーにて話した現地の人によれば、ポートモレスビーでは花火が打ちあがり、前後1週間程度が連休となり、都市の人は出身地域に帰省して家族、親戚で祝ったりするのだそうだ。
写真1:三色が使われた帽子と首飾り。セトルメント訪問時
ポートモレスビーの他に滞在したラバウルでは、マーケットの隣の広場にて、独立記念日に合わせて部族ごとの踊りが披露された(写真2)。ラバウルには大きく分けてTolai、Bainingの二つの民族があるが、同民族内でも男性の踊り、女性の踊りなど幾つかの舞踊がある。舞踊のために天然の動植物から作られた衣装は、貴重なものであり購入は容易ではなく、代々継承されていくそうである。
写真2:独立記念日当日にラバウルにて披露されたダンス
参加者所感
まず、想定していたよりも国への帰属意識が大きいと感じられた。
上記に示したように、パプアニューギニアは多数の部族による局所的な統治の歴史が長く、現在でもハイランドを中心に旧来の部族による闘争が絶えない地域もある。しかし、ラバウルの村でお世話になった方やポートモレスビーのスラム街(セトルメントと呼ばれる)で話を聞いた方によれば、一部で部族間争いが続いているものの、宗主国から独立を勝ち取った同志として、言葉や文化は異なっても結束意識はあるということを伺った。
特に都市では、諸外国によるインフラ企業の流入などもあり資本経済化が進んでいるが、現代的な生活を送りながらも、衣装やダンスなど伝統的なものを後世へ引き継いでいくという意思を感じた。
<参考文献>