第169回
北島砂織さん
国連世界食糧計画(WFP)ルワンダ事務所 地域モニタリング・評価担当官
北島砂織(きたじま・さおり):大学卒業後、外資系証券会社に4年間勤務ののち退職。アジア学院(栃木県)にて有機農業と途上国の農村開発を学び、開発と食のつながりに関心をもつ。アジア経済研究所開発スクールを経て、コーネル大学国際開発修士課程修了。2003年より国連世界食糧計画(WFP)に勤務。ネパール事務所にて、ブータン難民プロジェクトならびに農村開発プロジェクトを担当。アジア地域事務所、スーダン事務所勤務ののち、育児休暇を経て、2014年からルワンダ事務所にて現職。 |
Q. 国連職員・国連世界食糧計画(WFP)で働くまでの経緯を教えてください。
最初に国際的な問題に興味を持ったのは、偶然カンボジアのクメール・ルージュに関する映画を見た時です。それまでは戦争といえば生まれる前の第二次世界大戦のことしか知らなかったので、自分の生きている時代にも戦争の問題があると気づいたのが中学生の時でした。国連に目が向いたのは、高校生の頃からです。国連の仕事をするためには国際法が役に立つのではと考え、大学では法律を学びました。また、大学生になるまで海外へ行ったことがなかったのですが、英語力を鍛えたかったので交換留学生としてアメリカへ行きました。
卒業後は経済がどう動いているのか、お金はどう回っているのかを勉強しようと、民間の外資系証券会社に勤めました。開発分野における専門領域としては、国際金融分野を考えていましたが、会社員時代にアジア通貨危機が起こり、金融という分野に疑問を持ちはじめました。私は投資・投機マネーをめぐる金融の動きについて考える時、恐竜を想像してしまうんです。金融商品を売買するディーリングルームは恐竜の頭の部分の様なもので、頭が動いたときにはしっぽが何をなぎ倒しているのかが見えていない。毎日朝から夜まで日付とゼロがいくつも並ぶ数字だけに向きあい、季節感のない日々を過ごすうちに、ジレンマに陥りました。
そんなある日、有機農業を通じて途上国の指導者を育成するアジア学院(栃木県にあるアジア農村指導者養成専門学校)へ行く機会があったのですが、そこであるインド人との出逢いに心を動かされました。その方がおっしゃっていた「何が役に立つのか、頭ではなく手で感じたい」との一言にやられちゃったんです。当初は会社を辞めて修士過程に進むことを考えていましたが、こちらの学校に入ることを決めました。アジア学院に行ってよかったなと感じることは、英語を母語としない途上国の方と一緒に過ごす中で、英語は上手下手でなく、先方に絶対に伝えたいと思う気迫が大切なんだと気づけたことです。
また、私は社会システムの課題は社会の弱いところに表れやすいなと感じていました。家族の弱いところが子どもに表れてくるように、地球規模の課題は食に出てくることが多いんじゃないかな、と。私も会社員時代はコンビニ食のお世話になることも多く、健康に関して特に意識していたわけではありませんでした。農家としての実践者になりたい、あるいは有機農業が健康にいいから興味を持ったというより、食はシステム的な観点からものすごく面白い切り口だなと思ったんです。また、有機農家の方々と触れ合う中で、経済発展至上主義の弊害、自然との共存といった大きな視野を持ちながらも、足元から変化を起こそうと土を耕す彼らのダイナミックな生き方に触れ、食の分野は面白いと思ったんですよね。ただ、国際開発に関わりたいという想いはあったので、独立行政法人日本貿易振興機構(JETRO)のアジア経済研究所に入り、コーネル大学に進学しました。そこで食の生産から流通・消費までの一連のシステムに関しても学び、在学中にジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO)採用試験を受けました。どの機関を希望するか悩んでいた時、WFPは農村開発を行っており、どんどん途上国の現場に飛び込んでいくことができると知り、WFPを選びました。
ただ、これまで金融の仕事をやっていたので、最初に頂いたオファーは予算編成だったんです。悩んだ末にお断りしたのですが、新たにネパールでの難民支援のオファーを頂き、そこで働くことを決めました。2003年から2006年までネパールに駐在し、新しい農村開発プロジェクトの立ち上げにも関わることができました。プロジェクト・マネジメントの仕事は楽しかったです。私は、NGOや現地の方と一緒に仕事をするのがすごく好きなんです。
その後はアジア地域事務所に勤め、さらに緊急援助を一度経験したいという思いもあり、スーダンに赴任しました。紆余曲折がありながらも5年間の育児休暇を経て、2014年からルワンダで働いています。子どもは今7歳と5歳で一緒にルワンダで暮らしています。他の国に比べて治安もいいので、とても暮らしやすいです。
Q. 現在、ルワンダでは主にどんなお仕事をされていますか?
農家の方に市場を提供することです。2009年より、WFPは小規模農家から作物を適正な価格で買い取り、その食糧を別の場所で支援食糧として配布するプロジェクトを行ってきましたが、この先10年も20年もWFPが安定した買い手としてあり続けることは現実的ではありません。そのため、Farm to Market Alliance (FtMA)という、小規模農家を民間の買い手や金融業者などと繋ぐ、WFPとしては革新的なプロジェクトを行っています。ルワンダではちょうど今が植え付けの時期ですが、農家が自分の農地での生産性を上げたいと考えた時に、もし農作物の買い手が既に決まっていれば農家は少しお金を投資しようという気になるし、買い手との契約書をもって金融機関からお金を借りることもできるわけです。私はそのような仕組みを作っていて、ルワンダでは3年目になります。
作物はトウモロコシと豆を対象としています。個別農家にとっての収益性の観点からいうと、輸出用作物の方が付加価値が高いのですが、WFPは一部の農家ではなく、大多数の農家が自分たちで食べて生活できるよう持続的な発展を支援するということをミッションとしているので、広く栽培されている穀物を選びました。今のところルワンダ国内における対象農家は3万人くらいにまで増え、買い手は5社になり、マイクロファイナンスや商業銀行、国際金融公社(IFC)もサポートしてくれています。今この仕組みがザンビア、ケニア、タンザニア、ルワンダの4か国で走っています。これまでルワンダ案件を担当していましたが、今年から全対象国におけるモニタリング評価を担当するようになりました。
WFPは機動力が高く、新しい取り組みにおいても走りながら考える機関です。自由度が高いのですが、その分すべてがお膳立てされて始まるプロジェクトというのは少ないのです。私の担当プロジェクトも、自分でつくり上げていく部分が大きかったですね。最初はタンザニアとルワンダ案件の立ち上げを同時に担当していましたが、農家との繋がりがあるわけじゃない、契約間近な買い手がいるわけじゃない、資金調達先も決まっているわけじゃない、ないない尽くしです。まるで飛び込み営業のように、全部ゼロから始まったんです。まるでフル回転の洗濯機に訳も分からず投げ込まれ、上も下も分からないというような感じでした。
このプロジェクトの面白さの一つは、国連という看板にも助けられ、何かいいアイディアがあった場合に色々な関係者の糸をたどって繋がっていけることですね。また途上国の企業の社長など、東京の金融市場で働く人とはまた違った面白い考えを持った人に出逢えることもとても刺激的です。
Q. ルワンダでお仕事をされていて、特に大変なことは何ですか。
途上国ならではの大変さはもちろんあります。小さなことでも落とし穴になりかねないので、先を予測することは途上国の生活では欠かせません。また、現地の方とうまく仕事をやっていくことは一番重要ですね。現地のスタッフがいなければ何もできないですし、そもそも彼らの国ですからね。上司と部下という関係ではありますが、数年で去っていく私たちの扱い方を現地スタッフはよく知っており、外国人である私たちの仕事のやり方、姿勢をよく見ています。甘い考えのまま物事を進めるとどこかでほころびが出てきてしまうので締めるところは締めて、相手へのフィードバックも面と向かってしっかりやっていくようにしています。
Q. 働く女性として、キャリアと子育ての両立についてどのように思われますか。
私は、実は5年間仕事から離れていたことがあるんです。結婚も子どもを授かったのも遅かったので、なるべく子どもの近くにいたいという想いがありました。今、子どもたちは7歳と5歳で、2人目の子が2歳になる頃に職場復帰しました。子育てをするなら絶対に途上国ですね。子育て・家事のアウトソーシングがかなりできますし、職場の理解もあります。結果さえ出せれば働き方に縛りが少ないので、仕事を持ち帰ることも、遠隔での仕事も可能です。また、同僚と同じように働けないからといって、職場での人間関係が悪くなることもありませんでした。かつて父が癌で闘病していた時はまとめて休暇を取らせてもらい帰国していましたが、同僚は理解を示してくれました。全員が互いにカバーしあうのが当たり前、という職場の雰囲気はありがたいですね。
Q. 仕事を離れていた5年間で気づいたことはありますか?
自分は完璧主義者だったなということですね。子どもを持ったことで、自分がコントロールできる範囲は限られていると感じましたし、イライラが募って育児に向いていないと感じたこともありました。でも大変なことは多かったけれど、自分の思い通りにならないことに向き合うというのはいい訓練になりましたし、今になってみると本当に子どもが可愛いんですよね。映し鏡のように、愛情を注ぐと返ってきますし。出産・育児を経験した5年間は、人生の大きなターニングポイントでした。
Q. 国連の一番好きなところと嫌いなところを教えてください。
国連の好きなところは、民間の金融業務に携わっていた頃と比べると自分のゴールに立ち戻りやすい点です。国連の仕事は必ずしも常にきらきら輝いているわけではないですが、人の生活に役立つことをしようという国連の目的と、国際的に働きたいという自分の希望とが重なっているので、普段の仕事が自分の心が求めるものに近いです。弱い立場の人も含めて皆に利益を分配できるようなシステム作りの役に立ちたいという自分のゴールに立ち戻れるのは、国連特有のよさだと思います。
高校生の頃の夢は通訳者でした。他者の言葉を私なりに咀嚼して別の人が分かりやすいように伝える、ということが好きだったのですが、これは今の仕事でも日々やっていることです。私は、視点の異なる人をつなぐことがコミュニケーションの要だと理解していますが、これは開発に携わる人、特に私のようにプロジェクト・マネジメントをする人間にとっても役立つ考え方ではないかと思います。現地スタッフや農家の抱える問題をどういう形で伝えれば、ドナーや投資家など現場から離れたパートナーが理解できるか。これは、いわば開発の通訳者のような働きだと思うんです。自分が関わったことで、相手にメッセージが上手く伝わり、そこから相互理解、新たなつながりや協力関係が生まれてくる。それが国連で働く中でも特に楽しい瞬間です。
逆に嫌いなところは、締め切りが守られないケースが多い点でしょうか。活動に資金を必要とする以上、ドナーの意向を尊重し、また国連という官僚的組織のプロセスを遵守することは大切ですが、時間がかかります。一方で現地の受益者に目を向け、結果を出すためには、農業サイクルにまつわる期日やビジネスプランをしっかり守って、ずるずる引きずらないで物事を進めなければなりません。
Q. 北島さんの人生にテーマやモットーはありますか。
「世直しよりは自分直し」ですかね。いろんな物事のダメな点を批判するよりも、どうすればいいのかを考えて提案していくには、物事の原理原則にかなって動くのがいいんじゃないかと思ってるんです。原理原則とは、例えば、自分が人にあげたものは返ってくる、といった基本的なことです。まずは自分の身近な人を大切にし、信頼を広げていくことが周りの変化につながっていくと思っているんです。政策立案やマクロ的視点から、物事をどう梃子のように大きく動かせるかを探ることは重要ですが、一方で、今向き合っている相手を尊重し、いかにまっとうに関わることができるか、そのバランスが大事ですよね。いつも軸を探っている感じです。
Q. 今はお仕事をバリバリされていますが、一生最前線にいたいという想いはありますか。
実はやめるという選択肢はいつも自分の中に持っています。出産をする時もそうでした。自分の足元が崩れて私生活や健康とのバランスが取れなくなってしまったら、仕事をやめた方がいいと思っています。身を削って仕事をしてしまうこともありますが、何のために仕事をするのか、ということは考えないといけないですよね。私もいろいろな想いから国連を目指したわけですが、若いころは自分の存在価値を示したいという想いが今より大きかったんです。でも自分ではなく他人の中に指標があって人と比べることが主軸になると、苦しいですよね。判断基準を人に求めてしまう気持ちも分かるのですが、本当は自分の中に変化を起こすポイントは小さいことでもたくさんあると思うんです。人との接し方一つで歯車がいい方向に回っていくこともありますよね。でもそれに気づくことさえできなくなってしまったら、休んだっていいと思います。いつでもスタートはできますし、チャンスは常にあると思いますよ。5年休んだ私がそう思います。
Q. 北島さんの楽観主義で前向きな姿勢はどこからきているんでしょうか。
過去に失恋したことがあるのですが、その時に八方ふさがりに見えても出口はあるという感触をつかめたからでしょうか。家族への感謝の気持ちを改めて持つようになり、人との関わり方を考え直すきっかけになりました。自分が変わることで少しずつ周りが変わっていくんだと思いましたね。「危機は機会」と言いますが、永遠に八方ふさがりなことはないと信じています。
Q. これまでのキャリアの中で一番チャレンジングだった仕事は何ですか。
3年前、WFPで農家と民間業者をつなぐプロジェクトをゼロから始めた時期でしょうか。その時は体重も減り、もう身がもたないなと思ったこともありました。当初のプロジェクトの青写真は、現地の事情と噛み合っていない部分もあり、さまざまな制約がある中でパートナー関係を構築していかなければいけない状況でした。足場を築くために当初は体当たり、そして手探りの日々でしたが、パートナーとなり支援してくれる人は小さな突破口から現れてくることを感じました。この経験は今ではありがたいなと思っています。
Q. これまでの経験も踏まえて、これから挑戦してみたいことを教えてください。
具体的な形にはなっていないのですが、やっぱり私は農家さんのことが気になるんです。農家の方にとっても価値のあるアグリビジネスのモデルづくりに貢献できたらいいなと思っています。今は低価格のトウモロコシと豆をターゲットにしてプロジェクトを進めていて、これがどこまでいけるかはわからないですが、もう一歩その枠から離れて、何かいいビジネスモデルづくりに関わっていきたいです。立場の異なる人たちをつなぐ開発通訳のような役割をこれからも果たせていけたらいいかなと思いますね。
Q. 国際社会で働いていて日本を意識することはありますか。
もちろんあります。金融業界を経験したこともあり、物事の細部まで厳しく見てしまいますし、自分が日本人だなと思うこともあります。チームにインド人のスタッフが多いのですが、彼らはビジョンを語るのが上手です。一方で、私は地に足をつけてプロジェクトを推進していく役割です。働く場所に関しては、海外で働けることは家族の理解や自分の健康があってのものなので、そもそもすごく幸運なことですよね。そのため、自分で優先順位を決めて、帰る時は帰るようにします。日本にいてもいなくてもいろんなことはできるので、国際社会で働くことの先にある価値観を考えておくといいのではないでしょうか。ルートはひとつではないので、いつも心が求めるものは何かということを考えておくと良いかもしれませんね。
Q. 最後に、国際社会で活躍することを目指す次世代の人にメッセージをお願いします。
きっと大丈夫です、ということでしょうか。自分の中で変えられることはたくさんあります。ゴールは遠かったとしても階段は必ずあるので、自分で変えられるところから着実に変化を起こし、ゴールを目指して頑張ってください。
2017年9月20日、ルワンダにて収録
聞き手:原田千尋、田島真理恵
写真:田瀬和夫、並木愛
編集:大津璃紗、山内ゆりか、岡本エ
プロジェクト・マネージャ:岡本エ
ウェブ掲載:三浦舟樹