国連職員NOW! 第154回
荊尾遥さん
国連アジア太平洋平和軍縮センター政務官
荊尾遥(かたらお・はるか):広島県出身。広島の爆心地に近い広島女学院中学高等学校に通い、市民団体「インド・パキスタン青少年と平和交流をすすめる会」に参加した経験から軍縮に興味を持つ。大学では国際関係を学び、津田塾大学大学院在学中にニューヨーク国連本部にて国連小型武器行動計画履行検討会議の運営をインターンとして経験する。インターン後は日本でピースボートに半年間勤務。その後、広島平和構築人材育成事業の第一期生として採用され、南アフリカにある国際民主主義選挙支援研究所(International IDEA)で勤務。在オランダ大使館で化学兵器禁止条約担当の専門調査員として4年間勤務後、JPOに合格し、2012年より現職。 |
Q. どうして軍縮に関心を持たれたのか、そのきっかけをお聞かせください。
出身地が広島ということもあって、高校生のころから核軍縮に興味を持つようになりました。特に私が通っていた広島女学院中学高等学校は爆心地から1.1キロの距離にあり、1945年8月6日、登校していた生徒・教職員330余名が原子爆弾の犠牲となり、学校の歴史と核兵器問題を重ねて意識せずにはいられませんでした。平和教育がカリキュラムに取り入れられていましたし、課外活動で、国内外からの訪問客との平和交流の機会も多くありました。
2000年、高校3年生の時には、受験の夏でしたが、広島の市民団体が企画した「インド・パキスタン青少年と平和交流をすすめる会」に参加し、軍縮の問題について将来を担う若者とともに考える必要があると感じるようになりました。このような高校時代の経験が軍縮に興味を持った原点です。広島で学んだことを世界の文脈の中に位置づけて伝えたいと思うようになったのは、やはり学校の内外で海外との交流があったことが強く影響していると思います。
Q. 学生時代はどのように過ごされましたか?
高校時代の経験から、大学では国際関係を学ぶことにしました。9.11米国同時多発テロから半年後の2002年、広島と長崎の被爆者の方々と一緒に、初めてニューヨークへ行き、テロの遺族となった方々との平和交流に参加しました。さらに、2004年、被爆60周年に向けて中国新聞社が企画した「広島世界平和ミッション」の第一陣として、南アフリカとイラン(当初予定されていたイスラエル・パレスチナは政情不安のため断念)を訪問し、メンバーの一人である被爆者の方の通訳をしながら、行く先々で開催された平和交流の行事に出席しました。
かつてアパルトヘイト時代に核兵器を開発し、その後民主化とともに廃絶した南アフリカを訪れた経験は、卒論や大学院での研究テーマへとつながっていくことになります。また、イランでは、首都テヘランの他、イラン・イラク戦争で化学兵器が使われたサルダシュトを訪問し、化学兵器の犠牲者から直接話を聞くことができました。
学部時代に学んだことをより深く研究したいとの思いから、津田塾大学大学院へ進学しました。また、就職のことを意識し始める大学院1年目の秋から半年間、日本国際問題研究所軍縮・不拡散促進センターでインターンをしました。教室の外、つまり現場に出て勉強するようになったわけです。さらに2006年、大学院2年生の夏に国連で4か月間インターンをしたのですが、これは本当に大きな経験でした。具体的には国連軍縮局(現在の軍縮部)で国連小型武器行動計画履行検討会議の運営に携わったのですが、国際会議がどのような流れで行われているのかを肌で感じることができました。また国連でのインターン期間に、大学院の修論執筆の準備も進め、温かい上司に恵まれ、貴重なアドバイスを頂きました。
Q. 初めてのお仕事はNGOでなさっていますね。
国連でのインターンの後、いつか国連に戻って働きたいと感じていました。一方でインターンの直後に国連で働くのは難しいことは分かっていました。今後、自分のキャリアをどのように築いていこうかと考えていたとき、国連広報局NGO会議のピースボート主催のセッションで話をする機会をいただきました。その後、インターンから帰ってきて修論を必死に書き上げた翌日、ニューヨークのセッションに誘って下さった川崎哲さん(ピースボート共同代表で軍縮NGOの第一人者)に連絡したところ、ちょうど大きな国際会議の立ち上げの時期だったこともあり、採用となりました。会議の準備として、国内及び国際NGOと連絡を取り合ったり、平和教育に関する翻訳をしたりしましたが、専門性をより高めたいと思うようになりました。
Q. それで、国際機関でお仕事をするようになるわけですね。
はい。ちょうどそのころ、広島平和構築人材育成事業のパイロット事業の募集があることを知りました。軍縮がなかなか進まない中、平和構築を着実に進めていくことが、軍縮を行うに際しての基盤となり、さらに自らの視野を広げることもできると考え、応募しました。やはり改めて体系的に理解したい、自分自身がしっかり勉強したいという思いが強かったのです。そして、人材育成事業の第一期生として採用されることになりました。
もっとも私の派遣先は、南アフリカにある国際民主主義選挙支援研究所(International IDEA)でした。ずっと軍縮の問題を扱ってきた私にとって、選挙支援・民主化支援といった分野は新しいものでしたが、何事も挑戦だと思って仕事を始めました。修士論文で南アフリカの事例を扱っていたことから、同国に対する基本的な知識はありましたし、それが役立ったのを覚えています。ちょうどズマ大統領が当選した時期だったのでそのことについて報告書を書いたり、アフリカ連合(AU)と共同で行われた民主化に関するワークショップへの出張や、選挙の専門家のための育成ワークショップ The BRIDGE Project (Building Resources in Democracy Governance and Elections) に参加し、アフリカでの民主化・選挙支援に関する実践的な活動に関わることができました。
ここでの経験も意義深いものでしたが、やはり自分の専門である軍縮の分野で仕事がしたいという思いは強く、外務省の専門調査員の試験に応募しました。真夏の太陽が照りつける南アフリカから、真冬の雪が降りしきる東京に、南アフリカの友人から借りたコートを持って、強行日程で試験のためだけに帰国したのはたいへんでしたが(笑)、晴れて専門調査員として採用されることになりました。
Q. 専門調査員としてはどのようなお仕事をなさったのですか?
在オランダ大使館で化学兵器禁止条約担当の専門調査員として、4年間勤務しました。具体的には、大使館の化学兵器禁止条約班で産業検証の担当をしました。今年、ノーベル平和賞を受賞したので、世界の注目を浴びていますが、化学兵器禁止機関(Organisation for the Prohibition of Chemical Weapons、以下OPCW)の業務は、化学兵器の廃棄はもちろんですが、化学物質が化学兵器に転用されないように各国の化学産業に対して定期的に産業査察を実施することをも含みます。私はその担当でした。
また、例えば査察申告内容など、化学兵器禁止条約が発効しても調整すべき点がなお多数あり、そのために非公式会合が開催されました。その非公式会合に出席し内容をまとめて外務省に報告をするというのが、日々の仕事でした。OPCWでは年に4回執行理事会と年に1回締約国会議が開催されるのですが、その準備期間は非常に多忙でした。そして結局、専門調査員のポストを2期4年務めました。
Q. そして、JPO派遣制度でいよいよ国連での勤務が始まるわけですね。
勤務先である国連アジア太平洋平和軍縮センターの正規ポストには一度応募したこともあり、以前から関心を持っていましたので、センターにJPOで派遣が決まったのは幸運だったと思っています。仕事を始めて1年が経ちましたが、初めの3か月は、静岡市で開催された国連軍縮会議の担当者として、忙しい毎日でした。国連軍縮会議では、大量破壊兵器に限らず広い意味での軍縮・不拡散、通常兵器や平和教育など幅広い問題が対象になりましたので、スピーカーの選定などでも悩みました。また、本会議の学生のプレゼンテーションに特化した特別セッションではコーディネーターを務め、アンゲラ・ケイン国連軍縮担当上級代表からも評価をいただきました。この大規模な国際会議を3か月の短期間でまとめた後、今はネパールでアジア太平洋43か国を対象とした多岐にわたる企画・運営をしています。
国連アジア太平洋平和軍縮センターでは、国際的な軍縮・不拡散に関する条約、国際約束及び規範の完全実施のための普遍化の促進と実質的な支援の提供といった様々な活動を行っています。また、一般市民の意識を高めるための平和・軍縮教育の促進及び軍縮に向けた国際的・地域的取組への支援を行っています。
現在、大量破壊兵器の問題・小型武器の問題・平和教育という3つの柱に取り組んでいます。国連軍縮会議のような大きな会議の準備をする一方で、大量破壊兵器の不拡散に関する国連安保理決議1540号の履行に関して、地域事務所として何ができるか、今後の方向性について考えています。JPOとして、大きな責任を与えてもらいながら色々なことに挑戦しつつ、キャリアを築いていけることは、とても魅力的です。
Q. 様々な職場を経験なさっていますが、やはり働き方は違うのでしょうか?
基本的には同じだと思いますが、所属先によって求められるものは自ずと違ってくると思います。私の初めの仕事であったNGOでは、情熱をもって企画を立ち上げ、積極性をもって仕事を進めていくやり方を経験しました。一方で、大使館職員という政府の立場で働いていたときは、自分に与えられた役割の中で、創造性を発揮しつつ最大限どのように貢献していくのかということを考えて仕事をしました。今の職場では、アジア太平洋43か国に対してどのような支援ができるかを念頭に、創造的かつ積極的に仕事をすることが求められていますし、NGO出身の上司もそうした姿勢を要求しています。環境が変わればその都度仕事のやり方は違ってきますが、それに自分自身を適応させていきながら、自分らしく努力していくことが大切だと感じています。
Q. 仕事がたいへんなとき、何をよりどころにしていますか?
軍縮の分野はあらゆることに時間がかかって進捗は早くはありません。私は被爆者の方々の通訳をしながら、異口同音に語られる「私が生きている間に核兵器をなくしてほしい」という無私の思いを聞く中で「育って」きました。もともとどうして軍縮問題に携わりたいと思うようになったのかと言えば、それは高校生のときの熱い思いに突き動かされてやってきたからだと感じています。自分の権限・役割はありますが、そこでブレない思いをもって仕事をしていくということがとても重要だと思います。
Q. 学生時代の経験が、仕事で役に立っていると思うことはありますか?
学生時代に関心をもったことが、次につながっていると感じます。例えば、国連でインターンをしていたとき、8月6日の広島での式典で国連事務総長が行うステートメントの下書きを命じられ、やりがいのある仕事だと思って過去の文書を調査しました。その際、2000年以前の国連事務総長によるスピーチは存在しないことが判りました。
このことを上司に伝えたところ、上司も知らなかったと驚いた様子でした。そして、当時、まだ現役の国連事務総長が広島・長崎に行ったことがなかったので、「いつか現役の事務総長が広島・長崎を訪れることができるように働きかけをしたい」と言っていただき、実際に2010年に実現しました。今回ニューヨークに来て当時の上司にも会ったのですが、そのときのことを今でも覚えていてくれていました。自分が調べたことが、何かの役に立ったと実感できることは嬉しいものです。
大学ではESSに所属していました。他の学生がテーマを変えてスピーチを書く中、私は一つのテーマしか取り上げませんでした。それが、私が一番伝えたかった「平和教育の意義」です。具体的には「インド・パキスタン青少年と平和交流をすすめる会」での実体験について書き、核抑止論の論客である父親をいつか説得すると言ったインド人の少女の例などをスピーチに織り込みました。そうした言葉には、短くても強いメッセージを伝える力があります。核兵器の問題も、人類の問題として誰もが共感できるような内容にしたいと思いました。事務総長のステートメントを書く上でも、こういった学生時代の活動は役に立ったのではないかと思います。実は、ネパールに赴任してから半年後、初めてデリーに行く機会があり、13年ぶりに、スピーチで取り上げたインド人の少女と再会しました。彼女は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で国連ボランティアとして働いた後、さらに法律の勉強をするために米国留学を予定しており、その直前に会うことができました。このような嬉しい再会も、仕事のモチベーションを高めてくれます。
Q. これからのご自身の展望をお聞かせください。
そうですね、今までもそうなのですが、まずは目の前の仕事をしっかりやりたいと思いますし、それが次につながっていくと感じます。これから、あと1年はネパールの事務所にいますので、その間にじっくり考えたいと思います。
Q. 荊尾さんにとっての理想の国際社会はどのようなものですか?
私の友人は、多種多様な背景を持っていて、自然と多様な文化を受け入れられるような、そういう関係です。ですので、国際社会においても、多様性に対して排他的な態度ではなく、許容していけるような社会になって欲しいと思います。国連の魅力とは、いろいろな価値観や歴史的背景をもった人たちと、共通のゴールを目指して切磋琢磨していきながら仕事ができる点にあると思っています。違う国から来た人や異なる分野に興味を持っている人と一緒に仕事をすると、とても良い刺激になります。
Q. 国連職員として途上国に関わることも多いと思います。求められることは何ですか?
やはり、人間は平等であるという視点、これはどこに行っても大切です。また、地元の人に教えてもらうという姿勢が大切ですし、そういう姿勢でいると良い関係を保つことができると思います。
それと、生活環境的に大変なところはあります。例えばネパールでは冬に約16時間の計画停電がありますから、計画停電に合わせた生活をしなければなりません。これは初めはチャレンジだったように思います。けれど、そういう厳しい状況でまず何ができるのか、現場の環境の中で対応していく必要があると思います。
その意味で、平和構築に参加したいと思うようになったきっかけも、ハイレベルの政治だけではなくて「平和を構築していくには現場で何が必要なのだろうか」と考えたことでした。だからこそ平和構築人材育成事業に参加したのですが、実際に現場で企画を立ち上げるという部分では、つながっているのではないかと思います。
Q. 仕事をしていく中で、理不尽なことを感じることもありますか?
そうですね・・・。国連に来て初めの3か月は、本当に忙しかったですし、気負っていた部分もあったように思います。私の今の直属の上司はとても細やかで気が利く人なのですが、必死に国連軍縮会議の準備をしていたときに直前になって「お土産はどうなってる?」と聞かれたことがあります。もちろん仕事の相手を気遣うことは大事です。でも極限まで追い詰められて仕事をしていたので、そのときは「お土産のことまでできません」って涙が出てきました(笑)。その後、「この会議はあなたにしかできない、この会議の後、皆からあなたの評価を聞くことになると思う。」と言っていただき、結局お土産のリストまでは作って、後は任せました。
でも、ストレスはあまりためないようにしています。今は、外から先生を呼んで国連で週に2回ズンバのクラスをやっています。ボリウッドみたいな感じで楽しいですよ(笑)。
Q. 最後に、これから国際社会を舞台に仕事をしたいと考えている人に、メッセージをお願いします。
やはり、自分の専門性を深めていって、そこでがんばっていくのが一番だと思います。私も、仕事にやりがいを感じる瞬間とは、信念を持って関われる仕事をしているときです。日常の仕事や定型的な作業であっても、それが平和や軍縮につながっていくのだと思えば、モチベーションが高まります。その人自身ができることをやっていく、自分の持っている強みを発揮してベストを尽くす、ということだと思います。
2013年10月31日、ニューヨークにて収録
聞き手:橋本仁
写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:田瀬和夫
ウェブ掲載:田瀬和夫