ミャンマー・スタディ・プログラム - 参加者紹介「第2回 正久卓哉さん」

「何から手を付けたらいいのかわからなかった悔しさ」

所属:筑波大学 社会・国際学群 国際総合学類 国際関係学主専攻

MySP担当班:企画・広報班

写真①

私は非常に負けず嫌いな人間です。サッカーを17年程度やり、野球を少し父に教わり、水泳を4年間くらいやってきたからかもしれません。そんな私は、ある悔しさを思い出し、今回のMySPに参加しようと考えるようになりました。その悔しさというのは、2013年6月末~9月初旬に南インドのケララ州で行った活動を通じて生まれたものでした。

その2ケ月間、農村部の公衆衛生と生活インフラに力を入れているインド人6人から成るローカルNGOでボランティアを行いました。当時は米国人1人、英国人4人、ポーランド人1人もインターン生として働いていました。活動目的は大きく分けて2つでした。1つ目は「米留学に身につけた英語を使って活動を行うこと」で、2つ目は「米留学中に学んだインドの農村における貧困問題に関わる活動をすること」でした。父の転勤で11歳から15歳までをフィリピンで過ごした私には「なぜ貧しい人は貧しいままなのだろうか」「そういった貧しいままの人々に力を貸せるような大人になりたい」という思いがあり、大学においても貧困関連を学んでいたのです。

2ケ月のうち1ケ月半程私が働いていた農村(ケララ州都市部からは車で10時間、拠点の村からは5時間)にて、その悔しさを味わいました。斜面に沿って作られた村で、水は斜面の中腹にある井戸からバケツを使って人力で汲み取り、電気はNGOが配布したソーラーパネルか蝋燭を代わりに使います。用便は川へ垂れ流しや林の中で行い、薪を使って火をおこします。家はレンガ造の家ですが、塗装・防水加工・断熱材を使っていないため、雨が降ると一部のトタン屋根から雨漏りし、地面のままの床を濡らしていました。そして、そこに居住していたのは多くはクーリーと呼ばれる肉体労働者でした(*「もとインド・中国の下層労働者の呼称。転じて、東南アジア諸地域の肉体労働者。苦力」広辞苑第6版)。年収は分かりませんが、教育レベルが低く、近辺の地主の田畑を耕す日雇い労働者だということでした。彼らの中には最後に書き言葉に触れたのが15年以上前だと言う人もいました。そういった生活環境の改善のために私達がソーラーパネルとトイレの詳細な需要を戸別訪問で調べる際には、現地住民の協力が必要です。しかし、彼らは仕事がない時は斜面下の商店に集まり談笑をしているだけで、私には少なくとも協力意欲がないように見えました。1時間遅刻は当たり前です。まるで、「今の生活のままでいい」「誰かがやってくれる」という態度なのです。勉強したことを深め彼らの力になりたくてインドに来たのにも関わらず、何から手を付ければいいのか分からない現実を前にして、私はある夜一人で悔し泣きをしました。

振り返ってみれば、私が日本的価値観を前提に物事を進めて、「郷に入れば郷に従え」の考え方を忘れていたことが悔しい思いをするきっかけになったことも否めません。しかし、同時にこの悔しさを思い出し、後に私がMySPに参加したいと思うようになりました。単に、国連機関との接触を通じて、問題の把握と優先順位の立て方について理解を深めるきっかけになるのではないかと考えたのです。更に、国連機関が主にプロジェクトの対象にしているのは、簡略化すれば「購買力がなく、世界経済から取り残されてしまった人々」と言えます。将来、ビジネスマンとして貧困問題と向き合いたい私にとって、こういった人々の周辺情報や取りかかるべき優先順位の立て方に長けている国連機関と接触することは、「現在世界経済から漏れている人々」を知ることにつながります。次に私がどこに向かったらいいのかを知る大きなきっかけになるのです。勿論、そういったノウハウをもっている現地NGOやよりローカルに活動している国際NGOに接触すべきでは、という反対意見もあります。しかし、MDGsというgoalを掲げ、priorityとoutcome、outputにて問題解決を図る国連のシステムを参加者で考えることで、当該国が抱える問題の所在と解決策を体系立てて自分たちの知識として吸収することができるのではないでしょうか。これは、「何から手をつけたらいいのか分からなかった」という私の悔しさを晴らせるものなのです。

今回、私の中にあるこういった問題意識に気づくために迷走を繰り返しました。しかし、今は自分の中に「幹」を携えて行動できているはずです。MySPだけでなく今後の活動を通して、その「幹」を大きく太いものに成長させていきたいと思います。