橘星香さん
国連本部広報局 国連ツアーガイド
橘星香(たちばな・ほしか):日本人と韓国人の両親のあいだに生まれ、多感な幼少期をシンガポールで過ごす。高校を2回転校し、フリーランスとして数年働いた後、ニューヨークの大学に進学。在学中に国連日本政府代表部にてインターンを経験する。現在国連広報局のツアーガイドで、日本語、英語、中国語の3か国語で案内が可能。 |
Q. 現在なさっているお仕事について教えてください。
国連本部広報局でツアーガイドとして働いています。国連本部にビジターとして来られた方々に対して、国連の歴史、設立の背景、そして実際に国連本部ではどのようなことをしているかなどをお話ししつつ、国連本部内ご案内することが主な業務内容で、私自身は英語・日本語・中国語の三か国語でのガイドを行っています。
ツアーガイドは、事前の研修でみっちり国連の基礎を叩き込まれ、研修後には国連にまつわる様々な情報を1時間に凝縮してお伝えすることができるようになっています。国連職員にはツアーガイド出身の方も多く、みなさんガイドの仕事で国連の基礎を習得したうえで、専門性を身につけていかれます。そのような意味では、この仕事は国連職員への最初のステップとしての一つの選択肢かもしれません。
国連ガイドの運営は、加盟国からの出資金から分配されるのではなく、訪問される皆様からの収入をもとに成り立っています。2015年の上半期は国連本部の一部が工事していたこともあり、訪問者数を制限していたため運営が厳しかったのですが、無事工事も終わり、現在では嬉しいことに収益が増加しており、ここ数ヶ月で職員が1.5倍ほどに増えています。
私はその中でも、「Staff Representative」 という職員の代表をしており、マネジメントの決定事項に対して、職員の意見を取りまとめて伝えるという役割も担っています。ツアーガイドは基本的に3か国語、またはそれ以上を操る多国籍なメンバーで構成されており、多種多様なチームをまとめるのは大変ではありますが、お互いの意見を言い合える環境が整っていますし、やりがいのある仕事であると考えています。
仲間たちと仕事をしていていつも思うのですが、同じ話題でも自分が思いつかなかった発想に出会うことが多く、同じことを色々な角度で見られる点がこの仕事の醍醐味かなと感じます。ツアーガイド同士は非常に仲が良く、各メンバーの母国のご飯を食べに行くなど、ただの同僚としての関係を越えて友人としても非常に良い関係を築いています。
Q. 様々な国からビジターが来られると思いますが、今までたいへんだったご経験をお聞かせください。
ツアーガイドは高い学歴を手に入れてまでする仕事なのか、と考えられる方も、もしかするといらっしゃるのかもしれません。実際に、「普段は何をされているんですか」 等、あたかもボランティアでこの仕事をしていると受け取られているかのような(笑)質問をされることもあります。しかし、私たちはガイドとして業務を開始する前に専門性の高いトレーニングを受けていますし、それ以外にも毎朝チームのためにブリーフィングがあり、その日にどこの国でどのようなことが起きたかについて、専門家や実際に現場を経験された方などをお招きして、理解を深めるとともに、国連ツアーガイド・チームの見解を共有しています。
ツアーガイドは、一般の訪問者に対して国連の代表としての役割を担っているため、私たちが間違ったことをお話してしまうと、それが国連の立場として理解されることになってしまいます。そのため、お話しする内容には細心の注意を払っています。国連そのものの説明は勿論のこと、参加者からの様々な角度からの質問についても的確に対応する必要があるため、ツアーガイドとして備えている知識は結構なものとなります。
随時更新される情報をキャッチアップしていくことは容易ではなく、時には「なぜ私にこの話題を聞くのか・・・」 というような個人的な質問を含め、回答に窮するような質問をいただくこともありますが、一方で、国連職員の方からも専門的な質問をいただく等、周りの職員からも信頼いただいている仕事であるので、とてもやりがいを感じることがあります。
Q. なぜ国連職員を目指そうと考えられたのでしょうか?
幼少時にシンガポールに住んでおり、家族旅行等の際には、インドネシア、タイなどの近隣諸国に行っていました。その際に、「自分よりも小さい子どもたちが道端で一生懸命仕事をしている」 という事実を目の当たりにし、家族がいて、家もあって、学校にも行けて、食べ物もある。そのような、経済的に不自由のない自身の生活と、そうではない人たちの生活について、幼いながらにも考えるようになりました。
自身がたまたま運が良く、現在の両親の下でこの国で生まれ育ったからこそ今の自分があるけれども、もしかしたら、たまたま生まれた場所や家族が違えば、彼らと同じ生活を強いられていたかもしれない。そして、運よく今の生活を手に入れている自分が、そのような人たちを助ける役目を担う必要があるのではないか−−そのようなことを考え、両親と会話した際に「国連」 の存在を知り、その時以降、「国連で働くこと」 が私の夢であり目標となりました。このような考えに至ったもの、自身が育った環境が影響していると思います。もしかすると、日本で生まれ育っていたらこの事には気付かなかったかもしれません。
高校を卒業し、フリーランスとして数年働いた後、ニューヨークの大学に進学しました。これもやはり、夢である「国連」 に近づくということが念頭にありました。自分の身を「国連」 があるニューヨークという場所に置いたら、もしかしたら国連職員や国連に関する何かに出会えるかもしれない、そう考えての選択でした。ただ、親が苦労してお金を稼いでいる姿を間近で見てきたということと、やはり私立大学は授業料が高いため、両親と相談のうえ、市立大学を選び、授業料を無駄にしないよう、きちんと学業に専念できそうな大学を選択しました。政治と経済のダブルメジャーを選考しており、留年する人も多い中、すべての単位を3.5年でとり終えたことは、自分の中で誇りだと思える点です。
在学中は、ニューヨークの地の利を生かして、「国連」 に関すること、例えば模擬国連や国連職員にお会いするなど、あらゆるイベントに参加しました。国連本部でのインターンを探していたのですが、当時は残念ながら大学院生しか受け付けていませんでした。それでは、日本からみた国連はどうか、と考えたとき、外務省の国連代表部は大学生にも門戸を開いていることに気付き、運よく国連代表部でのインターンの機会を手に入れました。
国連代表部のインターンでは、経済部に所属し、経済にまつわる会議等に出席し、議事録を取るなどの仕事をしていましたが、長年夢に見ていた国連の仕事は自分が思い描いていた内容とは、正直少し違うように映りました。あまりにも自分が国連を理想化しすぎていたため、例えば、出席している各国の関係者が必ずしも議論に熱心ではなかったり、また、どの国も世界平和を求めているけれども、自国の利益を考え始めた瞬間に、利害が異なり、議論がなかなか先に進まなくなってしまう、というような現実を目の当たりにし、「自身が理想化していた国連と、現実の国連は違う」 ということにショックを受けたのも事実です。
インターンを経て、自身が思い描いていた国連の理想と現実のギャップに悩み、正直、目指すべき道は国連ではないのかもしれない、他の民間企業等に就職して経済力を手に入れることで、もっと人を助けられるのではないか、と考えた時期もありました。しかし、自身が見た「国連」 は、数ある側面からみた内の一つの側面でしかないかもしれない、そう感じることもまた事実でした。
また、個人的にニューヨークがすごく好きで、卒業後もニューヨークに残りたいという思いもあったため、様々な方とご相談させていただき、フリーランスとして働いていた際の経験を生かせる、「国連本部のツアーガイド」 という仕事を紹介いただき、応募することにしました。運良く書類が通り、実際に面接をし、すっかり面接をしていたことを忘れてしまっていた頃に国連から次のステップの連絡が来る、というプロセスを繰り返し(笑)、最後にオファーを頂くに至りました。
実際に働いてみて、インターンをしていた時の視点とは違う景色が見えています。先日も国連総会があり、国連代表部インターン時の日本の代表としての視点と、現在の国連職員としての視点、その両方の視点で「国連」 を見ることができるということはとても幸せですし、ほとんどの人が経験できていないことを経験できているという意味で、現在の仕事を誇りに思っています。
Q. 現在の国連でのガイドのお仕事に繋がっているフリーランスとはどのようなお仕事だったのでしょうか?
シンガポールで幼少期を過ごした後、日本の高校を卒業し、父親の仕事に関連して、フリーランスとして通訳と翻訳の仕事をしていました。主に東南アジアを拠点にしており、父親の知人が仕事柄取り扱っている商材を取引先の現地社員に説明する等の業務に携わっていました。今振り返ってみると、若いながらに、色々なことを経験させてもらったなと思っています。当時は20歳前後であったこともあり、最初はあまり相手にされなかったり、競合に嫌がらせをされるなど、良いことばかりではなく、辛いこともありましたが、この時に「大人の世界」 を垣間見ることができて良かったと考えています。
一緒に仕事をしていた父親とは、よき仕事仲間としていろいろな相談をし合ったり、苦楽を共にすることで様々な壁を乗り越えていくことができました。自身の頑張りが認められて幕張メッセで1万人に対して同時通訳をさせていただいたこともあります。今の自分の仕事があるのも、このときの経験があったからこそだと思っています。
Q. 橘さんのお話をお伺いしていると、幼い頃からの「意志の強さ」 のようなものを感じますが、どのような幼少期を過ごされたのでしょうか?
今振り返ってみると、私自身も最初から自分の意志をはっきり持っていたわけではないと思います。幼少期にシンガポールに住んでおり、父親の仕事の関係上転校することが多くありました。「シンガポール人ではない」 というだけでいじめのターゲットにされることもあり、泣いてばかりいた頃もありますが、いつからか周りに言われるまま、流されるままではダメだと考えたことが転換期になったかもしれません。
そこからは、自分から進んで声をかけていくことを学び、幸いなことに今では多くの友人がいますし、国連に勤務している警備員とも仲良しです(笑)。また、声をかけることもそうですが、自分で物事を考え、積極的に実行していくこともこの過程で習得したと思います。自分でどこか、「反骨精神」 みたいなものがあるような気がしていますし、高校を2回転校したのも、その考え方が顕著に出ている気がします。
Q. 高校を2回転校されたのですね − それは、なかなか容易な決断ではないように思いますが、どのように考え、そのような決断をされたのでしょうか?
シンガポールで中学校を卒業した後、日本の高校に進学することにしたのですが、毎年方針が変わり、結果として2回転校しました。1年目は国際教養と外国語が学べるというカリキュラムに魅かれてとある高校に進学したのですが、実はその高校は地域で一番と言われるヤンキー高校でした。大学進学を考えた際に、「ドラゴン桜」 に触発されて、学校の時間外に先生に頼んで勉強をしたりもしていましたが、やはり周囲の環境が重要であることに気付き、もっと勉学に集中できる環境に自身の身を置きたいと考え、2年目からは厳格で有名な私立高校に転校しました。
2年目の学校では、在学中に合格率の低い(当時は9%)と言われている国連英検特A級に合格する等、幸いにも「模範生徒」 として表彰されることもありましたが、ふとした瞬間に学校の教育方針に疑問を持ち始め、この学校を「卒業」 したくない、と考えるようになり、その学校を退学し、3年目からは通信制の高校へ進学しました。通信制の学校に通っている合間に、何かバイトをしようと考えたところ、「自分の将来のためになるバイトをしなさい」 と父から助言を受け、知人の紹介で学習塾の講師をしていました。五教科(国数社理英)を担当していたのですが、小・中学生をシンガポールで過ごしており、日本語で習ったことのない教科を、子どもたちに教えるのは非常にたいへんな仕事でした。なのでもうやりたくありません(笑)。
反骨精神と関係があるかは分かりませんが、私自身は日本人と韓国人との両親の下で、そしてシンガポールで育ったこともあり、「自分が何人なんだろう、何人でもない」 と、自分を何かの枠に当てはめたくて、でも当てはめられなくて、葛藤していた時期がありました。ですが、高校卒業をしたくらいの頃に「自分は国際人として生きていこう」と思えるようになり、現在は、どこか一つの国に絞るわけではなく、日本と韓国のハーフでシンガポール育ちであることを堂々とお伝えするようにしています。
Q. これまでのキャリアの重要なタイミングで、「お父様」 の登場が多い気がします。橘さんにとって、「お父様」はどんな存在ですか?
父とは仲良しです。少し変わっていて愉快な人ですが(笑)。また、一緒に仕事をし、苦楽を共にしていた時期があるということもあり、何でも相談できる仲です。一緒に仕事をしていて嫌になることはないのか、と聞かれることもありますが、それはまったくありませんし、むしろとても楽しくて良い経験ができました。今でも父の仕事の相談を受けることもあります。
一方で厳しい父親という側面もあり、「勉強しないなら仕事をしなさい」 というようなことをいつも言っている人でしたが、私の人生の重要な岐路、国連を目指すようになったこと、高校を転校したこと、フリーランスとして働いたこと、ニューヨークの大学に進学したこと等々・・には、いつも父の的確なアドバイスがあったと思います。現在の国連でのツアーガイドの仕事も、正直なところ引き受けるかどうか少し躊躇する部分があったのですが、「国連で働ける機会はそう簡単に巡ってくるものではないから、働いてみたらどうか」 と、自分の背中を後押ししてくれたのは父でした。父にはいろいろ迷惑をかけていますが、すごく感謝しています。
Q. これからのキャリアプランをお聞かせください。
最終的には、みんなが少しでも幸せに生活できる世界を創りたいと考えていて、そのためには経済や社会の発展が必要であるため、その方面で何かできることがないかを模索しています。自身の経験として数字が比較的得意なことが分かってきたので、政治方面ではなく経済方面に進んでいくことができればと考えています。国連でこのまま働く機会があればそれはすごく嬉しいですが、必ずしも国連である必要はないと思っていますし、国連の外で経験や実力を培った後にまた国連に戻ってくることもあり得るでしょう。自分でもこれから自分がどのような道を拓いていくことになるかまだ想像ができていないですが、非常に楽しみです。
Q. 最後に国際的な問題、開発・紛争に関わりたいと思っている次の世代の読者の方々へメッセージをお願いいたします。
「目標があれば人間は何でもできる、目指す道は必ず拓ける」 ということをお伝えしたいと思います。目標があってがんばり続けていると、どこかでそれを見てくださる方がいらっしゃいますし、ありたい姿や夢というものをまず「意識」 していくことで、自分の情報に対する感度が上がっていくように思います。私自身は、「国連で働く」 という幼少期からの夢を叶えるためにニューヨークの大学に進学しましたし、学生時代に模擬国連や国連職員の方にお会いするなど、国連に関するイベントには積極的に参加していました。これは、義務感でやっていたというよりは夢中になっていてやっていたというほうが正しいように思いますし、常に「意識」 していることで、自ずと行動が意識に伴いそして結果がついてくる。その意味で、まずは目標を意識することが一番大事かと思います。
多くの人は、年齢を重ねるにつれ安定を求めて傾向にあると思いますが、個人的には、「安定」は「安く定まる」 なのであまり格好いいとは思えません。もちろん挑戦すると失敗するリスクもありますが、それでもまた立ち直ると思うことができればそれで大丈夫だと思います。印象に残っていることなのですが、中学時代の先生が40代前半で俳優としてハリウッド・デビューしました。彼はずっと俳優になりたいと生徒に語っていたような人で、彼の行動力をみて、それ以来、年齢ではなく夢があって努力をし続けていれば道は拓ける、ということを強く感じています。あとはやっぱり自分が最期を迎える際にいろいろ経験していたほうが面白いかなと思いますね。もちろん自分がその渦中にいるときはたいへんですが、人生はアドベンチャー的なほうが面白いと思います。
2015年9月25日ニューヨークにて収録
聞き手と写真:長谷川晶子、田瀬和夫
編集長:田瀬和夫
原稿起こし等:長谷川晶子、田瀬和夫
ウェブ掲載:田瀬和夫