国連職員NOW! 第153回
森田宏子さん
国連事務局経済社会局・小島嶼国課・課長
森田宏子(もりた・ひろこ):東京都出身。学部時代に、国際基督教大学で異文化間コミュニケーション学び、その後、デンバー大学にて国際関係学修士号を取得。1979年に、UNDPハイチ事務所でJPOとして国連職員のキャリアをスタートさせる。その後、発展のための国連科学技術センター(UNCSTD)で10年間勤務。1993年に国連経済社会局・持続可能な開発部へ移り、情報分析課・課長、学術誌National Resources Forumの編集長、地球サミット+5、ヨハネスブルグ・サミット、リオ+20に事務局の一部として関わる。2009年より現職。 |
Q. 国連職員になったきっかけを教えてください。
私はいわゆる帰国子女のはしりで、親の仕事の関係で中高時代をニューヨークで暮らしました。その当時は将来について漠然としか考えていませんでしたが、日本に帰国し、国際基督教大学(ICU)に進学した際、恩師となる現在JICAの会長を勤めておられる緒方貞子先生と出会い、薫陶を受けました。大学卒業後、アメリカの大学院に留学するため渡米した時にはまず、初めての女性公使として 国連日本政府代表部に赴任されていらした緒方先生を訪ねました。その頃から国連に関心を持つようになりましたので。
緒方先生に「将来、国連に就職をするにはどういった方面の勉強をしたらいいでしょう」と伺いますと、国連の業務は60%以上が開発分野に関連しているので、開発関係のお勉強をしたらいいでしょうというアドバイスを頂きました。また、JPOを受験する前に国連でのインターンシップも勧められました。2回目の赴任で親が丁度ニューヨークにいたこともあり、大学院時代の夏期休暇中にインターンシップを行うことができました。
インターンシップ先は、ジュネーブの国連貿易開発会議(UNCTAD)に吸収されて今はもうないのですが、多国企業センターという部署でした。そこで、日本人上司の下で研究報告書を書く機会を与えられ、それこそコロンビア大学などに行って、日本の技術移転政策の変遷に関して技術白書を読んだり、かなり自由にやらせていただきましたね。
当時のインターンシップは、現在とは異なり2種類ありました。一つは、午前中はテーマごとの講義を色々な部署に勤務する職員から受け、午後は国連内の部署に配置されて仕事を補佐するというもの。もう一つは、現在のものと似ていますが、国連内の配属先部署で与えられた仕事を2か月間こなすというものです。私は後者のほうでした。ただ、インターンシップ後の3か月間は国連の仕事に応募してはいけないという決まりがありましたので、クリスマス休みにニューヨークに戻ってきたときに、国連日本政府代表部の人事担当の方にお会いしました。
その後、JPOへの推薦を頂いて、UNDPの面接に行ったのが2月です。アメリカの大学院卒業が6月だったのですが、卒業前にお声がかかり、UNDPのハイチ事務所にJPOとして勤務することになりました。私は、長年フランス語が好きで勉強していましたし、また今後のキャリアにも役立つからということで、当初はフランス語圏 — 西アフリカなど — での勤務になると聞いていました。結果的にはハイチに行くことになりましたが、やはり若いときに途上国に住むという経験は、開発に携わる国連職員として重要なものだったと思います。
Q. 現在のお仕事につくまでの経緯を教えてください。
実は、私は今の仕事 — 持続可能な開発部(DSD)・小島嶼国(SIDS)課 — に関しては、自分から手をあげて就いたたわけではありません。2009年に依頼を受けて、この仕事に就くことになりました。というのも、これはDSDの前任部長時代の話ですが、彼が着任したばかりの頃に実質的な仕事の補佐役を探していたことがあったんですね。それで、DSDでの勤務も長く様々なところを見ている私に話が回ってきて、暫く機構・管理改革のお手伝いをしていました。
実質的な補佐役といっても、人事も予算など今までの担当分野とは違うことをやらなければならず大変でしたが、全体像が見えて面白かったです。ところが、ある時、私の今の仕事の前任者にあたるSIDS課長が上層部との間に問題を起こしたようで、後任として私に白羽の矢が立ったのです。着任して間もないDSD部長から「驚くかもしれないが君にやってもらおうと思うがどうか」ということで頼まれました。
前任者のカリブ出身のSIDS課長とは友達だったのですが 私が志願して職を得たわけではないのに、しばらくは口も利いてもらえませんでした。また、私の着任を聞いて、カリブ地域の大使などが何人も「この大事な時になぜ人を変えるんだ。しかも小島嶼国の人間でもない人に!」と経済社会局(DESA)の上層部に乗り込んできました。でも、そこは上層部の方が、前任者にはアドバイザーとして小島嶼国の問題にこれからも関わってもらうので、と上手く説明をしてその場を収めてくれました。
ただ、何しろこのような経緯での着任だったので、小島嶼国の大使などからは、あなたに何が分かるのかと、最初は懐疑的な目で見られていましたね。UNでのキャリアをハイチで始めましたということで、何となく納得してもらえた上で滑り出しましたが、後は仕事の実績で徐々に信頼を得られるしかないと思いました。
「私はSIDSを運命と思っている。私の国連でのキャリアはハイチで始まって、その他の色々な経験を経たのち、縁あって再び小島嶼国のために仕事をすることになった。パーソナル・アジェンダ(個人的な計略)は何もありません、皆さんのお役に立ちたいだけです」と折に触れては伝えてきました。例えば、私の前任者はカリブ出身だったのですが、やはりカリブ地域のことは特に熱心になっていました。他の小島嶼国出身の部下もそうですが、それぞれが自分の国や地域に思い入れがあって、力の入れ方が違うんです。それぞれの国家の意思を尊重し、政府代表なり仕事で知り合う人とのつながりを大事にしながら仕事をやっていたら、段々と周りから受け入れてもらえるようになり、大使たちとも話がしやすくなっていきました。
Q. 現在のお仕事について教えてください。
私は今まで、国連内のいろいろな畑を回ってきましたが、今の仕事はそのすべてを総括できるようなものだと思っています。国連は一言でいうと“会議屋さん”の部分が結構大きいんです。テーマはエネルギーだったりアフリカだったりと多岐にわたりますが。私の現在の仕事との関係でいうと、2012年に開催された「国連持続可能な開発会議(RIO+20)」のフォローアップの一つとして「第3回SIDS国際会議」が2014年9月にサモアで開催されることが決まりました。(*1記事末尾注)
SIDS国際会議は、1994年にバルバドスで最初に開かれ、2005年にはモーリシャス、そして今度は太平洋の番だということで、サモアに決まりました。バルバドスやモーリシャスに比較するとサモアはまだ貧しく、2014年に後発開発途上国(LDC)から卒業する国です。でも、サモアの国連大使によれば、だからこそ島国の現状 - どのように気候変動に侵され、自然災害などの影響を受けているか - を世界に知ってもらうにはいい機会、良い場所だということです。
ただ、こうした国際会議の主催国となると、会議のコストを負担しないとなりません。しかしながらサモアには財政的な余裕がない。ですから、ニュージーランドやオーストラリア、日本も期待されているのですが、主催国としての責任を果たすための支援を必要としています。例えば、ホテルの数が全然足りません。会議の予想参加者は2,000人から3,000人ですが、800人分位の部屋しか今のサモアにはないのです。それも、台風が2012年末にあって一つのホテルが被害をうけてしまいました。
そこで、ニュージーランドが2,000人分の収容力がある豪華客船をルートから外してもってきましょう、という話になりました。ホテルとして(客船の)客室を利用する参加者は、もちろん宿泊費用を払います。客船を借りる場合に、それでも足りない部分については、政府が支払うことになっています。因みに日本政府は会議参加者の現地移動手段としてマイクロバス15台を提供することを約束したそうです。
また、今回のSIDS国際会議では「持続可能性」というキーコンセプトを重視しています。つまり、ゼロから新しいものを創るのではなく、今あるものを利用するような取組みです。 サモアには2015年に開催予定のコモンウェルス・ユース・オリンピックの会場となる立派なスポーツ施設があります。オリンピック用のプールや飛び込み台なども建設されています。
ですので、今回の国際会議では、バスケットボールコートはそのフロアを傷つけないように板を引いて会議の開会式から閉会式までメインな会議場として使われることになりました。また、プール競技場のプールは結局水を抜かないままその周りを人のスムーズな流れと安全を確保しながら、会議参加者の身分証(ID)発行所とする予定です。会議参加者のID発行に際しては、国連のIDを持っている参加者は何かを足すだけで、新しいものを発行しなくていいようにしようと考えています。これは一例ですが、このように、なるべく主催国の負担を軽減できるよう試行錯誤を重ねています。サモアの大統領も大変意気込んでいて、第3回SIDS国際会議対策チームが結成されてからは、私も毎日のように彼らとやり取りをしています。
Q. 2014年9月に開催される 第3回SIDS国際会議までの準備は、どのように行われるのですか?
2013年の7月に、SIDSの準備会議が太平洋、カリブ、インド洋・大西洋の三地域で行われた後、8月末にバルバドスで三地域のまとめを大臣レベルで行いました。その後、それを秋の国連総会にかけて、第二委員会で第3回SIDS国際会議の進行について議論しました。そして2014年に入ってからは、EU、日本、米国、カナダ、イギリスなどとSIDSとの間で交渉に入ります。SIDSが、まず会議で何を優先事項としたいかを自分たちで決めて宣言文を作るのですが、それをベースに他の国連加盟国との間で交渉するわけです。
これには、お金や技術援助などもつきまとうので、一筋縄ではいきません。サモア側としては、何ページかの宣言文だけでは同様の会議と代わり映えがしないので、スケールが小さくても、新しいものでも、今まで成功しているものでもいいので、パートナーシップを強調した会議にしたいという意向です。私のチームは小さいですが、国連事務局だけではなく国連全体で会議をサポートするために、部内の様々な部署を動かしています。また、私が議長を務めるInter-Agency Consultative Group (IACG) on SIDSという国連機関及びSIDSに関わる地域機構を通してSIDS国際会議のために連絡協力の情報共有を行い、協力を依頼し、会議に向けて準備を勧めています。
お話ししたように、私のチームは今回の国際会議に向けて国連機関内において調整も行いますし、ロジスティックスや交渉にも関わります。その他にも、会議資料の準備や準備会議のロジスティックス、DESA局長が準備会議や地域会議に出席する際にはその準備と文書作成、会議の安全措置やプロトコルに関しても、他の部署との会議が月に一度はあります。チームといってもSIDS会議に一緒に行くのは部下2人で、インターンも今は一人だけ。彼らも手一杯の状況です。サモア側にこちらの要望を逐次伝えてその返事が来るので、私のメールボックスはいつもパンク状態です(笑)。
会議のテーマは、水、エネルギー、災害、気候変動、生物多様性など多岐にわたります。ただ、それらを繋ぐものはSIDS。そういう意味で、会議に向けた準備についても、ただスタッフの人数を増やせばいいというものではなく、小さくてもやりやすいチームのほうがいい場合があります。3人を10人に増やしても、かえってやりにくいことがあるんですよ。テーマの専門性ではなく、SIDS諸国の課題を包括的に見ることが重要ですから。
2013年5月、6月と進めてきたことは国別協議といって、SIDS各国が政府、学者、民間などから課題を集めて、国の優先事項について報告書を管轄地域に提出してもらうというプロセスでした。とはいえ、彼らが提出した報告書をどう扱うか、地域レベルで何がしたいかなど、それは私たちが決めることではありません。ただ、10や20も優先事項があったら、それはないのと同じですから、できるだけ絞ってくださいという方向付けは行いました。
Q. 小島嶼国の強みはなんですか。
気候変動、災害、データの問題など小島嶼国には様々な課題があります。でも、小島嶼国は困難な状況の中でも、自分たちで知恵を絞って努力をしています。例えば、小島嶼国が集まって、SIDS DOCK という持続可能なエネルギーのプロジェクトを始めたり、Global Island Partnership (GLISPA)という生物多様性のパートナーシップを立ち上げています。教育に関しても、大学がない島がいっぱいあります。エリートの子弟は大学に進学する際には通常、故郷の島を出てしまいます。いわゆる頭脳流出です。それを食い止めるに、セイシェルなどは数年前に自力で大学を創りました。そして、まず子弟を自国に残すように親を説得し、大学レベルの学習環境を整えました。
それから、私たちのプロジェクトの一つに、ACCESSという大学のコンソーシアムがありますが、これは島嶼間パートナーシップの一例です。小島嶼国には、サウス・パシフィック大学(The University of the South Pacific)や 西インド諸島大学(University of the West Indies)といった地域大学があるので、それらを遠隔で繋げてオンライン教育プログラムを開設しました。やっとプラットフォームができて、2013年1月から修士プログラム「SIDSのための持続可能な開発」が開講されています。
7大学がメンバーになっていますが、その中の大学に学生登録をしていれば、修士プログラムの半分は自国の教室で、残りの半分はオンライン授業で学ぶことが可能です。例えば、面白い海洋の授業が自分の大学にはないという場合、オンラインでモーリシャスで開講されている海洋の授業にアクセスして学位をもらえるというプログラムです。こうした革新的な取り組みをどんどん進めていければと思っています。
小島嶼国が抱える問題はたくさんありますが、小さいからこそできることがあります。政府が大きいとどうしても、環境は環境、経済は経済、社会は社会というように分野ごとに縦割りになってしまう。でも島国の政治家というのは、全体をまとめて見ないと決断ができないんです。いろんなことが関連しあっていますので。ですから、統合的アプローチという観点から見ると、彼らのほうが進んでいるのかもしれないですね。再生エネルギーについても、例えば、セイシェルは一つの島国ではなく何百と島があるのですが、その中の無人島をパイロット・ケースとして再生エネルギーの実験を行っています。無人島のすべての電力を風力や太陽熱で生み出したり、車を一切使わないとか、実際にやっているのです。こうした先進的な取り組みは、先進国よりやりやすいのではないでしょうか。
Q. SIDSが抱える課題に関して、今後日本はどのようにこの問題に関わっていけると思いますか?
正直なところ、私はもっと日本の外務省などがSIDSに関しても全体として取り組んでくれたら思っています。実は、私はサモアでの国際会議開催が決まってから、外務省の大洋州課を訪れたんですね。そこで会議のことを話したら、そういう会議があるんですかと驚かれました。バルバドスとモーリシャスでの国際会議の続きでと会議の経緯をさらに説明すると、そういう文献はどこで手に入るのかと職員の方に質問をされました。地球環境課の職員はもちろんSIDS国際会議について知っているけれど、地域の担当課は知らなかった。フィジーやサモアでも日本の大使にお目にかかり、ブリーフィングもしましたけれど、会議についてあまりご存じありませんでした。
UNDPの南南協力を担当している部署は、日本の外務省の援助でカリブと太平洋の南南協力というプロジェクトを何年か行ったことがあります。ですので、(大洋州課)の方に、カリブ担当の課との連携などありますかと聞いたら、全然ないといわれた。国連担当の課はもちろんですが、外務省ですから、もっとグローバルな視点で見てほしいです。
ユネスコはSIDSのために分野横断型のthe SIDS Platformというプラットフォームを立ち上げました。だから外務省もそういうふうに、別にSIDSだけではなくて、トピックがあったら課を飛び越えてタスクフォースを作ってほしいですね。国連日本政府代表部でも、経済班とDESAで以前は月に一度勉強会を開いていました。そういう横の繋がりがあったらいいのではと思います。
最近、SIDS会議が近づいてきたので、国連内部のあちこちから電話が入ります。国連DESA統計部とも、SIDSの近年の動向について一緒に報告書を出そうとしています。これは、数年前にも発行したのですが、中身がにわか作業だったので批判もありました。誰かが注意をしてくれているという意味ではいいことでしたが。統計部も協力したいと申し出てくれて、人口部も何かやりたいということですし、国連内でも繋がりが広がればいいと思っています。
Q. 国連に入って一番大変だったことは何ですか。
そうですね、仕事内容やテーマではなく、国連内で働くのは大変です。私は帰国子女なので、日本にいる人よりははっきりものを言えるようになったけれど、日本の教育、特に日本の女性の場合は出しゃばるなとか、上司を批判するな、など散々言われますよね。今朝もNYタイムズにでていましたけれど、日本では科学分野の女性はフェミニンじゃないから文系の女性のほうがもてると。人前で意見を言ったり、上司に逆らったりと言うのはよろしくないという教育。でも、それでは国連では生きていかれないんです。私は、性格的に人前で話すのは苦手だったけれど、無理やり自分を変えてきました。これはアメリカの大学院もそうですが、試験でいい成績をとって課題が良くできても、いい成績はとれません。発表ができないと、自分の意見がしっかり言えないと、いい点はとれないのです。これと同じで、国連内でも出世するのは欧米系と南アジア系です。彼らはとにかく口がうまい(笑)。
日本人はアジアの中でも、中国人や韓国人には負けていると思います。大体、日本人インターンの数自体が減っているように感じます。中国人は教育を受けて変わってきていますし、留学経験が全くなくても英語がうまい。それでいて、発表もするし、臆さずに意見も言う。やはり、そういう風にならないと国連では勝ち抜いていけません。
私の人事の時と今の人事は違って、私の若い時は仕事がコツコツできて、認められれば次のステップに進めました。でも今は次のステップに進むポストが空いたとします。そうすると、外部であれ内部であれ、何百人もの人たちとの比較された上にショートリストに載った人のみ面接されるので、中でコツコツ仕事をやってきて実績を積んでいてもこの前後で落とされる可能性があります。面接もある仮定の設定を与えられて、こういう状況の時にどういう対応をしますかという質問に、臨機応変に答えないといけない。日本人は面接が弱いですから、これが課題でしょうね。
それから、国連では様々な国籍や文化背景の人と一緒に働きますが、スタッフや同僚の中に、ものすごく強い人や難しい人が必ずいます。その扱いが難しいです。「難しい」を超えて、足を引っ張ろうとする部下や同僚もいました。こうした人には何回か直面しましたが、あの手この手で邪魔をしてくる。国連は西洋のシステムがベースとなっていますが、民間ではないから嫌な人がいても簡単にはやめさせられない。部下でも簡単に評価を悪くすると、自分の管理不足とみられ、逆効果になる場合もあります。運もあるでしょうが、一生懸命やるだけでは空回りしてしまったり。難しいですね(苦笑)。
Q. これまで一番思い出に残った仕事は何ですか。
一番の思い出として絞るのは難しいですが、色々な興味深い場所に出張で行くことができました。UNDPハイチ時代には、プロジェクト視察のためにジープで道なき道を進み、目的地にホテルがないのでチームの男性陣は神父の家、唯一女性のメンバーだった私は修道院に泊めてもらいましたね。ハイチではフランス語が公用語ですが、現地の人はクレオール語を話します。なので、通訳の人を介してプロジェクトの視察訪問をしました。
その後ニュヨークに転任し、今のオフィスに来る前10年間ぐらい、開発のための科学技術センターに務めていました。その当時、私は科学技術諮問委員会で書記をやっていたのですが、その諮問委員会が一年に一度ニューヨークで会合を開いていました。私の二人目の上司は民間から来た人で、開発と科学技術の政策に関する諮問委員会のメンバーの中で、途上国に行ったこともない人が開発の話をするのはおかしいと言い出しまして。
それで、彼らに実際に途上国を経験してもらおうと、そのブラジル人の上司が自分のつてを使って、彼らをブラジルに連れて行ったのです。リオ・デジャネイロの、かなり街中から離れた土地にある民間企業の静養所で朝から晩まで缶詰になって、喧々諤々と話し合いをしました。そして、ランチタイムには地元の学者や、民間の人をお呼びしてゲスト・スピーカーとして話をしていただきました。これは、すごく良かったです。そして、ブラジルの次にはインドに行ったりと、同じようなプログラムを数回行いました。
でも、思い出というと、私の場合は失敗談が多いんです。例えば、ブルンデイ政府に諮問委員会メンバーが科学技術の助言をすることになって、そのお供で2週間ブルンデイに行ったことがあります。ブルンデイ各地の街中で、政府関係者以外にもインタビューをしたのですが、その帰りに経由したブラッセルの空港で何とスリにあってしまったのです。持っていた出張の手持ちの荷物を、全て盗まれてしまいました。
貴重品よりも何よりも、2週間分のインタビュー・ノートを盗まれたことがショックで、泣くに泣けない状態。帰途ニューヨークへ戻る機内で、覚えていることを必死になって書き連ねましたね。この時は、一緒に出張に行った同僚に電話で説明して情報を付け足してもらいましたが、クライシス・マネージメントは大事なことですよ。途上国では、絶対に何か予想外のことが起こるから。いろいろと準備して、プランニングをしていても予期しなかった危機的状況に陥ることがしばしばあります。
Q. 想定外のことが起こった際には、どう対応されるのですか。
基本的には、冷静に対応をして、やれることをやるだけです。リオ+20の時もそうだったんですよ。万博会場のような所でテントを借りて、SIDSの展示会をすることになっていました。でも、TVモニター用のコードがなくて、何回も頼んだのに、それが届いたのは会議3日目。そういう些細な、例えば何かが一つ足りないがために、実現できないというようなことが多々ありました。ポルトガル語ができるインターンがいたので、彼を引っぱりだこにして、一生懸命交渉しましたね。万博みたいな会場は、会議前日に行ったら何もできてなくて、これで明日からどうするんだろうという状態でした。本当に更地だったんですよ。結局、色々と交渉して、インターンの人がいたから何とかなりましたけど、本当に大変だった。最後は、度胸と粘り強さ勝ちですね。
Q. 最後に、グローバル・イシューに取り組むことを考えている人たちへメッセージをお願いします。
最近の日本人の若者は、内向き志向だと言われています。私も一度講義を日本で行ったことがありますが、「質問がある方」と尋ねても、これから留学されるという方以外は質問してこなかった。なんだか悲しいなと。もちろん大変なこともありますが、海外の仕事は面白いです。特に女性にとってはやり甲斐があると思います。国連は仕事、家庭、育児のすべてを両立しやすい環境でもあります。途上国勤務なら人の手を借りやすいので尚更です。
今は、大学3年生から就職活動と聞きますが、それでは学生生活を楽しめないのではないでしょうか。もし余裕があるならば大学院まで進んで、国連とは限らず、国際機関やNGOなどで外に羽ばたいてほしい。そして、羽ばたくなら度胸を持って、間違ってもいいから思っていることを口に出して、ガンガン前に進んでほしいですね。
2013年6月18日、国連本部にて収録
聞き手:田辺陽子
写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:田辺陽子
ウェブ掲載:田瀬和夫
*1注:2014年1月に森田さんより次の追記がありました:「このインタビューは2013年夏の終わりに行なわれたのですが、つい最近サモア会議のための準備委員会のビューローに日本政府が立候補され、アジア太平洋地域からも支持を得て決定しました。 各地域から2名ずつで合計10名プラス主催国のサモアを加えての11カ国からなすビューローとは、今後会議までの準備会合の議案、日程、サモア会議の宣言文なり今後行なわれる交渉のたたき台となる草案などにも影響力を及ぼせる管理局みたいなもので、事務局側の私たちがサポートしていくのですが、会議準備そのものに一年以上前から深く関わってきている邦人職員として大変嬉しく思っています。」
<参考ウェブサイト>
SIDSnet
http://www.sidsnet.org/
小さな島々について(国際連合広報センター) http://www.unic.or.jp/activities/economic_social_development/sustainable_development/small_islands/