本田容子さん
国連世界食糧計画(WFP)日本事務所 支援調整官
本田容子(ほんだ ようこ):東京都出身。日本の大学卒業後、英国マンチェスター大学 Institute for Development Policy and Management にて、農村開発管理と経済学修士号取得(2000 年)。帰国後、日本の政府系銀行国際 協力部において、東南アジアにおける農村金融の調査、ラテンアメリカの中小企業を対象とした品質管理の研修・出版プロジェクトにかかわる。 2003 年 11 月より JPO として WFP・モザンビーク事務所にプログラム・ オフィサーとして勤務、主に洪水の被災者に対する緊急食糧支援プログラ ムと、Food for Work (労働の対価としての食糧援助) を担当。2006 年 12 月より WFP アフガニスタン事務所にて Pipeline Officer、2010年より現職。 |
Q. 国連で働くようになったきっかけを教えてください。
私のキャリアは若いころから国連を目指す学生さんとは少し異なります。大学の時は、英米文学を専攻し、普通の大学生生活を送っていました。
知人の紹介で大学3年生の時に、日本に住む外国人に日本語を教えるボランティア始めました。たまたま私の生徒となったフィリピン人の女性は、開発学の修士号持ち、当時はNGOという言葉がまだ新しい時代でしたが、JANIC(国際協力NGOセンター)に勤めていました。その女性ととても親しくなり、後に、フィリピンでホームステイをしたのがきっかけで、フィリピンの貧困問題や開発問題について自分の肌身で感じるようになりました。
そしてそのまま日本で就職するよりはより新しい分野を勉強してみたいと思い、卒業後は農村開発学を勉強しにイギリスへ行きました。同じ時期にJPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)の事を知り、将来自分の勉強が生かせるのは国連の場ではないかと意識するようになりました。
当初は修士号の取得後すぐにJPO試験を受験しようと考えていました。しかし、私が大学院を卒業するころにその条件が変更になり、2年以上の職歴が必要になっていたのです。職歴がなかった私はできるだけ開発に関係のある職種に就きたいと思い、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)国際協力部の臨時職員面接を受けました。
偶然、面接を担当した方(後の上司)が世界銀行に出向していた経験を持つ人で、フランス語と英語に堪能で、国連の仕事にもとても理解がある方でした。自分は途上国の農村金融やマイクロ・ファイナンスに興味があり、2年間みっちり修行できる場所を探していると言ったら、リサーチ・アシスタントとしての仕事をオファーしてくれました。
それから2年間は、上司がJICAミャンマー政策構造調整支援プログラムの金融部会の委員だったこともあり、ミャンマーや近隣の東南アジアの国々に度々出張し、農村金融やマイクロ・ファイナンスの調査・政策提言などの補佐を行いました。世銀という国際舞台で活躍した経験を持つ上司からは、膨大な英語の資料を読み込み、それをまとめるレポートの書き方から、時には電話やメールでのやりとりまでみっちり指導を受けました。
仕事を通して、途上国の政府高官との交渉や、やり取りを垣間見ることができたことは、後に国連職員としていろいろな場面で必要とされるコミュニケーション力や交渉力に活かされていると思っています。厳しい指導の下、毎日が勉強で大変でしたが、大学院で勉強した理論を実践する場が与えられたことはとても貴重な経験でした。そして2年後にJPO試験を受け合格しました。
Q. なぜ英米文学専攻から大学院では農村開発経済学を学ぼうと思ったのですか。
学部の専攻は英米文学でしたので確かにまったく別の分野ですね(笑)。大学院では、農村開発学と農村開発経済学の両方を学ぶことのできるプログラムに入学したのですが、農村開発学を選んだのは、まず世界の食糧問題について関心があったからです。根本的な食糧事情や食糧不足について考えた時に農業やそれを取り巻く途上国の貧困問題や開発について学ぶべきだと思いこの専攻を選びました。幅広くミクロからマクロまで、また経済だけでなく人口学や公共政策なども学びました。
Q. JPOではどちらの国に行かれたのですか。
国連WFPのモザンビーク事務所に派遣されました。最初はFAO (国連食糧農業機関) を希望していたのですが、派遣先がローマ本部しかないということで、フィールドに行くことができる現場重視の国連WFPを選びました。特に、食の安全保障について考えた時に、その当時南アフリカが干ばつでとても大変な状況でしたので、その実情を自分の目で見たいと思い、アフリカに行くことを希望しました。モザンビークではプログラム・オフィサーとして職務に就きました。労働の対価としての食糧支援(Food for Work)という事業と、UNICEF(国連児童基金)と共同で実施していた栄養強化プログラム(supplementary feeding)という事業の担当をしていました。
モザンビークで大変だったことは、ラテンなところですね(笑)。モザンビークはポルトガル文化圏で、日本の規則正しい文化とはだいぶ異なっていました。例えば午前8時半開始の会議に、9時15分頃にぞろぞろと参加者が集まってくるということもしばしばありました。その環境に慣れるまでに2、3か月間かかりましたね。私が些細なことで怒った時には、「なんで怒ってるんだろう?」と不思議そうな顔をされてしまったこともありました。
でも数か月経つとその環境にも慣れ私も肩の力をおとして自分を出しながら仕事ができるようになりました。「みんな遅れてくるから、私も遅れていこう」という感じで、ストレスはあまり感じなくなりました。ですので、よくも悪くも現地に慣れてしまって、日本に一時帰国した時には母との待ち合わせに遅刻して、逆に怒られてしまうということもありました(笑)。
新しい言語であるポルトガル語で仕事・生活をすることも大きなチャレンジでした。時にはWFPを代表して現地政府との会議やワークショップで発言や発表をしなくてはならないこともあり、そのような時はポルトガル語を母国語とする同僚に深夜まで付き合ってもらい、一語一句暗記して臨むようなこともしばしばでした。モザンビーク人はとても大らかで寛容な人が多く、私が片言のポルトガル語で発言してもそれを問題視する人はいなくて、むしろ努力をかってくれる人が多かったことに助けられました。
Q. JPOでの2年間が終わった後は、どのようなキャリアを歩まれましたか。
同じく国連WFPでの勤務を選び、アフガニスタンに正規職員として赴任しました。パイプライン・オフィサーという役職で、食糧のサプライ・チェーンを担当しました。食糧を必要なときに必要な場所に届けるという、受益者の手元に食糧が届くまでの一連の過程を扱う仕事です。最後のほうはドナー調整官という任務も仕事の一部になり、現地で主要ドナーと交渉し拠出金を集めることから、その拠出金を国際調達に回して食糧を購入し、購入した食糧の輸送をロジスティックス部と調整して国内へ輸送し、最終的には国内に届いた食糧を必要な時期に必要な地方に配るという、一連の流れを最初から最後までみるポジションにつき、大きなやりがいを感じました。
パイプライン・オフィサーという職務は国連WFP特有ですが、現地の国連WFPオペレーション全体を見渡すことのできる役職でした。当時のアフガニスタンは治安が非常に悪く、また干ばつの悪化で食糧事情が危機的な状況で、いつも緊張と隣り合わせで仕事をしていましたが、チームワークのとても良い職場で居心地がよく、3年半近く滞在しました。
資源動員の部署のチームリーダーとして赴任したのですが、JPOのときよりも裁量も大きく、自分のやりたいことを実現できる環境でしたね。周りはアフガニスタン人の現地職員だったのですが、皆、とても仲が良くて信頼できる人々に囲まれて仕事ができました。現場で上手く仕事をするには現地職員といかにうまくやっていくかが鍵になると思うのですけども、それが本当にうまく実現できたチームでした。人と人とのコミュニケーションですね。
アフガニスタンの現地職員は、タリバン政権下では難民としてインドやパキスタンで教育を受けた人たちでした。皆、愛国心もあって優秀な方たちでしたね。彼らとの関わり方として、職員としてだけでなく一個人として関わったことがが、チームとしての結束を高めたのかもしれません。赴任中には自分の部下のお兄さんが自爆テロに巻き込まれて亡くなったりという悲しい出来事もありましたが、そのような事態もチームで乗り越え、個々の事情を分かったうえで一緒に仕事をしていくことが、チームワークを円滑に進めるうえでとても大事だと実感しました。
例えばアフガニスタンでは、治安があまりに悪いから、外国人の番号は携帯電話に入れられない。道端で呼び止められて、携帯を調べられたときに外国人の名前が入っていると、「お前は国連側だ」「NATOよりだ」ということで身の危険にさらされる場合がある、という話を聞いたことがあります。そのようにアフガニスタンのような国では、自分や自分の家族にリスクを負いつつ仕事をしている方が多いので、そういう事情を含めて理解しあって一緒に仕事をすることの大切さを知りました。
誰にでも言えることですが、自分や自分の家族の安全が確保されないと安心して仕事をすることができないですよね。だからアフガニスタンのような危険な国では、日本みたいに9時5時で必ず働かなければならないというわけではなく、危険な場合は自宅勤務にするなど、柔軟に考えて環境をつくることが必要なのだなと痛感しました。
現地では、国連WFPの合同宿舎に寝泊りをしていました。職場で毎日顔を合わせる同僚と、寝泊りも共にするのは、慣れるまでは少し抵抗がありましたが、多くの職員は同じような緊急地域で働いてきた経験のある人たちだったので、朝食や夕食の時間には、彼らの過去の経験や秘話などを聞く機会もあり、まるで家族のような親近感を持つことができるようになりました。
緊急の現場の場数を踏んだ職員は、公共の場での時間と、自分のプライベートな時間を上手く調整して過ごしていたように思います。状況が大変であればあるほど、冗談などで上手な雰囲気作りができる人が多かったですね。治安が悪く、職場にも行けないような日に、職員同士が士気を高く持っていられるようにと、宿舎で楽しいイベントを企画するような人がいたのはさすがだなと思いました。
宿舎の地下には緊急時に備えて防護シェルターがあるのですが、普段はそこをジムとして使っていました。アフガニスタンではテロや誘拐の恐れがあるため、職員は宿舎と職場以外は特別な事情がない限り外出することはできません。自由に家の外に出て運動ができない環境の中、自分の健康に気を使って運動を欠かさない職員も多かったように思います。私は同僚とアフガニスタン人の空手の先生について、週に一回空手を習っていました。外出ができないのでついつい仕事だけの毎日になってしまいがちですが、新しいスポーツに取り組めたことはとても良いリフレッシュになったと思います。
Q. 現地職員と仕事をする上で気を付けていたことはありますか。
自分の価値観をできるだけ前に出さずに、相手の育った環境や考え方をより理解するように努力することかもしれないですね。一方で、思っていることは、思っている(心に留めておく)だけでなく言葉に出してみるというように自分の考え方も相手に伝わるように努力しました。文化や価値観の違う国では、自分が当たり前と思っていることが当たり前でないことが多々あります。これは、現地職員とだけでなく、現地で生活を送る上で関わる様々な人とのやりとりにも共通しています。
大学院でイギリスに留学するまでは海外で生活した経験はありませんでしたが、両親が異文化にとても寛容であった影響で、もともと異文化交流には興味がありました。自宅に留学生がホームステイしているような環境で育ったため、それほど違和感を感じることなく国連での仕事を始められました。ですので、海外の人ともそれほど意識せず、素の自分のまま接することができたと思います。私は最終的には人と人との関わりだと思っていますので、どこに行ってもステレオタイプは持たずに人と接していきたいと思っています。
Q. 日本事務所に異動した経緯と、日本事務所でのお仕事の内容を教えてください。
アフガニスタンでの勤務の後に、無給休暇(leave without pay)という国連の制度で8か月間の長期休暇を取得しました。3年以上も危険な国に赴任し、ほぼ毎日24時間、国連WFPという日々を送ったので、一度国連WFPから離れて、別の生活を送ってみたかったのです。ただ不思議なもので、離れてみると気になるのはBBCに映る国連WFPの世界各地での活躍ぶりで、数カ月も経つとまた戻って仕事をしたいと思うようになっていました。ちょうど同じ時期に日本事務所に空席ポストがあり、内部の採用プロセスに応募した結果、合格し現在のポジションに異動してきました。日本に赴任して現在4年目です。
日本事務所での私の仕事は、一言でいうと、日本政府から国連WFPへの拠出金を頂くといういわゆる営業です。国連WFPは緊急時には真っ先に現場で支援を開始しますが、任意拠出金で賄われている国連組織であるため、事業経費はドナー国からの拠出金によって支援されています。ですから、世界のどこかで緊急事態が起こった場合は、正しい情報を真っ先に入手し、主要ドナーである日本政府に支援要請を行う必要があります。
緊急事態は前もって予測ができませんので、いつもアンテナを張って必要な情報収集をしています。また日本政府からの予算が当初の目標通りに使われているか、事業変更を行う必要があるか、など、拠出金のフォローアップも行っています。国連WFPは食糧支援だけでなく、輸送のスペシャリストとして国連機関を代表して活動していますので、幅広く国連WFPの活動を紹介することもあります。また日本政府だけでなくJICAや日本のNGOなどの開発関係団体との関係を構築するのも私の職務に求められていることの一つです。日本政府との交渉の際に、国連WFPの活動がよりよく理解され、省内で高く認知して頂けるように、有益な情報を選んで政府の担当の方に提供するのが私の役目です。
国連WFPの活動を日本政府に伝えるためには私自身が現地の状況を熟知していなければなりません。そのためには現地で活動している国連WFPとの連携が不可欠です。また現地にいる国連WFP職員への対応の際には、彼らが日本からの拠出金をより必要な人に必要なときに届けられるよう、日本政府との橋渡しを円滑に行うことも私の重要な役目の一つです。アフガニスタンにいるときは一つの国の中でそれを見ていましたが、同じような一連の流れを、今はより広い視点で見ることができていると感じています。
Q. 今、2歳3か月と生後6か月のお子さんがいるとのことですが、どのような時期にご出産されたのですか。
子どもは2人とも日本で生まれています。1人目の長女を産んで、産休を2か月伸ばし、職場復帰をしました。その年の後半にシリアでの状況が悪化し、暫定任務(TDY: Temporary Duty) でシリアとシリア近隣の難民オペレーションを統括しているヨルダン事務所に4か月間行くことになりました。そして、声がかかってヨルダンに行く準備をしているときに、2人目の妊娠が判ったのです。一瞬どうしようかと迷いましたが、上司に相談したところ、普通に仕事ができるんだから問題ないのでは、というもっともな助言をもらい、ヨルダン行きを決めました。小さな子連れということもあり、最初は不安もありましたが、エジプト人の夫の協力を得て無事に任務をこなすことができました。
娘は日本と同じように現地の保育園に通いました。慣れるまでに1-2週間かかりましたが、最終的にはアラビア語の環境にも慣れて、新しい環境の中楽しく過ごすことができたと思っています。妊婦が飛行機に乗れる最終の妊娠周期に日本に帰国して1週間だけ出社し、出産しました。
今回、妊婦でありながらぎりぎりまで仕事をしたのには、ヨルダンで出会った国連WFPの職員たちの影響があります。私がヨルダンに行ったとき、事務所では数名の職員がお腹が大きい中働いていました。シリアのオペレーションが緊急であったということもあり、職員は日夜働いている状態でしたが、皆、お腹が大きいことをハンディともせず、自分のペースで出産直前まで仕事をしていました。
体に負担をかけて無理をして働いているというのではなく、自分の体調を見つつ、自分のスタイルで仕事をしているということです。国連には育児休暇がなく、産休は産前・産後合わせて16週間です。ですから、生まれる直前まで働けばより長い間、生まれたあと赤ちゃんと過ごせるということなのです。私もそのような環境の中、自分が妊婦であることをさほど意識せずに、健康管理には十分注意しながら、日本事務所とはまた違った現地の事務所で、久しぶりの緊急支援に携わることができました。
Q. これからのキャリアプランについてはどうお考えですか。
子どもが小さいうちは家族を同伴できる赴任地に行きたいと考えています。国連WFPは緊急援助が主であり家族を同伴できない単身赴任地が多いので、家族が同伴できるようなところは内部公募も多く、競争倍率がとても激しいのです。今後、いかに内部公募で行きたいポストを確保できるか、組織内で必要とされる知識や技術を磨いていくことも大切だと思っています。
私は、数字に関係することが好きなので、資源動員などのポストを狙い、強みである数字に対する能力を高めつつ、家族同伴勤務を追求したいです。もともと現場が好きなので、子どもが大きくなったら単身赴任地に戻りたいなとも思っていますが、まだまだ先の話なので、それは今後家庭と仕事のバランスを見つつ考えて行きたいと思っています。ある程度子どもが大きくなったら、一度、私の仕事の現場に連れて行って、私の仕事を目で見てもらうことが小さな夢です。
子育てに関しては、絶対に外せないところは押さえておいて、あとは「完璧を目指さなくてもいい」と自分に言い聞かせるようにしています。少しできないことがあっても、私が笑っていられればいいなと肩の力を抜くことを目指しています。育児ではここは外せない(例えば私は完全母乳で育てることを目標にしています。)など譲れないところは譲らずに守って、そのほかのところは多少は妥協するというふうに割り切ります。今回、職場復帰にあたり、上司に相談して職場に授乳室も作ってもらいました。
国連WFPは、子どもを育てる母親たちにとってはいい職場だと思います。授乳室の設置や子どもが急な病気になった際の自宅勤務などを、自由に相談したり交渉できる環境があるというのはとても恵まれていると思っています。特に上司に理解がある職場はとても魅力があります。国連WFPは授乳中の母親は子どもが1歳になるまでは日中の授乳時間の分だけ早く帰宅することができるため、現在は午後3時半に帰宅させて頂いています。早く帰宅しても仕事の量は前と変わらないので大変ですが、職場でできない仕事は、夜の授乳の合間にできるだけ消化するように努力しています。
私の仕事は日本とは時差がある西アフリカやローマ本部とのやり取りも多いので、夜中に仕事をすることのメリットを感じることもしばしばです。事務所の同僚やチームメンバーにはいろいろな面でご迷惑をかけていますが、みんなに暖かく見守って頂いて、過ごしやすい環境の中仕事ができていることをとてもありがたいと思っています。
Q. 国連で働くことのやりがい、また難しいと感じるところは何ですか。
現場に行ったとき、自分の仕事がどういう人たちのどういう生活に繋がっているのかということを見られる瞬間は、特にやりがいを感じますね。日常の仕事では受益者数や支援対象者数が数字として机上にありますが、現場にいると数字が一人ひとりとなって現れてきます。毎日の仕事では例えば一万人が食糧不足にある、と簡単に提案書に書くわけですが、実は、その一万人の一人ひとりにストーリーがあり、家族がいて顔があるわけなんです。現場から離れていると、ついつい数字が先走ってしまい、そのことを忘れがちになってしまいますが、現場に行くとその一人ひとりの重みが感じられるのです。襟を正して、またがんばって行こうと思う瞬間です。
逆に国連で嫌いだなと感じるところはお役所的なところですかね。仕方ないことではあるのですが、一つひとつプロセスに則らないとという雰囲気があります。現場にいると「緊急性」と「ニーズ」に対応できるよう柔軟に仕事をする必要がある一方、本部では「プロセス」をきっちり固めてからという動きがあります。ドナー国がいて、国連のルールがあって、そのなかでいい仕事をしようと思うと、緊急の現場では、自分の判断と「常識」をもとにリスクを負って決断しなければならない場面があるのです。そこがジレンマでもあり、国連で仕事をする上で大変なところでもあります。
国連WFP日本事務所はどちらかというと「プロセス」を重視する立場ですが、私自身フィールドを経験しているからこそ、今の仕事である資金調達の業務にも活かすことができていると思うことが多いです。例えば、日本の政府に現場の状況を共有する際には、現地の細かな状況を(実体験として)理解し、細かな説明ができることが必要不可欠です。日本政府からの拠出金を現場で使っていますので日本政府とはもちろん、現場とは顧客志向の視線でコミュニケーションをとり、いつでもどの政党にもきちんとした説明がとれるように心がけています。そのために、私の勤務時間の半分くらいは現場との連絡に充てています。
Q. 国連職員に求められる素質とは、また20代でやっておくべきことは何ですか。
広い視野を持った人になることでしょうか。様々な経験を持った人々を理解することが大事だと思います。キーワードをあげるとしたら、「柔軟性」と「想像性」です。国連で働くことを最終目的にするのではなく、「自分のやりたいこと」を思い切り追究することが大事だと思います。その結果、国連に勤めることになっても、勤めないことになったとしても、最終的には自分の人生の役に立つと、私は信じています。
Q. 本田さんにとって国連WFPとは、何ですか。
ライフワークだと思っています。国連WFPには、一度入ったらずっと勤務し続ける人が多いんです。とっても温かい文化がある組織ですね。また、勤めてから一生涯の友人に会えたことは大きな財産です。職場としての魅力もさることながら、人として個人として魅力的な方たちに出会える場です。
それに加え私は、国連WFPだけでなく、どんな現場でもどんな組織にいても通用するような、プロフェッショナルとしての流動的なスキルも磨いていきたいと思っています。
2014年11月5日 東京にて収録
聞き手と構成:西崎萌、木曽美由紀、松浦航
写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:田瀬和夫
ウェブ掲載:田瀬和夫