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スリランカでのNGOを通した社会活動


エシャンタ・アーリヤダーサさん

社会福祉活動家、非営利活動法人スプートニク代表


「国際仕事人に聞く」第22回では日本、ニュージーランドそしてオーストラリアの留学経験と幅広い専門知識を活かし、出身のスリランカにて社会福祉活動に従事し、国際交流や教育を支援するNGOスプートニクを立ち上げたエシャンタ・アーリヤダーサさんから多方面にわたるご自身の活動について、スリランカのNGOの認識とそれに対する取り組み、国際仕事人像についてお話を伺いました。精力的に活動されているアーリヤダーサさんのお話をぜひお読みください。(2016年12月17日 於オーストラリア)


エシャンタ・アーリヤダーサ
スリランカ生まれ。モロトワ大学建築学部卒(スリランカ)。2000年東京学芸大学大学院教育学研究科修士課程修了。2016年フリンダース大学大学院(オーストラリア)にて博士号取得。日本人との交流は高校時代のニュージーランド留学時に始まる。日本滞在時は2年間、納豆工場で技能研修、その後2年間、修士課程へ在籍した。修士取得後、スリランカに帰国し、日本人の同志の協力を得て、学校法人スプートニクス国際教育学院および非営利活動法人スプートニク・インターナショナル・スリランカを創設。学校法人では主に日本語教育と異文化交流プログラム、非営利団体法人では女子児童養護施設「スプートニク・ガールズホーム」の運営を含む社会福祉活動に取り組む。


アーリヤダーサさんが社会福祉活動に携わることになったきっかけを教えてください。

ニュージーランドと日本への留学経験を通してずっとあたためていた「学校をつくる」という夢を図書館という形で実現したのがきっかけです。1988年、スリランカで大学に入学したものの、1か月後に学生運動で大学が閉鎖され、最初に就いた仕事が地方の村の学校の英語教師で、当時の楽しみは子どもの頃から本が好きだったので、給料が入ったら本を2、3冊買うことでした。読書好きな母親にも本を買ってあげたため、家の蔵書がどんどん増えていきました。その後、1回目の日本留学時に日本からも本を寄付していただけるようになりました。また日本人の協力で場所を提供してもらえることになり、私の蔵書約700冊ほどを活かして、周囲の人々との関係づくりも考慮し、会員制度の図書館運営を始めました。これが教育に力をいれているということで地域の人たちに好評で、皆と仲良くなることができ、半年後に学校創設の準備を始めることができました。日本から持ち帰った本も日本からの寄付本も絵本が多く、スリランカ人の子どもたちでも楽しめるものでした。私は都市部の設備が優れた学校で教育を受けましたが、英語教師として赴任した地方の学校は、それと比べて設備が劣っていました。それでスリランカ国内での地域による教育の格差を感じ、その経験が教育に力をいれようと決心させてくれたように思います。

夢を持つことになった留学経験について詳しく教えてください。

高校時代に、AFSという奨学金制度に応募して、ニュージーランドに1年間留学しました。この留学経験で英語が話せるようになり、教員になるための試験に合格することができました。また、ニュージーランドではオリエンテーションで卓球を一緒にした時から日本人の友人たちと仲良くなりました。この日本人の友人たちが後に私の社会福祉活動を支援してくれることになります。また、ニュージーランド留学中卓球だけではなく、バスケットボールや空手を通じて多くの国の友だちと仲良くなった経験から、言葉とスポーツは世界平和に繋がると感じ、いつか外国語とスポーツの学校をスリランカに建てるという夢を抱きました。

日本に初めて行ったのは1990年から2年間、納豆工場の研修生としてでした。留学の話の前に、まず日本と結びついたきっかけですが、私は幼い頃から日本に憧れていて、日本の人、国、そしてスポーツなかでも空手が好きで、いつか日本で空手の段を取りたいという思いがありました。また、AFS同期のヒロミチオオノ君にあいうえおの本を送ってもらえるよう頼んだら、ひらがなとカタカナの一覧表が送られてきたんです。日本語といえば漢字と思っていましたが、見た目がシンハラ語に似ていておもしろいと思い、自らひらがなの読み書きの勉強を始めました。ひらがなとカタカナの違いもわからないまま、音と文字を結びつけてシンハラ語の音を日本語で書いていました。しかしいくら独学で勉強しても頭に入らないので、子どもに英語を教える時にあえてひらがなとカタカナも一緒に教えてみたりしていました。大学再開を待ちながら英語教師をし、日本語を独学している間に2年が過ぎました。そのころ、新聞の広告欄にスリランカから4人を日本に送るという募集記事を発見しました。その応募資格は、大学受験合格者および日本語話者。当時私は日本語が話せませんでしたが、シンハラ語を日本語で書くという力を信じて、応募したら書類が通り、首都コロンボでの面接へ出掛けました。当時スリランカにはコロンボに1校だけ日本語学校があり、80数名の応募者全員、日本語を学んだ経歴がありました。面接では面接官と通訳者が私に、日本語で質問しました。分からないので通訳をしていただきましたが、日本語ができないのになぜ申し込みしたのかを聞かれたので、できます、ひらがなとカタカナを書くことができますと答えました。名前を日本語で書いてみてと言われ、書いてみせると、どうやって学んだかを聞かれ、独学だと答えました。無事1次面接を通過し、2次面接も通り、4人中の1人に選ばれました。日本では神奈川県伊勢原市の工場で4人で一緒に住みながら、大豆の納豆や豆腐の作り方などを学び、研究もしながら2年間を過ごしました。この2年間、空手宿に通ったりママさん卓球クラブに入って練習し大会に出たり、日本人に英語やシンハラ語を教えたりしながら数多くの友達ができました。スポーツと言葉を通した大変充実した日々を過ごすことができました。物は何でも何回も使用するというスリランカの文化と異なり、日本で様々な物が捨てられているのを見て驚きましたが、学校をつくるというアイデアがあったので、捨てられていた本を集めてスリランカに送ることもしました。

1回目の留学後、いったんスリランカに帰って、大学に戻って建築を学びました。大学に通っている間にそれまで取得した技術を活かすことにも努力しました。それは、大学に空手を紹介しコーチすること、スリランカ北西部に卓球を紹介し連盟を設置すること、また、母校に日本語を紹介し教えること等です。

当時のスリランカでは、空手は危ない、争いのスポーツという一般的な認識があり、大学では空手がスポーツとして認められなかった時代でした。そのなかで、4年間ボランティアとしてコーチングしたり日本から空手の先生を呼びトレーニングをさせたり大会を行ったりしました。その結果、まず大学の母校、それから他大学でも空手が大学のスポーツとして認められることになりました。90年代は私が生まれた北西部には卓球はスポーツとして全く存在しなかった時代でした。まず、友人6人と卓球クラブを設置し、実家の角に立てたホールに手作りのテーブル台を置き、練習したり、大会も開催しました。5、6人のメンバー数は何十人にもなりました。その結果、北西部地方卓球連盟をつくるきっかけとなりそれからあらゆる学校で卓球クラブが始めまられました。連盟のメンバーがボランティアでコーチングを行いました。現在スリランカでは、卓球は他のスポーツと負けないくらい大変盛んなスポーツとして広がっています。

大学卒業1年後、日本語を磨きたいという思いを抱き、日本の空手道場の先生からの資金サポートを得て、日本の日本語学校に留学しました。新聞配達をしたり、日本人に英語を教えたりして睡眠時間は3時間あればいいほどでした。スポーツに関する修士を取りたいと思い、大学院を受験して合格、2つの奨学金を受けたり空手を教えたりしながら、主に本など、学校をつくる夢の実現に必要なものを集めてスリランカに送りました。本は日本の図書館に問い合わせたり、友人に声をかけたりして集めました。スリランカへの送料となる1冊あたり10円〜20円の寄付をつけてもらえるようにお願いしました。

日本での修士課程が外国で勉強する最後の機会になるのではないかと思っていた中、これまでのニュージーランド、日本での留学でお世話になった人たちとの繋がりを継続するためにはどうするべきかということを考え始めました。その結果出てきたのが日本の人たちに長く滞在してもらえるような場所をスリランカにつくるという案です。その場所づくりと学校をつくる夢を実現するための母体として立ち上げたのが、スプートニクという非営利活動法人です。この活動のために必要な資金集めに力を貸してくれたのが、ニュージーランド時代に知り合ったアキサワジュンコさん始めとする日本人の友人たちです。自ら日本で働いて貯めた貯金と、その友人たちの寄付で資金が集まりました。

最初に始められた社会福祉活動について教えてください。

日本の大学院を修了しスリランカに戻る直前の2000年、日本の友人に学校を設立することと社会福祉団体を設置するという私の夢を語りました。皆さんの協力と約束の元スリランカに戻り、はじめに冒頭で触れたように、図書室の運営から始めました。日本から絵本を送っていただき、その本を多くの学校に寄付する活動をしました。私のホームタウンのクルネーガラだけでなく、スリランカ国内のコロンボ、アヌラーダプラ、キャンディ等、様々な地域に寄付をしました。こうした福祉活動をしていることを学校法人の年次報告書に書いたところ、役所の方から「それは売っているのか、それとも寄付しているのか」と聞かれました。「寄付しています」と答えたところ、「寄付をするのなら、それは社会福祉活動。社会福祉活動をおこなうのなら、NGOとして登録しなければならない」と言われました。私自身も周りの人もNGOに対して悪いイメージがあったので、もともとはNGOという名前を付けたくなかったのです。後述の内戦に加担しているという悪いイメージから、NGOは金儲けの団体という印象をスリランカ国内では持たれていました。実際に、ファンドレイジングで集まったお金の9割を懐に入れて、残りの1割を社会福祉活動に使っている団体もありました。そうした事実を知ってはいたものの、図書室の活動を続けるにはNGOとして登録しなければなりませんでした。そこで、非営利活動法人スプートニク・インターナショナル・スリランカ(以下、スプートニク・スリランカ)(※語句説明1)という団体で活動を開始しました。そのときは、知人からも「おおー、エシャンタがNGOやってるぞ。大丈夫か」と言われました。

NGOにまつわる問題についてお聞かせください。

問題はあふれるほどたくさんあります。まずNGOという言葉自体が問題ですね。スリランカで社会福祉活動を行いたい場合は必ずNGOとして登録をします。しかし、NGOとして登録をすると周囲から嫌な目で見られてしまうのです。あまり話したくない話ですが、スリランカは民族間の軋轢がきっかけで25年間におよぶ内戦があり、争い自体は決して珍しいことではないのです。1505年にポルトガルの植民地になる前まで、スリランカ人同士の戦いは何度も起こりました。植民地時代には、スリランカ人とポルトガルとオランダの争いや、オランダとイギリスの争いもありました。したがって、25年続いた内戦(※語句説明2)は、スリランカ人から見て決して新しいことではありません。内戦中、特に国際NGOが国に入ってきて、良いことと悪いこと両方していました。その結果、良いNGOまで悪く見られるようになってしまったのです。最初のうちは、NGOは何か良いことをするために活動することが当たり前でしたが、内戦中はたくさんの資金を得る目的でNGOを作り、外国からの資金で武器を買ったり、テロリストを支援するNGOも現れました。そうしたNGOは政府の数倍の資金力があり、スリランカ政府は大変な苦労をしました。反政府軍側が武器を買うために、麻薬等を海外で売り、そのお金をスリランカに入れるのに、スリランカでボランティア活動や発展活動、言ってしまえば開発という名目で作ったスリランカのNGOを通して送金していた例が幾つもあったのです。内戦終了後の2009年、NGOの登録先が2003年以降社会福祉省の管轄から防衛省管轄となりましたが、政府も民間人も内戦中の活動を思い出し、NGOに悪い印象を持っているのが現実です。最初からNGOが悪いという印象があったので、社会福祉活動をしているといっても、「NGOだから何か悪いことをしているのではないか」という風に、外からは見られてしまいました。

具体的にどのようにNGOに対するイメージを改善していこうとしているのですか。

周囲からの悪い噂を気にせず、自らきちんと活動するということです。活動をしていくうちに悪い噂は、自然となくなりました。例えば、匿名で手紙が来たことがありました。私が学校を始めてから、多くの日本人が出入りするようになり、外国人が出入りをしているということで、スプートニクにはたくさんお金が入っているのではないのかというイメージが地域の人についていきました。図書室を通じて、スピーチコンテストや一番本を読んだ子に賞をあげるプロジェクトをしていたんですが、外から見ると、「もっと価値のある賞をあげられるのではないのか」と思われていたようです。ここは日本人を含めこんなに多くの外国人が出入りしていて本当はお金がたくさんあるが、そのお金はエシャンタかその団体がポケットに入れて、ごく一部のみを賞に使っているのではないのかという噂があったということが、ある図書室の会員の親からの手紙で判明しました。そこで、会員だった子の申込書と手紙の筆跡を見比べて、どの子の親なのかを特定し、その親を呼んで、「どうぞ、調べてください」と言いました。会計報告書や役所の方が行った監査の結果も見せて、納得してもらいました。そもそもそこまでして証明する必要はないかもしれませんが、こうしたことにもきちんと対応をすることにより、いつの間にか悪いことをしている団体ではないと社会に認識されるようになりました。一番大切にしているのは、NGOに良い印象を持っていただくという意識を持ち業務にあたることですね。

現在取り組まれている社会福祉活動について教えてください。

社会福祉活動としておこなっていることは、4つあります。まずは先述の図書室の開放。2つ目は、奨学金制度です。私たちの団体の近くには学校が3校あり、裕福ではない子も通う学校で、苦労して勉強している学生が多くいます。その中から、7名の学生から始め、今現在約30名に500ルピーずつ(日本円にすると約400円)を日本からの寄付で授与しています。400円というと驚かれるかと思いますが、それでも子どもたちにとっては大きな額です。

3つ目は、「外国人が先生」という教育プログラムです。修士課程で日本にいた頃、「留学生が先生」という当時の文部省が支援する教育プログラムに先生として参加しました。1998、1999年は日本では不登校や中学生の自殺が大きな問題になっており、日本の子どもたちに夢がない時代と言われていました。あなたの夢は何ですかと聞いても「別に」という。そこで、夢があって日本に来る留学生を通して、日本の子どもたちにも夢を持ってもらおうという趣旨のプログラムをおこないました。私は2年で54校の授業を担当しました。本当に楽しい授業でした。まずシンハラ語で話すと、生徒に「うわー、なにー」と言われ、次に英語で話すと、「わかんなーい」と、そして、最後に日本語で話すと、「えー、どうやってできるようになったの」と聞かれました。それは、もちろん「夢があったから」と伝えました。自慢話ですが、2年後に日本教育映像協会から最優秀先生賞を獲得しました。これはスリランカでも続けたいと思っており、日本の文部省の方にお願いしたところ、教育プログラムへ日本人の紹介や金銭面の援助をしていただくこととなりました。日本人にスリランカの学校を紹介、生花、書道、茶道、武道、折り紙など、特技を披露していただきました。

最後の4つ目は、現在一番力を入れている児童養護施設の運営です。それが出来上がるまでの話ですが、図書室の会員になった子どもたちで作った「子ども会」を通して、ゴミの仕分けなどの清掃活動をしていました。その会で、子ども向けの絵本を出版しようという話になり、話し合いました。参加していたある子どもから売り上げのお金で何をするのかという質問を受けたのがきっかけで、考えた結果、児童養護施設「ガールズホーム」設立につながりました。もともとは老人ホーム、ガールズホーム、ボーイズホームという選択肢がありました。老人ホームは、親は家族で面倒を見る文化が普及しているスリランカではやめておこうということになりました。そうなると、ボーイズかガールズホームのどちらにするかとなりました。役所の方に話を聞くと、クルネーガラにはボーイズホームはいらないと言われました。ボーイズホームは24施設ある中、空きがある状態というのが理由でした。しかし、ガールズホームは13施設しかなく、88人が待機状態とも言われました。はじめはガールズホーム運営は難しいのではないかと思ったのが本音です。なぜなら、私はボーイスカウトをしていたとき、ボーイズホームを何度も訪問していたので、ボーイズホームの運営は想像ができたのですが、ガールズホームは想像ができなかったからです。しかしこのような状況から、ガールズホーム運営に決めました。そこでも、友好のあった日本の方々に大変お世話になりました。スプートニク・ジャパン理事アキサワジュンコさん始めとする皆様が協力してくれることになりました。日本のスプートニクの呼びかけで43組から支援金を頂き土地を購入することができました。それから、スリランカに1年半、「外国人が先生」プログラムで来ていた、ワカナベサトシさんに絵本のストーリー作成をしていただきました。そのストーリーを私が読み、子ども会の子どもたちに絵を描いてもらいました。そして出来上がった絵本出版を、同じ32期生としてAFSを通してアメリカに留学していたハラダエイジさんの経営する英治出版にお願いをしました。1万冊が売れ、その収益でガールズホームの建設が開始されました。

児童養護施設 スプートニク・ガールズホーム

今後の取り組みについて教えてください。

児童養護施設の研究に力をいれていきたいと思っています。スリランカにはおよそ2万人の子どもが児童養護施設で暮らしています。多くの子どもは一時的な保護という本来の施設の目的とかけ離れていて、5、6年以上の長期に渡り施設で生活しています。そもそも子どもが入所する背景は様々で、貧困のため子どもを育てる環境が整っていなかったり、一緒に暮らして育てるべき親が海外へ出稼ぎに行ってしまったりしている状況があります。こうしたことは他の国でもあるかと思いますが、スリランカならではの話だと、家を野生の象に踏みつぶされてしまい、子どもが育てられなくなったという緊急を要するケースもあります。様々な理由がある中で、オーストラリアで学んだ博士課程では、そうした子どもたちの人権を保護するために、政府、NGO、市場、そして家庭がどのような役割を果たしていくべきかについて研究し論文を書きました。そこで一つ方針を与えてくれるのが、2010年に採択された「国連子どもの代替養育に関するガイドライン(※語句説明3)」です。そこでの第一原則は、基本的社会集団である家族の中で子どもを育てること、そしてそれが子どもの発達やウェルビーイングに最適な環境であるということです。この家族空間の中で子どもを養育するために、スリランカ内で様々なアクターが協力して支援をするための研究をしました。具体的には、子どもの児童養護施設入所をどのように社会全体で防ぐことができるか、生まれ育った環境で生活していくことができるか、また、急を要する理由で入所が必要になった場合、どのようにその子たちの人権を保護していくか、さらに、どのようにその子たちを元の家族や社会に復帰させるか等です。現在、私たちの団体は子どもたちを引き受けて育てるという活動のみなので、今後は入所の防止や家庭への復帰を促進していけるようなプロジェクト実行を課題としています。そして願わくば私たちの施設が一つのロールモデルとなり、スリランカ全国の416の児童養護施設に良い影響を与えていきたいと思っています。

アーリヤダーサさんが描く国際仕事人像について教えてください。

国際的に活動する際に重要なことは、まず各国の文化を尊敬することです。国によって、文化、言葉、民族が違いユニークです。こうした多種多様な社会で何かを始める時、そうした違いに注目するよりも、類似点を把握することが大切だと思います。相違点だけを見てもきりがなく、物事がうまく進んでいかないのが現実です。スリランカ人の私がニュージーランド、日本、オーストラリアに住んでいた時に意識したことは、私たちは皆同じ人間だということです。例えば、食べ物はどの国も全く異なりますが、私は上手に溶け込めることができました。それは語学を習得する時にも言えることです。言葉が違っても話すという行為自体はどこでも同じです。こうした類似点に意識を向けて、各国の人々と接するように心掛けています。これらは、そのまま各国の文化を尊重するということにも繋がると思います。食文化が違っても、私はごはんを食べる時、「うわぁー、これは生魚だから無理」という態度は取りません。それは違いを見ているということです。そうではなく、テーブルにあるものは食べ物であり、日本人が食べて大丈夫なら私が食べても生きられるという感覚なんですよね。そうした感覚は相手の生活態度だったり考え方を重んじているということを意味すると思います。

この類似点と尊重というキーワードはそのまま仕事にも活かせると思っています。日本人から見ると、スリランカ人は時間にルーズ、作業をきちんとしない、また仕事が遅いということをよく耳にします。こうした違いばかりに気をとられて、仕方がないと諦めたり、そうしたスリランカ人の態度を変えたりしようとする人もいると思います。そういう方は国際的に活動するのには向いていないのかもしれません。極論を言ってしまえば、違いがあるのは異国の人と活動していく上で大前提です。私が描く国際仕事人は、「違いがなかったらどうなるの。面白くないじゃない。ではなぜ外国に行くの。それは違うからでしょ。」と、違いを面白く捉える人です。違いを尊敬しつつ、同じ目標に向かっていくことのできる人ですね。




【語句説明】

1.スプートニク・インターナショナル 母体はスプートニク・インターナショナル。現在は日本、スリランカ、ガーナを拠点に、国際教育支援、国際交流支援活動、国際協力活動を軸に活動を行う。スリランカでは、奨学金制度や交換留学制度をはじめ、図書室の充実、移動図書館運営、絵本の読み聞かせ、日本語・英語教育、日本との交換留学制度、日本の大学生によるボランティアスタディーツアー受け入れ、ガールズホーム運営など多角的な活動を展開する。
参考:http://sputnik-international.jp/(日本語)

2.スリランカ内戦
シンハラ人(74%、主に仏教)やタミル人(18%、主にヒンドゥー教)、スリランカ・ムーア人など約2,000万人が住む多民族国家スリランカ民主社会主義共和国で1983年から、一時停戦を経て、2009年に終結するまで続いた。内戦の構図は、主にシンハラ人とタミル人の対立だが、その発端は大航海時代に始まる外国の植民地支配にあるとされる。セイロン島は、1505年にポルトガル、1658年にオランダがシナモンを求めて来航し、それぞれ湾岸地域を植民地化。1815年には全島が英国の植民地となった。さらに英国は少数のタミル人を行政府官吏に重用して、多数派のシンハラ人を統治させる「分割統治」を行った。これが後に民族間の格差と確執へと発展する火種となり、シンハラ人優遇政策の実施、それに反対するタミル人という対立を深め内戦へと至る。
参考:http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol40/index.html(日本語)

3.国連子どもの代替養育に関するガイドライン
2009年に国連で採択。このガイドラインでは、子どもたちが家族と生活すること、様々な形態での養育、養子制度、養護施設での養育を受ける中で、子どもたちの権利を守ること、家庭生活の代わりとなる養育での子どものウェルビーイングと安全、長期にわたる安定性、家庭へ戻ること、子どもたちの認識面、社会性、心理面での発達におけるリスクなどを指標とし、推奨している。
参考:https://www.unicef.org/protection/57929_58004.html(英語)

 

2016年12月17日、オーストラリアにて収録
聞き手:野尻智仁、瀧澤菜美子
写真:スプートニク提供、瀧澤菜美子
ウェブ掲載:三浦舟樹
担当:佐藤、志村、瀧澤、野尻
2018年2月24日掲載
※記事に掲載されている情報は2016年12月当時のものです。




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