小山淑子(こやま・しゅくこ):東京都出身。筑波大学国際関係学類を卒業後、民間企業勤務を経て英国ブラッドフォード大学にて紛争解決学修士号を取得。国連軍縮研究所(UNIDIR)にてカンボジアやアルバニアでの小型武器の調査、国連PKOミッション(コンゴ民主共和国)にてDDR及びSSRに従事した後、2006年ILOジュネーブ本部の危機対応再建部に着任。2011年より同アジア太平洋総局で危機対応専門官を担当し、2016年2月に退職。 |
Q. 小さい頃から興味があったことを教えて下さい。
世界のあちこちに行って普通の人々の生活を紹介する日曜日の朝のテレビ番組、『兼高かおる・世界の旅』が好きでした。色々な文化が混ざるということにとても興味があって、特に、中央アジアやコーカサス地域で様々な民族が混ざり共存している姿に、強烈に憧れました。それで、学部から博士課程まで、コーカサス地方のジョージア(グルジア)をテーマに論文を書きました。だから、原点はわりと小さな時から興味があったことなんだと思いますね。
国連に初めて触れたのも割と早かったです。10歳のときに叔母がナイロビ出張から帰ってきて、「まさかナイロビで日本人、それも女性に会うとは思わなかった。ミーティングで国際機関に行ったら、相手の方が日本人女性の職員の方だった」と言うのを聞いて、そんな仕事もあるんだと知りました。実はその時叔母が会った方が30年後、バンコクで私の上司になりました。数年前まで国際労働機関(ILO)アジア太平洋地域総局長をされていた山本幸子さんです。とても不思議で、大切なご縁だと思っています。
Q. 大学では何を勉強したいと思いましたか。
大学受験の時、自分は何をしたいのか考えてみました。日本の技術、特に医療技術などはすごく高いものがある。でも、ほかの国では、日本では当たり前の技術が当たり前でなく、でもすごく必要とされていることがある。だから、日本人が当たり前と思っているそうした技術を世界の他の国々でも役立ててもらえるようにするお手伝いがしたいと思いました。なので、そういうことができるようになるための勉強をしようと思いました。それから20年近く経ち、2013年、台風30号で大きな被害を受けたフィリピンの被災地で業務にあたっていた時、ふと大学受験のころを思い出し、今まさに自分が当時思い描いていた仕事をしているんだなあと感慨深かったです。
Q. 小山さんが見つけた自分の専門性や強みって何だったのでしょうか。
二つあると思います。一つは小型武器やDDR(Disarmament, Demobilization and Reintegration:武装解除・動員解除・社会復帰)、SSR(Security Sector Reform:治安部門改革)などの、紛争地での安全保障分野に関する知識と経験。もう一つは、そういった自分の専門分野や、他の専門家たちの知識をどこで使えばいいのか文脈化する力。
ILOも専門家集団とされているんですけれど、その専門知識は必ずしも十分に活用されていない場合もあります。例えば、武力紛争が終わった後のリベリアに滞在していた時、滞在先のホテルの従業員に言われたことがありました。彼は、なんとか戦争を生き延びてそのホテルでのボーイの仕事に就いたのですが、病欠も有給休暇もない。自分たち従業員の待遇改善をホテルのオーナーに申し入れたいけど、どうしたらいいのだろうか、と。
紛争復興社会で有給休暇なんて贅沢だ、と思われる方もいらっしゃるかもしれないですが、働く人の権利がしっかり保障されていなければ本当の意味での平和はなかなか定着しません。紛争地域や災害復興地域で、復興支援とは関係ないと思われることの多い労働基準など、人々の仕事関連の課題をしっかり捉え、適した専門家を連れてきて、中長期的に支援する道筋をつくる。そうした高度な専門知識を紛争復興社会や自然災害の被災地など、普段とは異なる文脈で活用していくという仕事のしかたは、ILOで学んだことの一つです。
Q. 経験のない若い世代が、自分の強みや何に生かせるかを見つけるにはどうしたら良いでしょうか。
まずは自分が何を好きなのかに注目してあげるとよいと思います。そしてバランスよく食べ、体を動かしてよく寝る。そうしていると、自分の中にある羅針盤(私はinner compassと呼んでいます)が整ってくる。その自分の中の羅針盤が指す方向に従っていれば、まあ大丈夫なんじゃないでしょうか。
でも、迷いますよね。私は大学時代、作業療法士になろうと思ったことがありました。紛争地で障害を負った人たちに作業療法を通じてお手伝いがしたいと思って。それで、当時ゼミの教官だった秋野豊先生に相談したら、「やりたいことはいろいろあるだろう、そのやりたいことの針が振り切れない範囲での選択をした方が良い」と言われました。インターンをさせていただいた施設の作業療法士の方々にも、「現場に来るより、厚生労働省などの中央省庁に行って、現場の意見を取り入れた政策をつくってほしい」とアドバイスをいただき、目指すべき方向が定まった気がします。リハビリの現場では足手まといになるばかりで、まったく作業療法士には向いていないということでもあったのでしょうが(笑)。
Q. 現在、お仕事を通じて日本との関わりが増えたとのことですが。
2012年から2014年まで、東日本大震災の復興の取り組みを取りまとめるプロジェクト*2を担当しました。いろいろなアクターが復興に関わっていた中で、雇用と労働の分野でどのような取り組みがされていたのか取りまとめ、教訓を導き出して海外に発信するというプロジェクトです。とある国際機関の方から、阪神大震災の時の取り組みや教訓は日本語ではたくさん出版されている一方、英語になるとその5%程度しか入手できないと聞きました。これは、教訓という宝の持ち腐れだと思い、厚生労働者の方にお話をして、日本の災害復興の教訓を国際的に共有するため、このプロジェクトにご支援いただけるようになりました。
Q. 東日本大震災のプロジェクトに関わられて、小山さん自身にとって大きな教訓は何でしたか。
日本人が当たり前に思っていることが、私たちの生活や命を守ってくれているのだということです。日本には年金制度があり、健康保険制度があり、失業すれば雇用保険・失業保険があるのが当然と思っているけれど、そのような社会保障制度が行き届いた状態というのは、世界では必ずしも当たり前ではないのです。東日本大震災が起こった時、命は助かった、でも明日からどうやって食べて生きてゆけばいいのだろう、となった時に、当面は食いつないでいくくらいの社会保障が、日本にはありました。でも、他国の被災地、例えばハイチにはなかった。2010年、大震災に襲われたハイチでは31万人以上とも言われる方が犠牲となりました。ILOはハイチの復興の際に、国際社会と協力して社会保障制度をつくる支援を行いました。社会保障制度が普段の生活を支えるだけでなく、災害復興の際にとても有益だということを、日本は自らの実例をもって強く世界に発信して行けるんです。
もう一つ特徴的だったのは、日本では「人々の雇用を復興の中心に据える」ということを念頭に発災直後からアクションを起こしていたことです。これは世界でも稀な例です。人々を中心に据えた安全保障、まさに「人間の安全保障」的な考えだと思います。政府、経済団体、労働組合など、皆さんが人々の雇用が犠牲になってはいけないと最初から仰っていた。阪神大震災や中越地震などそれまでの復興の経験・教訓が積み重なってきたものでしょうか。様々な災害を乗り越えて培ってきたこうした教訓を日本だけに留めておいてはもったいない。それに日本は第二次世界大戦後から東日本大震災まで、これまで世界の方々にたくさん助けてもらっています。世界に日本が得た教訓をお分けするのが世界にできる恩返しだし貢献だと、日本人職員として思います。
Q. 今までで印象に残っている国と仕事はありますか?
全部ですね。全部印象に残っています。例えば、2009年にスリランカの内戦が終結する直前、DDRの政策を策定する支援をしていました。政治的にもプレッシャーが強い状況で、二週間くらいろくに寝ず飲み食いもせず取り組んでいました。滞在していたホテルの目の前には、数か月前に自爆機が突っ込んでできた穴が開いていました。数年が経ってコロンボを訪れた同僚から、街が綺麗になって色々なお店もできていたと聞いて、自分たちがしていたことは、平和をつくる何らかのお手伝いになったのかなと思いました。
でも、久しぶりに日本に戻って日本の労働環境を見ると、他の国のことをやっている場合ではないと感じもします(笑)。仕事の生産性も効率も良くないし、アウトプットを出すことや質よりも、技や型にいきがち。目の前のことや、書面などの体裁を整えることに多くの時間と労力を使い、「何のためにこの作業はあるのか?」ということはあまり気にしていない。いい言葉ではないですが、“white collar slavery”という言葉が浮かびます。予定を手帳に書き込むとき、どれだけの人が家族の時間や趣味、自分の肥やしになるような約束を、仕事より先に入れているでしょうか。自分がどう生きたいのかのビジョンがしっかりしていないと、例えば、会議の予定が入ることで自分が必要とされていると錯覚してしまうかもしれません。
Q. 大変だったけど糧になったとき、成長できたときってどういうときですか?
初めて国連に就職したのは国連軍縮研究所(UNIDIR)でした。当時、その業界のメインストリームは「中年男性、白人、英語がネイティブで元軍人」でした。ポストに合格した時に上司に言われたのは、「あなたは若い女性でアジア人。英語は第一言語でなくて軍人でもないから、この業界でまともに扱ってもらうために、まず博士号は取りなさい」ということでした。実際に仕事を始めて知ったのは、この世界は、自分が考え書いて発表したものだけが評価の対象という、シンプルな実力の世界でもありました。大変負荷のかかった状況でしたが、とても鍛えられました。
それから、西アフリカのマリ共和国で調査中、地元で揉め事があったことがありました。マリの国軍から派遣されている州知事と私で地元の遊牧民の部族長と話し合ったところ、後日「この日本人の女は話がわかる。第4夫人として迎えたい」と言われたことがありました。現地の風習に則って、ラクダ一頭と交換だとのことだったので、冗談で上司が、日本人なのでトヨタのランドクルーザーではどうですかと伺ったら、そこまでではないと言われ、断られたこともありました。
Q. インテンシブな仕事のときでも踏ん張れる情熱はどこから来るのでしょうか?
インテンシブな時があるからこそ、普段からメリハリをつけてメンテナンスをするようにはしています。でも、コンゴ民主共和国で武装解除の仕事をしていたとき、若いゲリラの男性に、武装解除して自国に戻ったら普通の暮らしが待っていると話をしたら、「普通の暮らしって何だ」と聞かれ、そこでとっさに説明できない自分がいました。それまで何年も仕事ばかりしていたからか、「普通の生活」がどういうものか、わからなくなっていました。
別のゲリラ兵の人たちからは、「仕事があれば今すぐにもゲリラなんかやめて国に帰りたい」とも聞かされました。「そうか、じゃあ仕事をつくればいいんだ、仕事のことを担当している国連機関はILOだ、じゃあILOに行こう」ということで、ILOに来ました。
国際協力、特に、災害復興や平和構築の分野では、「仕事」という課題はこれまであまり中心には据えられていませんでした。ILOは、現場での要請は強いのに、グローバルには機関間常設委員会(Inter-Agency Standing Committee: IASC) にも、今現在入っていないんです。私はILOに入って、ILOが必要とされている場所にILOを連れてきたかった。「仕事」は、紛争地でも災害地でもとても関連があるということを、国際社会にもドナーにもILOにもわかってほしいと思ってILOに入って、それはある程度実現できたかなと思います。
Q. キャリアゴールを聞かせて下さい。
学生時代に知ったアメリカの「アカデミアと実務者の間を行ったり来たりする人」という意味の、”in-and-outer”という言葉が、印象に残っています。日本社会も国際機関も、業界の垣根を超えた人材の移動がまだまだ少ないように感じます。国連職員も陥りがちですが、ある専門分野だけ、又はある組織の中だけでやっていると、近視眼的な発想に陥り、変化やインパクトをもたらす仕事がなかなかできなくなってしまう。もっと柔軟な組織運営や人材登用の仕組みをつくって、組織だけでなく社会全体が活性化すればいいなと思います。
東日本大震災の時に、すべては人次第だなあ、と思いました。プロジェクトを運営する中で日本の様々な民間企業、自治体、NPOの方々と仕事し、そこで見たのが彼らのスピード感と柔軟な発想、そして立場を超えた繋がり方でした。日本には保守的なイメージを持っていましたけれど、すごく革新的な時もある。自分が生まれ育った社会にコミットすることの面白さも知りました。
ここ数年でマネジメントも任されるようにもなり、仕事の面白さの幅が広がりました。管理職になると、やりたいことに予算を確保したり、今までは採らなかったような経歴の人を採用する権限を持てるようになる。事業計画を設計して通す力もついてくるし、それなりの立場もできてくる。今後は、いろいろな人が、いろいろなことを試せる環境や機会を提供できるようにしたいと思っています。そうやって、様々な背景や世代の人々が柔軟な生き方ができる、深呼吸ができるような場所を、組織の内外、社会の中につくっていきたいと思います。
Q. 国際協力に興味があるけれど、なかなか一歩を踏み出せないという若い世代に、一言メッセージをお願いします。
考え過ぎないで、やってみたら良いと思います。若いうちは体力もあるし、傷ができたとしても治るのも早い。とにかく行動してみたら良いと思います。考えるのは、その後でもできますから。
2015年2月7日東京にて収録
聞き手と写真:藤田綾、田瀬和夫
編集長:田瀬和夫
原稿起こし等:藤田綾
ウェブ掲載:田瀬和夫
*1:2016年2月にILOを退職、同年9月より早稲田大学非常勤講師。
*2:東日本大震災復興プロジェクト:
https://iloblog.org/2013/09/27/nurturing-life-after-japans-tsunami/