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国連職員NOW! 第152回
藤井まいさん
世界保健機関本部 事務局長室 国別支援課専門官
(インタビュー時)

 


藤井まい(ふじい・まい):福島県出身。琉球大学医学部保健学科卒業。大学卒業と同時に婚約、半年後に結婚。沖縄県で看護師をしながら、米軍基地内の夜間大学院(ミシガン州立大学院)に通学、修了。第1子出産後、夜勤ができず、看護師を退職。阪神淡路大震災の翌年より、兵庫県の保健所で保健師として勤務。その後、夫の海外転勤のため退職、マレ−シアへ。滞在中に第2子出産、子育てと2つ目の修士号取得。約10年程、保健アドバイザ−としてのボランティアや、JICA健康管理員、大学教員等を経て、2005年度JPO合格。2007年よりWHO本部勤務。ジュネ−ブ勤務開始後に博士論文を書き始め、2010年保健学博士取得(東京大学医学系研究科論文博士)。3児の母。Twitter:@maifujii

Q.WHO(世界保健機関)で経験されたお仕事について教えてください。

WHOではJPOとして働き始め、今年で7年目になります。今まで2部署を経て、国別支援課では3年目です。JPOではリプロダクティブ・ヘルス課で主に母子保健関連の国連共同研究プログラムの補佐、その後の患者安全課ではナレッジマネジメントや教育プロジェクトを担当しました。

現在の部署はWHOの官房にあたり、WHO国事務所と本部との連絡調整を担当しています。様々な分野で組織の最終決定を受けて動くこともあり、突発的な仕事にも備える必要があります。目まぐるしく変わる環境で最善の選択を考える姿勢が求められます。

Q.国連で働こうと思ったきっかけはなんですか?

決め手となる大きなきっかけはないのですが、一つは経験を通して視野が広がっていったという点、もう一つは、子育てや夫の転勤の随伴等で一つの仕事を長く続けられる見込みがない中、国連への就職を選択したという点です。

私は福島県の公立の小・中・高校に通っていたので、小さいころから特に国連に関心を持っていたといわけではありませんでした。体育の教員だった親の影響もあり、高校は剣道漬けの生活でした。しかし高校の部活体験で、体力や腕力はどうしても男子にはかなわない上、女子のスポーツ界は将来性がなさそうに感じたので、体育推薦による大学進学は選択しませんでした。

そして幸運にも普通受験した大学に補欠合格したのです。入学当時は看護師免許を取り、教育学の科目も履修して、養護教諭を目指すつもりでした。しかし、学費を自分で工面する必要が生じ、休学して地元に帰りました。生活費と学費を10代で稼ぐにはパブのホステスぐらいしかありませんでしたが、狭い実家の押入れに寝泊まりしながら一生懸命働いてお金を貯めました。

パブでは、私と同世代の20歳前後のフィリピン人の出稼ぎ労働者の少女たちも働いていましたが、月給4、5万程度の彼女たちが本国に仕送りをしていました。自分が数倍も高い給料をもらって、しかも医学部に戻る学費のために貯金できるのは、偶然日本人に生まれたからだと思いました。彼女たちとそういった苦労を共にし、友情をはぐくんだ経験は、今思うと、大学の専門課程が始まる前に、貧困と健康の関連や先進国、開発途上国の格差等を心で感じることのできた貴重な体験だったと思います。

その後、大学に戻り、国連が定めた健康の定義を知りました。健康とは身体的にも精神的にもそして社会的にも良好な状態のことですが、健康を多角的に捉えることへの驚きは今でも覚えています。大学を卒業し、教員免許、保健師と看護師の免許を取得したのち、仕事と育児を両立しながら保健学修士、保健学博士を取得しました。20年以上も前に習った保健学の概念は卒業後、仕事等を通して現実を知り様々な形で進化し、私の視野も少しずつ広がっていきました。

大学卒業後も、いつも自身が主体となってキャリア形成を考えたわけではありません。結婚して子どもも3人いるので、夫の転勤などで退職した時はいつも、また仕事に就けるかさえわからない状況です。特に海外転勤に随伴する際には国家資格の看護師免許は使えません。そんな中で主婦をしながら、どこからでも応募でき、世界中に勤務地がある国連がいつの頃からか選択肢になったのだと思います。中でも、保健学をずっとやってきたので、WHOの本部というところに興味がありました。

Q. 学位の修得とお仕事、そして子育てはどのようになさったのですか?

大学の卒業と同時に婚約、数か月後に結婚しましたので、看護師としての社会人生活と結婚生活がほぼ同時にスタートしました。キャリア形成というよりは結婚生活を中心に人生が進みました。

学位はできる時に勉強しておき、コースに通える環境があれば通信だろうと夜間だろうと通うという姿勢でした。1つ目の修士号は沖縄で看護師として働きながら、米軍基地内にある夜間大学院(ミシガン州立大学院)で取得しました。17時まで仕事、19時から23時まで大学院で勉強し、また0時に夜勤に戻るという日もありました。また、その時は妊娠中で、体調が悪ければ大学院は辞めるしかないと思っていたので、授業への集中力はすごかったと思います。結果として幸運にも成績最優秀で修了することができ、無事に出産も迎えました。マレーシア人の夫は心から支援してくれていました。

子育ては小さい頃に兄弟姉妹の子守りをたくさんしていましたから、悩んだり困ったりすることは多くはありませんでした。夫は料理や家事を本当によくしてくれ協力的でしたから、沖縄で楽しい子育て生活と仕事を両方できました。楽しい子育て経験というのは大事です。また次の子を産もうと思うかどうかにかかってきますし、ストレスが子どもも含めて他の家族にまで波及してしまうことほど悲しいことはありません。

私は育児のこだわりとして、母乳で、また紙おむつではなく環境を考慮して布おむつを使いたいという思いがあり、その手間や時間の面から第一子が8か月目になるまでは就職せず、主婦をしていました。キャリアアップとしてはゼロ成長ですが、それに代えられない時を過ごしたと思えば、人と違っていても素晴らしい決断だったと思います。

その後、子どもも大きくなったので子どもを保育園に預け、保健所で働き始めました。1年半後に夫の転勤でマレーシアに行くことが決まっていたので期間契約でしたが、この仕事から得たものは多く、私は保健師として健康に携わる仕事がしたいのだというキャリア上のアイデンティティが形成された時期でした。地域住民に保健指導をするため、自転車で地域をまわり家庭訪問をするのがとても面白く、マレーシアに行っても続けたいと思いました。

2つ目の修士号取得も偶然がくれた幸運です。夫の転勤についていくため退職しましたが、現地では日本の看護師・保健師の資格も使えず、夫の転勤先は英語も通じない農村地域で、現地語のできない私には就職はほぼ無理という状況でした。そこで、主婦以外の選択肢も考えた時に思いついたのが、現地で調査と研究をしながら学位を取得するというものでした。

藤井まいさんただ、海外の農村地域での初めての子育てや現地語の勉強も考えると、海外での博士課程の勉強はその時の私にはハードルが高く感じました。そこで、2つ目の修士号の取得という選択をし、しかも前回は地域福祉、今回は地域保健というある程度重なりを持つ分野での研究、修了を目指しました。修士課程2年目では海外で待望の第二子を妊娠、論文発表の2か月後に出産を迎えました。

私にとっては勉強と妊娠出産はセットなのかもしれません。組織に所属できなくなったら、学生として、時間の融通が効く中で何かをし、途中で難しくなったら、いつかまたそこから始められそうだというイメージです(笑)。妊娠して仕事が続けられるほど体調が良くない時には、好きなことに時間を費やすことをお勧めします。

社会人や小さな子どもがいる時の勉強はほとんど計画通りにはいきません。私も気づくと最後の勉強から既に何か月も経っていたということは何度もありました。しかし、ちょこちょことやっておけば、まとめられる時期がきます。その時期がやって来た時にコースに進学する等して集中的に1,2年やると学位は取れるのではないでしょうか。日本には夜間や通信課程でも学位が取得できる制度があります。高等教育などを受ける機会がなかったとしても後に挽回可能な恵まれた国だと思います。

博士号は国連で働き始めてから、子どもが寝た後の時間と土日や早朝の時間を細切れに使い、細々と続け、論文博士という形で取得することができました。勿論、時間をうまく使ったからといって博士号は取れません。論文博士ですから孤独でしたが、とても素晴らしい指導教官にしっかりとご指導頂き、研究者として成長したから学位習得に至ったのだと思います。

Q仕事と子育ての両立、またお二人のキャリアの構築と働き方について、うまくいく秘訣とは何なのでしょうか?

私も夫もそれぞれ何度か離職や転職をしながら20年ほど同居しています。仕事をしていない時期もありましたから私の事例が両立なのかどうかは自信がありません。働き方という点では、二人とも家庭が優先という姿勢があったと思います。キャリア構築については計画を立てていません。まずその場の状況を見てから考えます。夫は周りが驚くほどに家事万能ですし、私も田舎で育ったせいか家事を随分します。

また両立といっても1日は24時間しかありませんから、主婦と仕事を合わせて200%やってきたかといえばそうではありません。端的に言えばある程度手抜きしてすべてをほどほどにしているわけです。子育ては夫や、親戚、地域の人が大分手伝ってくれましたし、仕事は課された内容にはきちんと責任を持ちますが、もっと上に行けるのにと言われながら、子育てをしながらでもできそうな職務に留まる等の工夫をして、完璧にやるのは無理だという思いも抱えながら進めていくと、両立と言ってもらえるわけです(笑)。

日本で教育を受けている人の多くは女性でも大学に行きキャリア形成を目指せると思いますが、さらに結婚や子育てが生活の要素に加わったら、一番大事なのは自分の家事や育児に対する思いをどの程度実生活に取り入れていくかを明確にすることでしょう。それを基に行動し、結果として出世が遅れたとしても、自分では納得のいく人生の歩み方ができるかもしれません。

私の場合は、保健師として教えていたことを自分で実践しようと思いました。母乳をあげる、赤ちゃんが泣いたら傍にいる、布おむつを一日数十枚洗う、自分で離乳食を作るなどを優先したら仕事は難しいです。一方、仕事をしないと周りから遅れていくような不安や焦りを覚える人も多いと思います。私も一人目の時は随分悩みましたが、次第に同僚は同僚、自分は自分と受け入れられるようになり、自分なりに納得のいくやり方でやることに決めました。結局は二人目も三人目も8か月までは仕事をせず楽しい子育てをしました。

私にとっての結婚は籍を入れる、同居をする、子どもを産み育てたいということでした。私の経歴を見て、保健の分野でキャリアアップの最高峰のように表現して下さる方もいるのですが、必ずしもそうではありません。基本的には家庭を優先し、先はわからないがそこにある環境の中でベストを尽くしてきたという感じです。しかし、妥協や諦めという感覚はありません。夫も同じ数だけ退職をして私の仕事についてきてくれましたし、結果20年の家族同居生活でかけがえのない幸せを得ていると思います。

藤井まいさん人生はどのみちわからないものでしょう?その都度、状況に応じるつもりでやりましたが、幸い三人とも健康で素敵な子に育ちました。両立できるかどうかは運のような気もします(笑)。

国連フォーラムでも、ポータブル・ハズバンド(記事末尾に注)について話題が出ましたね。うちの場合は同居が前提なので両方ポータブルと言えるかもしれません。私が夫の転勤についていくことは看護師や保健師という職業柄珍しくなく、逆にマレーシアでは男性が女性の仕事に随伴する例は珍しくありません。もともと一つの仕事をずっと続けるというよりも、転職をして立場が上がっていくことをめざす人が多いので、仕事を辞めた後の不安感が日本に比べて少ないのだと思います。

現在は私が仕事、夫が主夫をしていますが、やはり家庭のリーダーは夫で、仕事をしていない側面を除けば他の家庭と特に変わりません。三人の子どもの送り迎えなど忙しくしていますが、活き活きと家事をしていますし、主夫コミュニティとの付き合いも楽しんでいるようです。

Q.マレーシアでの生活でお感じになったことは?

夫の現地給与で、現地のマレーシア人コミュニティで4年ほど暮らしました。マレーシアも中央から離れた農村部では、中央都市のように発展しておらず援助機関が技術協力をしていました。そこに住民として暮らしたわけです。援助側の外部からの視点を大学院等で学び、仕事でも体験しましたが、被援助側からの目線はまた違っていて、本当に勉強になりました。

例えば一時期住んでいた村では、援助団体から障害児でも学校に行くように指導されていましたが、住民は分かっていても、日中はバイクに乗れる男性が村におらず不可能でした。また事業報告書では西洋医療の診療施設の利用率の増加が強調される一方、実際には住民は伝統医療に重きをおいていました。その背景には、例えば西洋医療だと長く待たされた上に患者に付きそう親戚一同は診察室に入れない、一方で伝統医療だと家族がみな診療室に入り患者に話しかけられるなど、伝統医療に軍配が上がっている現実もありました。

私生活では、主婦でも子育て以外にやりたいことがあればコミュニティは快く協力してくれました。子育ても村の皆でする風潮があり、小さな子が近所の家でご飯を食べて昼寝をしたり、悪いことをすると近所のおじさんに怒られたりするのが日常の風景でした。近所の高校生も学校が終わるとうちの4、5歳の子や赤ちゃんの相手をしによく遊びに来てくれました。そんな環境でしたので、小さい子がいても英単語を覚えたり、研究資料を読んだりできました。

Q.国連で働く魅力は何でしょうか? 

一つには190か国以上の加盟国がある中でのカバーするエリアの広さ、もう一つはどこの国にも属さない中立性です。特に昨今は世界規模の問題に協調して取り組むための目標が明確になり、国連の役割は大きいと思います。例えば、世界開発目標(MDGs)では目標の4.5.6という項目が乳幼児や妊産婦、またHIV関連ですが、代表的なWHOの役割としては国際的な指標づくりがあります。

もう一つ挙げるなら多くの人との出会いでしょうか。日本人に限らず多くの来訪者にお会いする機会があります。WHO本部には女性職員は多くいますが、私のように三人子どもがいてフルタイム勤務の専門職員となると多くはありません。また、出張で現地視察をした時などにかつての自分を思い出すような、必死で働いている若者を見かけたり、優秀でありながら子育てに専念している女性に出会うことがあります。このような体験は日本ではなかなかできないことです。

藤井まいさんQ. ご自身のその時々の目標に向かわれることを支えたものは何でしょうか?

大学は休学を経て自費で卒業しましたし、その後も苦労して取った資格を看護師と保健師だけで終わらせたくないという思いが常にあったのだと思います。また、そこには、思春期の頃の家庭の背景や社会に対する思いもあるのかもしれません。

私の育った福島の土地柄もあり、職業の選択や家庭での役割のなかで女性であることの制約を感じていた部分はありました。家庭や部活など様々な場面の男女の役割を通して、運動能力など生物学的な理由以外に女性という理由で低く見られることが嫌でした。

学費を稼ぐためにパブで働いた経験についてお話しましたが、フィリピンから出稼ぎに来ている女性たちは法的に弱い立場につけこまれ、経営者からぞんざいな扱いや賃金の待遇を受けていました。それでも彼女たちは家族に仕送りを続け、落ち込んでいた私にはジュースをおごって励ましてくれました。そんな状況から社会に対するぶつけどころのない怒りを感じたこともあります。

でもこのことが、家庭の経済状況を心配されたり、自分を低く見る周囲の目を感じていた自分自身に改めて目を向ける機会になりました。学費の工面は大変でしたが、休学を経て勉学に戻れること、学びたいものを選べること、そしてその先にある将来の選択肢に感謝することができたように思います。私自身は楽しく明るい大学生活を過ごしたように記憶していますが、苦労して得た機会を貴重なものと感じるからこそ、それを通して得た知識や資格を活かしたいと思うのかもしれません。

大学卒業後もなんとかあとひと頑張りしないと何も起こらないまま主婦で一生が終わるという思いはどこかにあったのでしょう。しかしいつも高い士気を保ってやってきたわけではありませんよ。主婦だった頃、看護師の資格を活かせず自分には何もないような気がして辛く思えた時もありました。子どもの笑顔や友人に励まされながら、先が少しずつ見えてくるということを繰り返してきたように思います。その時にある選択肢を自分なりに選んできたという思いが満足につながっていると思います。

Q. 地球規模課題に取り組もうと思っている方へメッセージをお願いします。

実際の自分の生活や目の前のコミュニティに目を向けることは大切です。「Think globally act locally」というWHOの標語にもあるように、自分もそのコミュニティの一員となっている場所で小さな問題でもいいから関心を寄せてみてはどうでしょうか。研究では疫学統計など集団を調査した結果がよく使われます。しかし、社会は結局は「個」の集まりですから、「個」というものを知っている必要があると思います。

立派な会議場で貧困削減セミナーを受講した後に、その裏路地にはホームレスがいるかもしれません。そしてその人たちは、自らの状況を全く私たちとは違うふうに捉えていたり、違うものを必要としているかもしれません。何も状況が良くならないまま一生を終える人たちの現実と、それを助けようとする自分との乖離をどうしていきたいのか。特に国連のような世界を相手に仕事をしていく時には原点となる大事な点だと思います。

また、働き方については、これまでお話したようにまずは自分らしさを忘れずに自分の納得のいくやり方を決めていけると一番いいのではないかと思います。目の前の状況に満足できなければ、その中に価値を見出せるよう工夫してみることでしょう。また、キャリアパスとはいいますが、できあがったいくつかの道の一つを選ぶというよりは、自分で道を切り拓いていくしかない気がします。

藤井まいさんQ.ポータブル・ハズバンド(記事末尾に注)を望まれる女性、ポータブル・ハズバンド、ポータブル・カップルへアドバイスがありましたらお願いします。

例えば収入源が仕事以外の形で確保できるなら、何のために仕事をするのか、そもそも仕事をするかしないのかを考えるとよいと思います。自分にとって大事なのは周囲に認められることなのか、組織の中で昇進することなのか、それとも自分が満足することなのかというようなことでしょうか。そこで確固たるものを持っていれば、その価値観をポータブルな環境の中でも活かし、実現することができるように思います。

もう一つはパートナーが失敗するかもしれない可能性に備えられるかという点ですね。パートナーのやりたいことに価値をおき同じスタンスで歩んでいけるのならいいですが、その先の収入を前提に役割分担してしまうと、その軸がぶれた時に諍いの種になる可能性があると思います。たとえば日本では男性がずっと収入を得てくれるという前提があり、女性が男性の仕事についていく場合が挙げられるのではないでしょうか。

いろいろな生き方をしている人の話を聞いて視野を広げることで、無意識に不安に思っていたことが実はそうではないと気づくかもしれません。また主婦・主夫は人から評価されることが減り視野もせまくなりがちですが、時間があるという点で、やりたいことを進めるチャンスと捉えることもできるかもしれませんね。

自分の能力が社会に認められることが多くの日本人にとっては自己実現なのかもしれませんが、私の夫の場合は仕事以外でも自己実現できると考えていますし、私も同じで今に至っても主婦に戻るのを厭いません。最近は日本でもイクメンと言って、女性の収入で男性がかつての主婦的役割を担う家庭もとても増えてきているそうですね。

男性にしろ女性にしろ子どもにしろ、思いもよらない場所に住み生活するということは、簡単なことではないと思います。必ずしも輝かしい相手の出世に随伴する場合ばかりでないですし。危なっかしい賭けを信じているパートナーを上手に支えつつ、自分でも行った先で適応し、価値を見出していけるといいですね。

2013年4月10日、ジュネーブにて収録
聞き手:ヴィット•ユリー、唐澤由佳、桐谷純子
写真:瀬戸屋雄太郎
プロジェクト・マネージャ:田瀬和夫
ウェブ掲載:田瀬和夫

 

(注)ポータブル・ハズバンド:2010年初頭に国連フォーラムのメーリングリストで取り上げられた「持ち運び可能な亭主」。例えば妻が開発の現場に赴任することになったとき、夫がそれに合わせて現地についていくといったことを意味するが、単に配偶者についていく、主夫となって家事をするということを越え、現地で自分の技能や能力を活かして職に就いたり、研究をしたりして、自己の人生なりキャリアなりを積み上げていけるということまで含む。



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